あの光景を見てから早く元の世界に帰らなければ、と焦る気持ちは空回るばかりだったが、
噂に聞いていた『望んだ場所に移動できる異能力者』とやっと渉りをつけることができた。
そうして、今日、私は元の世界に帰るのだ。
人気のない待ち合わせ場所には一人の男、かの能力者がいた。
事前に告げた行先には驚いていたようだが、真実嘘偽りなく彼には元の世界の所持品なども見せて証明をしてみせた。
本当に上手くいくかは不安だったが、曰く今迄彼の能力で行けなかった場所はないらしい。
失敗は、
――― おそらくないだろう。
待ち合わせ場所に向かう私の足取りは何故か、とても重い。
此処に来るまで、私は決して消すことの出来なかった電話番号を何度も眺め、彼とよく行った場所にも足を向けそうになってしまった。
ここにきてまで何時までも女々しい自分に自嘲する。
「……本当に、いいのですか?」
男が最後の確認をする。
「……はい、私、訳も分からず、この世界に来て、」
大変だった。けれど
――― 今、頭を占めるのは、……。
これ以上想ってしまったら私は帰れなくなる。だから、
「だから、早く、早く、帰らないと……」
「許さないよ」
温度のない声にひやりと背筋に冷たいものが走る。
ここに居るはずもない声が、忘れられない声が聞こえる。
追いつかれてしまった。何故か直感的にそう思った。
「やあ、久しぶりだね、なまえさん。元気にしていた?」
先程の声とは打って変わっていつも通りの朗らかさで話しかけられる。
そして私ににっこりと笑いかけた笑みをすぐに消し、能力者の男の肩に手を置いた。
「情報、ありがとう。……君はもう消えてくれないかな」
底冷えするような視線を向ける太宰さんに男は顔を青くしながら走り去っていく。
「えっ、待ってください!」
思わず後を追おうと足を踏み出した私の前に太宰さんが立ちふさがるように進路をふさぐ。
「さあ、邪魔者はいなくなったことだし、二人で少し話をしようか」
それ以外は許さないと言外に告げられる。
「………、どうして、此処に?」
「却説、どうしてかな。どうして私が此処に居るか、君には全く心当たりがないと云う心算かい?」
――― 心当たりならある。
まだ私が彼と頻繁に会っていた頃、こんな異能力を持った者もいるんだと話してくれた中にあの能力者はいたのだ。
その時は元の世界に帰る手立てとして、もしかしたらと心に留めておいていた。
勿論、私は太宰さんに自分が異世界から来たことは云っていない。だから、私がその能力者に興味を持っていたことだって知らなかったはずだ。
「元々あの能力者の事を教えてくれたのは太宰さんです。だけどもう……」
もう私は太宰さんにとって関係のない人間だ。
最後に会った時の彼の申し出を断った上に、この数か月間、全く連絡をとらなかった。
何より彼にはもう恋人がいるのだ。元々恋人ですらなかった私の事など今では如何でもよいのではないのだろうか。
どうして今になって
――――
「……、何故こんな邪魔をするんですか?」
「何故…?何故だって?あはははっ、……ねえ、それ、本気で云ってる?」
頭に手を当て大袈裟に笑ったかと思えば、その瞳が私を静かに見つめる。
「…………本気、なんだね」
おそらく困惑した顔をしている私に太宰さんは悲し気に目を伏せた。
そうして意を決したように私に一歩近づく。
「ねえ、あの時の告白をやり直せないかな。
……ちなみに君が勘違いしている女性だけど、あの男の恋人で今回の事を快く教えてくれたんだ。
私が君を想う気持ちはあの時から変わっていないよ」
そう云って私の両手を取り、握りこむ。真っ直ぐに私を見つめるその瞳は何時だって私を戸惑わせた。
「私はどんな君だって受け入れられるよ。
この世界の人間じゃなくたって何だって。
できれば恋人として、私とこの世界で生きてはくれないかい?」
「君と離れたくない」と小さく呟く彼に胸が痛む。
自殺未遂を続ける彼が、私と『生きる』と云ってくれたことにあの時も今も涙が込み上げてきそうになる。
そしてそれに応えることができない自分が嫌で目を逸らしてきた。あの女性のことだって安堵している自分に自己嫌悪を覚えるほど嬉しいのに
