その山は、外界を拒むように高く聳えていた。
 幾重にも連なる稜線は鋭く天を突き、深い緑と霧に包まれている。その内側に、ミスラの里はあった。
 石と木で組まれた質実な家々。焚き火の煙が細く立ち上り、女たちの笑い声と、刃を打ち合わせる乾いた音が絶え間なく響いている。
 ミスラの民のほとんどは女である。狩猟も建築も、政もすべて女たちだけで行う。加えて、少女も、母も、老女も、彼女たちは物心着く頃から剣と弓を持つ、武人であった。
 男はほんの僅かだ。老いさらばえた者が数名と、若い青年がたったひとり。


ーーー


「潤さん、余所見してると死にますよ」

 背後から軽い声が飛んだ。ほぼ同時に、風を裂く気配。
 潤は振り向きもせず、腰の短剣を引き抜いた。迫る刃を弾き、そのまま相手の懐へ滑り込む。間合いを詰められた男の顔に、驚愕が浮かんだ。
 男の眼前に迫ったのは、美しい仮面。豊かな黒髪が波打ち、音も無く引き抜かれた短剣が男の剣を押さえ込んだ。女の細腕に、膂力で負けるはずがないのに、押せども剣はびくともしない。

「っ、なんだこの女……!」
「山に入る前に、忠告されなかったの?」

 低く告げ、潤は躊躇なく刃を返す。男の手首を打ち、武器を落とさせると、そのまま足払いで地に叩き伏せた。

「ーーこの山には魔物がいるって」

 背後では、別の男が呻き声を上げている。

「二人目終わり、っと」

 太陽が肩をすくめて笑った。彼の足元には、既に気絶した男が転がっている。

「手加減した?」
「そりゃね。潤さんの前で血飛沫上げたら怒られるんで」
「よくわかってるじゃない」

 潤は短剣を布で拭い、鞘に収めた。視線だけで周囲を確かめる。倒れ伏す男たちが動く気配はない。
 山の外から流れてきたならず者だろう。珍しいことではない。だが――

「最近、多いわね」
「どこかで嗅ぎつけたんですかねえ。ミスラの女は高く売れるって」

 太陽の冗談めかした言い方に、潤は眉をひそめた。
 襲ってきた破落戸たちは人攫いを生業としているようだったが、似たような手口で襲いかかってくる輩を既に三度始末していた。里の者達に報告をさせれば、正確な数字が出るだろうが、彼らは確実に『ミスラの民」を標的にしていた。
 里には妊婦や幼い子どももいる。由々しき事態に潤は声を落とした。

「笑えないわ」
「すみません」

 ばつが悪そうに舌を出し、素直に謝る姿はお馴染みの光景だ。潤と太陽の関係は昔から変わらない。

「戻りましょう。長居は無用です」
「ええ」

 二人は道中で仕留めた獲物を背負い直し、山道を引き返した。



 里に戻ると、いつもと変わらぬ日常があった。
 手製の的に向けて矢を放つ少女。獲物を解体する女。年老いた女達が食事の支度をしている。
 生活の営みを行う女たちの中で、ひときわ強い視線が潤を捉えた。

「潤」

 低く、皺枯れた声。
 振り向くと、そこには祖母が立っていた。ミスラの現族長であり、この集落の頂点に立つ女だ。

「話がある。来なさい」

 有無を言わせぬ声音だった。
 潤は一瞬だけ太陽を振り返り、それから頷いた。

「……すぐ戻るわ」
「はい」

 太陽は短く答えた。その表情からは、何も読み取れない。



 族長の住まいは、他の家々よりも一段高い場所にある。
 中は簡素だが、足を踏み入れると空気が重い。祖母と二人きりの緊張感に背筋が伸びる。

「座りなさい」

 祖母に促され、潤は静かに腰を下ろした。仮面を外し、自分によく似た祖母の顔を見つめる。
 しばしの沈黙。やがて祖母は、まっすぐに潤を見据えた。

「お前を、次の族長に据える」

 予想していた言葉だった。潤の母親は潤を産んですぐに他界していた。ミスラの族長は世襲だ。潤は、そのために育てられてきた。だから驚きはない。責任の重みが胸に沈みこむ。

「はい」

 短く応じる。話がこれで終わりではないことも、わかっていた。祖母は続ける。

「お前が族長として行う任務はひとつ。エーギルに嫁ぐことだ」

 先代族長から告げられた言葉が脳を反響する。理解するのに数秒を要し、外のざわめきが、遠のいていく。

「……エーギルに、ですか」
「そうだ。婚姻によって和平を結ぶ。古の盟約によって定められている。……代々、果たされなかったがね」

 祖母の声は冷ややかで、この場の空気すら冷え込んでしまいそうだった。潤は祖母の瞳を見る。

「今代で果たす。お前の代であちらの王と婚姻を結ぶのだ」

 潤は、しばらく言葉を発せなかった。
 エーギル。母の命を奪った国。
 ミスラの民にとっては因縁の、遥か遠い昔から憎しみ合い、殺し合いを続けてきた国。そこに、単身で嫁げと言うのだ。

「……承知しました」

 やがて、絞り出すように答える。

「それが、ミスラのためになるのなら」

 祖母は目を細めた。

「流石私の孫だ。泣き言は言わないか」
「言って、変わるものでもないでしょう」

 静かな返答に、祖母は小さく頷いた。

「いい目だ。お前は族長に向いているよ」

 褒め言葉には聞こえなかった。



 その夜、里では新たな族長の誕生を祝うために宴が開かれた。
 焚き火がいくつも焚かれ、酒が振る舞われ、歌と笑い声が絶えない。
 潤は中央に座り、次々と盃を受けていた。
 祝福の言葉。誇り。期待。それらを、すべて飲み込む。胸にのしかかるのは与えられた自身の使命だ。
 祝福の輪の外で、太陽がひとり、酒も飲まずに杯を握っていた。賑やかな空気の中で、彼だけが俯いて焚き火を見つめている。
 潤の足は自然と喧騒から距離を置いていた。

「……浮かない顔ね」
「主役がこんなところにいていいんですか」
「少しくらいいいでしょ」

 そう言って、潤は彼の隣に腰を下ろす。
 焚き火の光が、二人の横顔を揺らした。

「聞きました」

 太陽がぽつりと呟く。

「エーギルに、行くんですね」
「ええ」
「知らない男のところに」

 潤は答えなかった。代わりに、静かに酒を口に運ぶ。
 太陽は拳を握りしめた。

「……俺は」

 言葉が、途切れる。俯いたまま、言葉を絞り出した。

「潤さんには、幸せになってほしいです。……俺の、知らないところじゃなくて、近くで……」

 二言目は消え入りそうだった。あまりに馬鹿げた発言。けれどもそれは本心だった。太陽にとっての幸せが、潤にとっての幸せとは限らない。彼女はミスラの族長で、その決断には責任が伴う。潤の抱える重責を理解しながらも、太陽は口にせずにはいられなかった。
 だから、そばにいたい。潤が幸せなら、それで良い。ただ、もし。もし、そうじゃないなら。彼女の苦しみを、少しでも分けて欲しい。
 焚き火が弾ける。潤は横目で太陽を見た。

「ありがとうね。太陽」

 肯定も、否定もしない。炎に照らされたその横顔は、ひどく穏やかだった。

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