ラクダには乗れず
男の話し声でルナは目を覚ました。サイドテーブルに置いたスマホを手繰り寄せて時計を見ると、まだ午前三時だった。半身を起こしてゲルの中を見渡す。笑と美沙はまだ眠っていた。
自分たちのゲルの近くで誰かが話をしている。距離があるため内容までは聞き取れないが、男の声には明らかな怒気が滲んでいた。
扉には鍵がかかっているし、ゲルの外側も頑丈だ。誰かが侵入しようとしても、簡単には入ってこられないはずだ。スマホを握ったまま耳を澄ませていると、やがて足音が遠ざかっていった。
こんな時間に、屋外で一体何を話していたのだろう。片手で毛布を引き上げ、ルナは再び目を閉じた。
窓のないゲルの中にも、朝の光が差し込んでいた。
美沙のベッドは既に整えられており、本人は扉の前に立っていた。少しだけ開いた扉の向こうに人影が見える。声を潜めて誰かと話しているらしい。扉の隙間から差し込む光が、床に細長い帯を作っていた。
笑も同じタイミングで目を覚まし、「なぁに〜」と伸びをする。
その直後、聞き覚えのある男の声がした。美沙の話し相手は志摩だった。彼が早朝から女性たちの宿泊するゲルを訪ねてくるということは、よほど急を要する事態が起きたのだろう。美沙は二人が起きたことに気づくと、こちらを振り返った。そして、はっきりと告げた。
「人が亡くなった」
志摩と美沙は先に遺体の確認へ向かった。ルナが身支度を整えて外に出ると、荒北の姿があった。先に出ていた笑と話をしていたらしい。
「ごめんね、お待たせ」
「そんな待ってないよ〜。荒北さんも来てくれたから、手間が省けた。二人とも、待っててもいいけど本当に来る?」
笑の気遣いをありがたく受け取りながら、ルナと荒北は頷いた。ここまで来て、無関係を決め込むことはできなかった。
三人が現場に向かうと、倒れた男のそばに日本人ガイドと現地スタッフが三人立っていた。早朝、朝食の準備に向かおうとしていたスタッフが遺体を発見したらしい。騒ぎを聞きつけた志摩と美沙が、いち早く現場に駆けつけたという。
周囲には異変に気づいた宿泊客たちの姿もあった。ゲルの扉を開けて外の様子を窺う者や、少し離れた場所から現場を見つめる者もいる。
草むらに男が仰向けに倒れていた。胸元にはナイフが突き刺さり、グレーのネルシャツには赤黒い染みが広がっている。
「……あっ!」
ルナは男の顔を見て、思わず声を上げた。
遺体のそばにしゃがみ込んでいた志摩たちが、こちらを振り返る。
「この人……昨日、話しかけてきた……。ヤマナカさん……」
食事の前に気さくに話しかけてきた男が、今はぴくりとも動かず横たわっている。その姿があまりに現実離れしていて、ルナには等身大の人形のように見えた。
「……現地警察への連絡は?」
志摩が静寂を破った。日本人ガイドが現地スタッフに確認を取り、すぐに答える。
「先ほど電話しました。早朝なので少し時間はかかるそうですが、近くの町、セドルから警察官が来るとのことです」
「ここからどれくらいかかる?」
「一時間ほどです」
志摩は腕時計に目を落とした。午前六時半。到着まで、およそ一時間ということになる。
志摩たちはこの国では一介の旅行客にすぎない。捜査権限もなければ、現地警察に指示を出す立場でもなかった。
「分かった。被害者の身元を確認できるものはあるか?」
志摩の問いに、ガイドが目を丸くする。
「現地警察が来たとき、スムーズに引き継げるようにしたいんでね。俺は日本の警察官だ。あそこにいる二人もそうだ」
志摩が笑と美沙を示す。
権限がないからといって、ただ黙って見ているわけにはいかない。それが志摩の警察官としての矜持なのだろう。ここは異国の地だが、ツアー参加者の大半は日本人だ。自分たちにできることは、きっとある。
突然紹介された笑と美沙は、ガイドに向かって軽く会釈した。
ガイドは志摩たち三人が日本の警察官であること、そして現地警察が到着するまで、彼らの協力を仰ぐことをスタッフや旅行客に説明した。
「まさか旅行に来て殺人事件に巻き込まれるとはな……。二藍サンはダイジョーブ? 気分悪ィなら、向こうで休んでた方がいいんじゃネェの」
志摩たちが現場で動き始めると、荒北は少し離れたところでルナに声をかけた。口調こそ荒っぽいが、その実、心優しい人物だというのは美沙から聞いていた。自分が現場に行こうとしたせいで、ルナまで巻き込んでしまったと思っているのかもしれない。
そんなことはないのに。
ルナは小さく首を振った。
「荒北さん、ありがとう。それでも、わたしも話を聞いていた方がいいと思うので」
「そうォ? なら止めねェケド、本業の奴らと一緒になって無理すンなよ」
「はい。ほどほどにします!」
荒北はそれ以上、引き止めようとはしなかった。
そのとき、ガイドがバインダーを手に志摩のもとへ駆け寄ってきた。ひどく慌てた様子に、周囲の人々も何事かとざわめき始める。
