振り払う先、振り向く視線
出て行く、と書かれた置き手紙を見つけてから、早二ヶ月が過ぎていた。寂しさを感じるのかもしれないと思ったが、意外とそうはならなかった。私の心臓に生えてる毛は、剛毛かもしれない。
元々放浪癖のある人だとは薄々察していたし、相手も私の生活にあまり干渉してこなかったのも相まって、私の日々は常に平穏を保っていた。
変な人だとは感じていた。何かしら観察しているし、特に明かしていない秘密の内容も何故か把握していた時は驚いて、警察に通報しそうになった。もしかしてストーカー癖があるのではと疑ったが、一度身の危険を救ってくれた恩人に対してあんまりなので、疑いはそこで止めておいた。そういうのが目に留まる人なのかもしれない。信用出来ないが。それに、彼の悲しそうな目を見ると、彼の手を離してはいけないと思った。
彼は一人でいることを好んでいた。それでも私は身寄りのなさそうな彼を家に招き、家のものは先に使っていいと言った。女の一人暮らしの小さなアパートだが、それでも彼は一言「ありがとう」と言った。ひどく落ち着いて、本当に此処に居るのだろうかと少し心配になったのを覚えている。
見知らぬ超人を居候させてから随分経ったある日、コーヒーを淹れて一息ついていると、彼がぽつりぽつりと身の上話をしてくれたことがあった。弟がいるという。そんな片鱗は彼から全く見えなかったので私はとても吃驚した。弟は皆からとても愛されていて、自分とは到底及ばない立派な超人だと言った。
いつもと変わらない口調でも、弟の話題になると柔らかな熱を帯びていた。兄弟仲が良いんだね、と言うと、彼は途端に寂しい目をした。「そうだと良いな」と小さく答えた。
彼が珍しく悩んでいる日があった。どうかした?と訊くと、暫く無言の後、少し不安げに答えた。自分は恥ずべき存在だと。それでも今の私が誠実でいられるのは、弟の存在を知ってこそだと言う。弟の将来には幸福で希望のある世界であって欲しいと答えた。よく分からないが、その話から推察するに彼は家庭を出て行ったのだろう。それでどういう事情なのかは知らないが、暫く家を離れてから自分に弟がいる事を初めて知り、その弟の活躍を見て自分の今までの甘い行いを顧みて、正しく生きようと心変わりした。
本人と出会って話した事もないのにそこまでの想いがあるのは、彼らしいと思った。捻くれなのに愚直で、現実主義なのに理想主義で、冷静なのに激情家。話で聞く弟よりも人間らしいと思った。弟を想うからこそ、これからの歩みが不安で仕方ないと言う。どうして?と訊くと「あまりにも未来に甘えている」と答えた。
「だがしかし、その甘えこそ私に成し得なかったモノであり、弟を支えている賜物ということも知っている」
私は暫くどういう風に答えて良いか迷っていた。弟を大切に思っている兄に対してどんな解答が相応しいか、それに加えて、おそらく私には到底理解が及ばない程、この兄弟の間に何かしらの繋がりがあるのなら、私程度の人間が何を言おうと何も変わらないのではないか。もっと言ってしまえば、私が言ってしまうことで修復不可能な歪みを入れてしまうのではないか。兄弟を持たない私にとって、とても答えようのない問題だった。
真っ直ぐに弟くんを見ている。それだけで私は彼が眩しく見えた。
私は狡賢い人間だ。だからこそ私は答えを出さずにベッドの上に寝そべっている。彼は私のベッドの隣に敷いた布団で寝ている。息も静かに寝返りもうたない彼の寝相は、まるで死んでいるようだった。私は彼の顔を見た。目鼻が整っていて精悍な顔はいつ見ても飽きない。まるでこの世に生まれるのを予期していなかったかのように、ひどく綺麗な顔だった。
「もし、私が貴方を愛しているなら。私は何も言わず貴方を突き離すでしょうね」
夜の沈黙が私を誘い出した。しんとした静けさが私の想いを沸々と煮え返した。
「それでいいと貴方が立ち止まるなら、私は何も言わずにその手を握り続ける。でも、一瞬でも間違っていると思ったなら、先に進みたいと希うなら、私は決して振り向かずに貴方の手を払い続ける」
天井を見上げ、独り言のように呟くことしか出来ない。ひどく卑小だ。臆病な自分すら、私は愛しているのだから。
「それが愛情なんじゃないかなって、私は思う」
彼の肩が、少し揺れた気がした。
*
深い間柄ではない。
「輩に絡まれていたところをたまたま通りかかって、暫く彼女の家に厄介になっていただけだ」
「それだけで済む話ではないでござろう」
ズバッ、とニンジャに一刀両断された。
「……彼女から何かお礼がしたいと言ってきたんだ」
放浪としていた身で何か貰うのも荷物になるのだが、彼女の好意も無下に出来なかった。うまく断る方法が無いのかと考えていたところ、彼女の方から家を自由に使って良いと言ってきたのだ。
ははぁ、と呟くニンジャ。
「さぞかし見苦しい姿であったのだろうな」
「どういう事だ?」
「大方、風呂でも入れとでも言われたのだろう」
どうして知っている。
「ニンジャは千里眼も使えるのか……?」
「そんな術を使わずとも容易に分かるわ」
可哀想になその
「しかしソルジャーにも色沙汰話があるとはな。勝負もしてみるものだ」
「難しいな、将棋というのか」
「なに、ソルジャーであれば直ぐ上達するであろう」
小さな屋敷の庭先で(縁側というらしい)、ニンジャと将棋をうっていた。チェスやオセロと同じ、一種のボードゲームだとニンジャは説明した。時間潰しだとも。しかし、単なる勝った負けたではつまらないと言い、負けた方はまだ話したことの無い話題を相手に話すという条件を出した。悪戯っ子の様な笑みを浮かべるニンジャ
「……思い出話だろう?」
「?いや、今でもアオイを愛している」
「それは彼女には伝えたのであろうな」
「
「私は、私の思う最良の選択をしたつもりだった」
「最良なんて、そんな都合の良い言葉は無いよ。いつだって、選ばれた先は最良しかあり得ないんだから」
「私を恨んで構わない」
「そんな人が花だなんて湿っぽいモノ買ってくる?」
「確かに良い人だね、弟くん。皆が好きになる」
「私には到底真似出来ない」
「
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