「なぁ仗助、あそこにいるの、潤さんじゃねえか?」
放課後の教室には億泰と仗助のふたりだけが残っていた。億泰が補修のプリントを片付けている間、仗助は手持ち無沙汰で彼を待っていたのだった。
億泰はようやく目処が立ち始めた数学のプリントよりも、窓の外に気が向くのか、声を大きくして仗助の名前を呼んだ。気の抜けた声を出す仗助の頭を掴んで、半ば無理やり窓の方を向かせる。
「ホラ!」
可動式の人形のように首を90度に曲げられて、仗助は窓を覗く。確かに、校門の前にはひとりの女性が立っていて、彼女の周囲には携帯を構えた生徒たちが群がっていた。
「確かに潤さんに見えるな」
「だろ? 誰か待ってんのかなあ。仗助お前、約束して忘れてんじゃあねえの?」
「いや、潤さんと会う約束はしてねえよ」
窓から覗いた潤の格好はとても厚着とは言えなかった。携帯に着信やメールが届いていないことを確認して、仗助は薄いカバンを掴んだ。用事を聞いて、なんでもなけりゃあ戻って来たらいい。
「仗助ェ」
お前も行くか?と声を掛ける前に、億泰が名前を呼んだ。彼の手にはシャープペンが握られたままだ。
「もし潤さんがオレに会いに来たってんなら呼んでくれ。走っていくからよお」
土佐犬のような見た目と反して、億泰は察しの良い男だった。言葉にされない感情を拾い上げて、理解する力に長けている。わかったと仗助は短く返す。億泰の手元の解きかけのプリントをちらと覗けば、先は長そうだった。
教室の扉を背中に回した手で閉めた。窓から見える街路樹は鮮やかな紅葉に灰や茶を混ぜ始めていた。風が吹くたびに葉が落ちていく。落ち葉を追いかけてゆるゆると視線を下ろして、目的を思い出したかのように駆け出した。
生徒玄関は冷え込んでいて、外から入り込んだ枯葉がタイルの上で舞っている。黒い羽根はとうに消えていた。
公務補が銀杏の木の下を忙しなく履いている。靴を履くために屈むと、校門の前で佇む潤がこちらを見たような気がした。
人だかりは仗助を見つけると自然と道を開けた。まるで、美しき来訪者の待ち人について、事前に知らされていたかのようだった。
「潤さん、どうしたんスか、こんなとこで」
辺りがざわつく。二人の関係を詮索する声、潤の噂を吹聴する声が沸き起こっては消えてまた生まれた。これでは会話どころではない。仗助は困ったように頭を掻いた。怒鳴りつけるだとか、冷たくあしらうだとか、そういうことが真っ先に浮かばない男なのだ。
「ねえ、あなたたち」
口を開いた潤がサングラスを下げた。紺碧の瞳がのぞいて、うつくしい三日月型に歪む。仗助も、生徒たちも、彼女に微笑みかけられたのだと理解するのに時間が必要だった。
「ごめんなさいね、東方仗助に用があるの。借りてかまわない?」
生徒たちは口を噤んで激しく頷いた。潤は素早く仗助の腕を掴むと足早に歩き出した。歓声のように上がる声を背中で浴びながら、仗助は潤の後を追った。
「ちょ、潤さん、オレに用があるなら電話でもメールでも良かったのに。わざわざ会いにきてくれなくったって」
「逃げるってわかってるのに、そんな無駄なことしないわ」
急に足を止めて振り返った潤の表情からは笑みが消えていた。
「玻瑠は?」
恋人の名前が出て、ふざけたように笑っていた仗助の顔が強張る。この話題になるだろうことは、なんとなく予想がついていた。そして、潤の言うとおり、メールや電話で話が来たなら、仗助はおそらく返事をしなかっただろう。
「潤さんには悪いけど、オレは知らないっス」
唇を尖らせて言った。閑静な住宅街に向かう道は車通りも少なく、仗助と潤は電柱の横で顔を顰めたまま対峙することになった。
「玻瑠さんから聞いてないスか? 別れたんです。だからもうあの人とオレはなんの関係もない」
「……別れた?」
潤の怪訝な顔に、仗助は唇をきつく結んだ。別れを切り出されたのはつい先週のことだ。黙って頷いた仗助に、潤は続けた。
「悪いけど、感傷に付き合ってあげる余裕はないわ。玻瑠と連絡が取れないの。最後にあの子と会ったのはいつ?」
「……一週間くらい前です。別に、元気そうでしたよ。実家にでも帰ったんじゃないですか」
別れたのもその日ね、と潤が続ければ、カバンを握る指に力が篭った。仗助が最後に玻瑠を見た時、彼女は諦めたように笑っていた。頼り甲斐のない年下の男に対して、「仕方ない」と呆れるような表情だった。「もう一緒にいたくない」と彼女は言って、仗助の返事も待たずにさよなら、と背を向けてしまった。思い出したくもないのに、ふとした瞬間に過ぎる、曖昧な表情と別れの言葉。女々しい自分に、仗助はまた唇を噛んだ。
「もうなんとも思ってない? 玻瑠のこと」
協力する気の見えない仗助に、潤は肩を竦めた。凍った湖のような瞳に射抜かれて、仗助が目を逸らした。