―――――― それでも私は変わらず彼を選ぶことができない。
「ごめんなさい。……私はこの世界で太宰さんと生きていくことはできません。
待っていて、くれているはずの家族と友達がいるから」
「其方が大事なのかい?…………、私よりも」
まるで置き去りにされた子供のような表情を見せる太宰さんに罪悪感が募る。
見ていられなくて俯きながら「ごめんなさい」と小さく繰り返した。
続く沈黙が重い。
握られている手を早く放してほしいとさえ思い始めた時
――――
「本当に嫌になるな」
恐ろしい怒気を含んだ声が響いた。
思わず躰がびくりと震え、その声が太宰さんとは信じられず顔をあげる。
――― 表情の剥がれ落ちた、能面のような顔が、そこにはあった。
「君との駆け引きは本当に予想外の事ばかりで困るよ。
予想だと君は帰ろうとする前に私に連絡をしてくれるはずだったんだけど……」
淡々と、抑揚のない声が私を責めるように紡がれる。
「私はどうにも君に関する事だと夢見がちになるらしい。
自分のツメの甘さが嫌になるよ。
他ならぬ君自身に私を選んでほしかった、……だなんて。私らしくもない」
やれやれ、といった風に首を横に振るが、その顔には感情らしきものが未だに窺えなかった。
いつもの表情豊かな彼との違いに不安を覚え、手を握られているにもかかわらず、一歩後ろへ下がる。
―― カツン、とその一歩の音だけが、嫌に反射して響く。
それに反応したかのように此方に視線を向ける太宰さんは顔立ちと相まって彫刻のような無機質さだった。
そしてゆっくりと瞳だけが私を通して、何かを狙うように細められる。
「邪魔だよね。君が大事にしている奴らも、……君を元の世界に戻せる奴も」
心臓が跳ねる。頭を占める予感に今すぐにでもあの能力者を追いかけていきたい。
「あっ、そうそう、あの男だけど、この先、君に協力することはないよ。絶対にね。
……彼も自分の恋人の方が大事なんだ」
私の思考を読んだかのような言葉と、その意味を理解したくはなかった。
「君が私よりも元の世界の奴らが大事なように、ね?」
「お、怒っているん、ですか?……私が、その、元の世界を選んだことを」
この期に及んで馬鹿な問いかけをしてしまう自分が嫌になるが、信じられないのだ。
先程の発言の意味を、……能力者の男たちにしたであろう、ことも含めて。
「いいや?これはただ自分の甘さに苛立っているだけだよ。君に怒っているわけじゃないから安心して?
だけど、……君がこれからもあの男に会おうとするなら、今後彼らがどうなるのか。今の私にはわからないなあ」
明らかな脅しだ。
恐怖から手を振りほどこうとするがしっかりと握りこまれていて手を動かすことさえできない。
「……また私から逃げるのかい?君は逃げてばかりで私をちゃんと見ようともしてくれないよね。
それがどんな結果になるのか、教えてあげよう」
太宰さんのかたちの良い唇が三日月をつくる。
「あの男たちにはね、
―――――― 」
告げられた言葉が遠い。血の気が引いてクラクラする。握られた手は熱いのに氷に触れているような寒気を感じる。
「信じて、いたのに…」
「何を信じていたんだい?君に好かれるために優しくしていた私?
でも、残念だったね。逃げた君にはもう優しいだけではいられないかな」
それは今後の君次第だね、と目を細めながら、ゆっくりと私の耳元へ唇を近づけた。
「私はね、これでも人体には詳しい方なんだ。
例えば、何処を傷つければ、痛みで歩く気力さえも無くなる、とかね」
云いながら太宰さんの手が私の足をなぞる。
何処がいいかな、と問いかける彼の瞳には色がない。本気だ。
口から出るのは震える息ばかりで言葉にならない。必死で首を振り答える。
「それなら私に誠意を示してくれないか」
甘い声が私に囁いてくる。
「今迄、こんなにも優しくして尽くしてきた私へのご褒美だよ」
それに対する仕打ちがこれではあんまりではないか、と嘆いたように私の唇に指を添える。
「それが出来ないなら、ねえ、どうしようか?」
怪物の神聖なる花園