あなたの夜が悲しそう

夢は小学校教諭だった。何故と聞かれたら、子どもが好きだからと言う単純な理由。だけど、わたしにとってはそれが全てなのだから、それ以外を目指す理由などなかった。
だけど現実は厳しいもので、なりたいからなれる保証などどこにもなかった。そう、採用試験にあっけなく落ちた。そして今、小学校で講師をしているわけなのだ。

「そろそろ帰るよーみんな。」

管理職の呼びかけに残っていた先生たちが答える。時計を見れば20時を回っているところだった。こんなにも働いているのに、正直まだ時間が足りない。いつのまにかこんな時間になってしまっている。それでもこの職を続けようと思ったのは、やっぱり子どもが好きと言う私の思いからだった。
夜道を照らす街灯と月。この辺りは比較的静かで、中心街からも外れている。見上げれば星は見えないが、満月が私を優しく照らしてくれているところだった。

『え』

小さく声が出た。自然と足が止まる。暗闇の中、座り込んでいる人がいたからだ。ここからじゃあまり良く見えない。ちょうど、街灯の光から流れたような場所に座り込んでいるのだから。

『あ、あの…だいじょう…』

声をかけると顔をばっとあげる。ここでようやく男の人だったことに気づく。細く切れ長の目。男の人にしては珍しい長髪。
だけど、そんなことはどうでもいい。彼はずっと左腕を右手で押さえていた。その真っ赤な手で。

『…救急車を呼びます!』

良かれと思ってそう言った瞬間だった。カバンから飛び出したスマホをもった右手をあの赤い手が止めた。

「呼ぶな。」
『でも…血が…』
「いい。放っておけ。今すぐ帰れ。」

冷たくそう言いながら、睨みつけられる。鋭い目つきに怯みそうになりながらも、何故か言葉が出てきた。

『放っておけたら、最初から話しかけてないです。救急車は呼びませんから、傷だけ手当てさせて下さい。』
「何で…」

きっと、走って逃げていくと思っていたのだろう。そんな女が手当てさせろと言うのだから、流石に彼も驚いた顔をしていた。

『…普段から困っている人を助けなさいって言っているので。』

というのは後付けの理由だ。何故かこの人を助けないといけないような気がしただけ。腕時計は21時を回っている。次の日も仕事だと言うのに、こんな夜道傷を負った男と二人きりとは思いもしなかった。

『少し先に公園があります。歩けますか。』

ため息をついた男はゆっくりと立ち上がる。傷が深いのか、赤い血が滴っている。そんな腕に持っていたハンカチを当てた。

「おい!」
『はい、これでおさえてください。ハンカチのことは気にせず。こっちです。』

負傷していたのは腕だけだったようで、ゆっくりだったが、何とか歩ける様子だった。
公園につき、傷口を見せてもらうと切り付けられたような傷があった。

『本当に…いいんですか?病院行かなくて。』
「いい。」
『じゃあ、少し傷口を洗いましょう。』

水道でハンカチを濡らす。ハンカチが少しずつ元の色に戻っていくのと同時に、流れ落ちる水は赤く濁っていた。
それほど、深く切り付けられているにも関わらず、なぜ病院へ行かないのか…考え出すと恐怖が襲ってきそうなのでやめることにした。

『ふきますね。』

少し痛そうに顔を歪めてはいたが、真っ赤に染まっていた腕が少しずつ綺麗になる。綺麗になればなるほど、切り口が鮮明になった。

『痛いですよね。今、家から包帯とか持ってきます。すぐそこなので待っていてください。』
「…なあ、お前名前は?」
『え?あぁ、中宮夢です。』
「くっ…知らねぇ奴に簡単に名前教えんなよ。」

初めて見せた笑顔。一瞬で元通りになったけど。

『…あなたは?』
「一。」 
『はじめさん…だって教えてくれるじゃないですか。』
「ほら、早く行け。この借りは必ず返す。」
『大袈裟な…待ってて下さいね。すぐ行ってきますから!』

だけど、救急箱を持ってきた時にはもうそこに彼はいなかった。

『何だったんだろう…』

まるで夢なんじゃないかと思うくらい、何事もなかったかのような公園。だけどまだ薄く残っている手首の血が現実だと教えてくれる。
あの人は一体何者だろうだなんて考えながらも、腕時計が指す時間を見て慌てて家へ戻ったのだった。