「ええ、なんとも。なにせこっぴどく振られましたんで」
「そ、わかったわ。アンタが、どうしようもない【デクノボー】だってことが」
ーーばち、と乾いた音が鳴った。それが自分の頬を打たれた音だと気付いて、仗助は潤の目をもう一度見た。その目に浮かんでいたのは色濃い【怒り】だった。
「捜索を手伝ってもらうつもりだったけど、もう良いわ。自分勝手で情けない男。顔も見たくない。さよなら」
踵を返した潤の姿が見えなくなってから、仗助は長いため息を吐き出した。膝を曲げて電柱のそばに腰を下ろす。ポケットに手を伸ばしかけて、やめた。
「潤さんも勝手だよなあ。自分から会いにきたくせによぉ〜。相変わらず手厳しいっつうか……」
潤はピンと張った糸のように怒る女だった。下手に触れれば切れてしまいそうな、命を燃やすような怒り方。他人を傷つける覚悟と、傷つけられる覚悟を持つ人間の怒り方で、仗助はそれに少しだけ臆してしまったのだ。
「自分勝手で、情けない……。よくわかってらっしゃる。それに加えて【うそつき】と来た」
もしかして、オレって結構イヤな奴かもな、と独りごちて、仗助は立ち上がった。カバンの中に手を入れる。大したものは入れていなかったから、それはすぐに見つかった。カエルのキーホルダーがついた、玻瑠に返し忘れた鍵だった。
★★★
玻瑠は電話に出なかった。念のためにチャイムを鳴らしても当然反応はない。しばらく待って、仗助はドアに鍵を差し込んだ。思えば合鍵を使うのは初めてだった。いつもなら、チャイムを鳴らせばドア越しに明るい声がして、サンダルを履いた玻瑠が笑顔を浮かべてドアの隙間から出てくる。筈だった。
ドアノブを回せば、隙間から乾いた音と鳥の羽根が出てきた。それも一枚や二枚ではなく、狭い玄関に溢れんばかりに積もっていたものが逃げ場を見つけたかのように流れ出た。馴染みのある来客用のサンダルが埋もれてしまっている。
「玻瑠さん!」
返事はない。靴のまま部屋に入れば、室内も同じような有様だった。カーペットの上にもベッドの上も、キッチンのシンクの中まで、黒い羽根に埋め尽くされている。
露伴と康一が突き止めた老人の死によって、黒い羽根の騒動は一段落したものと思われていた。露伴の【ヘブンズ・ドア】でも例のスタンドの消息は掴めなかったからだ。潤と玻瑠にスタンドの痕跡は残っていなかった。露伴の【スタンド】に嘘は通用しない。
けれども、この惨状だ。誰がどう見たって、玻瑠の失踪は例のスタンドーー【掃き溜めの王】の仕業だった。それどころか、玻瑠が【本体】の可能性もある。
仗助は手当たり次第に羽根を掻き分けた。埋もれたローテーブルの上から、充電切れの携帯電話が出てきた。ベッドの傍には読みかけの文庫本が置いてあった。安っぽい素材の、金閣寺が描かれた栞が挟まれている。それは仗助が渡した見学旅行の土産だった。つまらないものまで大事にされていたことに、手が止まった。
「……玻瑠さんは知らねえでしょうが、仗助クンってば学校ではそこそこ人気があって、体育の授業に真面目に出た日なんかにゃ、女子にキャーキャー言われちゃったりするんすよ。手紙なんかも結構もらいますし、放課後に告白なんかもされちゃったりするし」
ひとりきりの部屋で、仗助はまるで役者のように話し出す。キッチンの収納からバスタブまで、誰も隠れていないかを確認し終わると、もう一度玄関に戻った。人が隠れるにはあまりに狭い靴箱を開けて、中を確認する。
「なんで、フラれたのって初なんすよねえ。年上のお姉さまに遊ばれて捨てられたならまあ、人生の教訓として悪くはねえが。【なんとも思ってない】ってのはウソだ。悔しいよ、納得もしてねえ」
土間に靴は無かった。仗助は学生服の胸ポケットから学生証を出して、その中から折り畳まれた紙片を取り出した。【クレイジー・ダイヤモンド】が背後に現れる。主を心配するかのように澄んだ瞳で見つめる男は、無言のまま拳で紙片に触れる。瞬くように仗助の手元が明滅して、紙に包まれていた靴紐の破片が【元に戻るため】に光を発した。
玻瑠がこの家を出て行く際に履いていた靴は、仗助が贈ったものだった。贈る際に、靴紐の先端を拝借していたのだ。
恋人から、赤の他人になったって、この街に住む限りは、守ってやりたいと思うのだ。人を傷つける勇気もない、甘くて優しい人だから。
「だから、オレは追いかけますよ。アンタが嫌がったって、構うもんか」
玻瑠さん、わかったフリなんかしないでくれよ。東方仗助はアンタが思うよりもずっとイヤな奴で、ワガママで、嘘吐きの、どうしようもない奴だって、ちゃんと、知って。
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