「なまえちゃん。こんな時間までまだ残業かい?」
「ええ、お疲れ様です。太宰さんも残業ですか?」

「まあ、そんなとこ」と答えながら、太宰さんはもうすでに帰宅した隣にある私の同僚の席に座る。
彼の名は太宰治。このポートマフィアで知らぬ者はいない、最年少幹部の座につく青年だ。

対する私はしがない下っ端事務要員。
初めて出た現場で実戦で全く使えない奴の烙印を押されたおかげで、年中インドア書類仕事である。
本当ならこうして会話する事さえ有り得ない立場だが、その初めて出た現場の凄惨さに嘔吐している私に唯一「大丈夫?」と声を掛けてくれたのだ。それからも、こうして誰もいない時に気軽に話しかけてきてくれる。

彼はこの世知辛い組織で私に親切にしてくれる善い人だ。
よく上層部の人間や現場に出る輩は太宰さんを『怖い』『恐ろしい人』だと評するけれど、下っ端事務員で現場にも出ない私には関わりがないのでいまいちピンとこない。



「はい、これ差し入れ」
「いつもありがとうございます。…それ、また怪我をされたんですか?」


差し入れの珈琲を渡す手には指先まで包帯が巻かれていて痛々しい。彼は怪我をしていない時がないくらいによく怪我をしている。
「まあね」と頷きながら太宰さんは一つのファイルを取り出した。

「忙しいところ悪いんだけど、この書類のチェック、手伝ってもらってもいいかな?
私の部下がタイミング悪く帰ってしまった後にきた、急ぎの書類なんだ」

初めて仕事の頼みをする彼に慌てて返事をする。

「は、はい。私で構わないのでしたら、すぐにチェックします」

ファイルを受け取り、慎重に書類を一枚一枚めくって読み進めていくが、
「………あの、この書類、私のような者が読んでもいいものでは」

管理職が見るような機密事項が載っている。到底下っ端が読んでいいような内容ではない。

「上層部でも担当だけが厳しく管理している機密書類だからね。
 ―― といってもこれから敵対組織に流出する情報だ」
「それって、かなりまずいんじゃないですか!?」
「あははっ、そうだね。大きな損害を出すだろうねえ」

朗らかに笑う彼は余裕たっぷりに云い切ると、私の手からファイルを抜き取った。

「だから意味がある。君が裏切り者として処罰されるには充分なものだよ」

「…………、えっ?」聞こえた言葉に反応が追いつかない。

身に覚えがない。だって、私はこれを初めて目にしたのだ。
呆然とする私に「情報を全く知らないのも可哀想だと思って」と、彼はにこやかな笑みを崩さない。


「ご、ご冗談を…わ、わたしは何も」
「していないね。でも、それを知っているのは私だけ。しかも私は明日には此処にいないんだ」

それに椅子から立ち上がり声を荒げる。

「此処にいないって出張か何かですか!?そんなの…」
「組織を抜ける。もう二度と、戻らない心算だ」

突然の宣言に驚いて何も云えない私に太宰さんは言葉を続ける。


「現状、君を犯人だと示すものは、私が揃えた状況証拠だけだ。
けれど、今、此処に ―― その確固たる証拠がある」

そう云って彼が目の前にかざしたのは先程のファイルだ。
それが一体何の…、――― !

 ハッと思わず自分の手を見る。

「君は今、手袋をしていないね。それでこのファイルに触れた。此処から検出される指紋は担当者以外、有り得ないはずだ。犯人でもない限りは」
「そんな!だって、そのファイルには現に太宰さんも触って…」

彼は常時手袋をしている現場要員ではない。手袋なんてしているはずは…と彼の手元を見た。

そこには ――― 指先まで巻かれた……、包帯!
冷汗が落ちる。つまり、そのファイルに残っている指紋は担当者以外で私のものだけだ。
状況証拠が揃っている私の指紋が出てきたとなれば、それは、

「早くても明日の朝、この事は露呈する。そうしたら君は裏切り者として捕縛されて、拷問のち処刑は確実だ」

紡がれる言葉は、何が楽しいのか、はずんだ響きを持っている。

「勘違いしないでね。君を身代わりに、というわけではないよ。私にも事情ができてね。組織を抜けるんだけど、其処で気懸りだったのは ―― なまえちゃん、君だよ」
「わ、たし?」

彼も立ち上がり、上から覗き込むように私の瞳をとらえた。

「今迄は簡単に周りの奴らを牽制できたけど、組織を抜けるとなるとそうもいかないから」
「あの、意味がよく……」

「一緒に来てほしい。
ちなみに追手は免れないだろうから、私から離れたらそこで終わりだよ」

その手が私の両頬を包むように添えられる。すると視界には彼しか見えなくなった。

「私が捕まれば君も終わり。君が捕まれば…まあ、私は逃げられるだろうけど一蓮托生だ。添い遂げるよ」
「わ、私と死ぬつもりですか?」
「勿論。どんな自殺よりも魅惑的だね。君と一緒に死ねるだなんて」

何処か恍惚とした表情で囁く彼に震えが走る。それを誤魔化すように私の頬を撫でるその両手を振り払った。

「私は此処に残ります!そんな証拠だけで私を吊し上げられるはずありません。
逃げたら、それこそ私が犯人だと云うようなものです!」

それに太宰さんはニタリっと微笑む。

「おやおや、本当にそうかな?私は完璧に君が犯人である証拠を手ずから整えたんだ。それこそどんな仕事よりも念入りに。
……私の評価、知らないわけではないだろう?」

『マフィアになる為に生まれてきたような男』『敵の心臓を刳り貫くような暴虐』『彼の前で口を閉ざせた捕虜はいない』同僚たちが怯えながら口々に溢していた言葉が頭をよぎった。

その言葉たちがひやりと私の肌を鳥肌たせていく。


「私としても君が組織に殺されるなんて嫌だけど、他の奴のものになるくらいなら、……ね」

私のものにならないなら仕方ない、と濁る瞳が語りかける。

「君が選べる選択肢は…」

太宰さんの指がゆっくりと選択肢の数を示していく。

「無惨に処刑されるか、私のものとして生きていくか、二つに一つだ」

その指を見つめ続けることしかできない私に「選べる時間は少ないよ」と冷たい声が追い打ちをかけるように急かす。

そうだ、もう明日の朝にはこの事が ――
裏切り者の最期を思い出し、ぎゅっと目を閉じて叫ぶ。

「嫌です!私、死にたくありません!
逃げ切れるわけないじゃないですか!?今迄逃げ切れた者が、…何人いたっ、と云うん、です…」

最後の言葉は涙混じりに震えていた。終にはうずくまって頭を抱える。
そんな私を太宰さんは優しく抱き寄せると、私の躰を包むように腕を回す。


「任せ給え。私を選んでくれた、愛しい君を死なせるような真似は絶対にさせないよ。
大丈夫、私のそばを離れなければ生きていける」


耳元で響く、その揺らぐことのない自信を感じさせる声に荒くなった呼吸が落ち着いてくる。
安心させるように私を包み込んでいる彼の体温に身をゆだねると、心細さから縋りつくように抱きしめ返した。


――― それに「愛しているよ」と云う彼に私はただ、頷いた。





愛ゆえに



ALICE+