「志摩さん! あの、この人……ヤマナカさんじゃないんですか?」
ガイドの声を聞いて、ざわめきが一段と大きくなった。昨日、被害者と同じグループで乗馬をした参加者たちが、驚いたように顔を見合わせている。
「荷物を確認したが、パスポートや免許証の名前は違っていた。本名はエイイ・ツバサというらしい。偽名を使ってツアーに参加していたんだろう」
「でも、なんでそんなことを……」
ガイドからバインダーを受け取り、男の所持品と照らし合わせながら、志摩は眉を寄せた。
鋭居翼。
珍しいその苗字に何かが引っ掛かったのか、志摩は思案顔を浮かべている。
「あ……」
笑が声を上げ、志摩の袖を引いた。周囲に聞こえないよう、小声で耳打ちする。
「カズ……志摩! 鋭居って、あれじゃない? 保険金詐欺の……」
その言葉に、志摩の表情が変わった。
「……この人、犯罪者だったってこと?」
ルナが遠慮がちに尋ねると、笑は首を横に振った。
「アタシたちが担当した事件の関係者だったってだけ。詳しくは話せないけど……」
そう前置きしてから、笑はガイドに向き直った。
「この人の周りで、何か気になることはありませんでしたか?」
尋ねられたガイドは目を閉じ、昨夜の出来事を思い出そうとしているようだった。
「そうですね……。一人旅でこのツアーに参加されたということで、周囲の人にも気さくに話しかけていました。特に問題を起こしたりはしていなかったと思いますが……」
そのとき、現地スタッフの一人がガイドの袖を引いた。何か伝えたいことがあるらしい。
二人が短く言葉を交わす。
「……彼が、深夜に誰かと揉めていたそうです」
「揉めていた相手を見たんですか?」
ルナが尋ねると、スタッフは頷いた。相手は男だったようだが、暗くて顔まではよく見えなかったらしい。ガイドがその内容を通訳する。
「三時頃に、わたしも男の人の話し声を聞きました。わたしたちのゲルの近くで、何か揉めているようでした」
「その時間って正確?」と美沙が尋ねる。
「うん。スマホの時計を見たから。三時二分くらいだったはず」
その後もスタッフや参加者から話を聞いていると、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。セドルから警察官が到着したらしい。
やって来たのは、警察車両ニ台と五人の警察官だった。
先頭に立つ年配の警察官は、車から降りるなり周囲を見回し、集まっている人々に円陣を組むよう指示を出した。二人は遺体の確認に向かい、残る三人はその場にいたスタッフや宿泊客を集めて事情を聞き始める。
「これで全員か?」
警察官の問いに、ガイドとスタッフが人数を数え、過不足がないことを伝えた。
「あの、この方たちは日本の警察官で……」
日本人ガイドが前に出て、志摩たちを紹介しようすると、年配の警察官は手で制し、言い放った。
「ここはバルカだ。お前たちの話を聞く必要はない」
ガイドは呆気にとられ、口を閉ざした。
志摩が男を睨みつける。言葉の意味までは分からなくとも、歓迎されていないことは伝わったらしい。
その言葉どおり、セドルの警察官たちは日本人観光客にまともに話を聞こうとはしなかった。ガイドも困惑した様子で、参加者たちをなだめている。
「何、あれ? 感じ悪い」
美沙が小声でぼやく。笑と志摩も、苦々しい顔で頷いた。
ルナはスマホの画面を確認し、再びバッグにしまった。
日本人たちが一か所に集められ、蚊帳の外に置かれていると、警察官たちのいる方からにわかに騒がしい声が上がった。
「思い出した! 犯人はあいつだ!」
声を上げたのは、先ほど被害者が誰かと揉めていたと証言したスタッフだった。彼は一人の男を指差している。
ルナはその先を追い、目を見開いた。
「何だって?」
志摩がガイドに尋ねる。
「先ほどのスタッフが、犯人を思い出したと言っています」
「はぁ……?」
笑と志摩が怪訝な顔をして前に出た。指を差された男は──荒北だった。
スタッフが何を根拠に彼を犯人だと言っているのか。それを確かめようとした矢先、警察官三人がこちらへ向かってくる。
先頭の男が志摩たちに向かって、退くように手で合図した。
「言葉が通じなくても分かるだろ。退け!」
「いやだね。退いてほしいなら日本語で喋りやがれ!!」
志摩が男の前に立ち塞がり、怒鳴り返すと、周囲が一斉にざわついた。
警察官たちと志摩が睨み合う。その脇をすり抜けるようにして、若い警察官が荒北の腕を掴んだ。一同の視線が、そちらへ集まる。
「……ハァ!?」
「お前を逮捕する」
若い警察官が荒北の手首に手錠をかけた。あまりに突然のことで、荒北も一瞬反応が遅れる。
「──っ、おかしいでしょう!」
真っ先に飛び出したのは美沙だった。小柄な身体で若い警察官に詰め寄り、声を張り上げる。
「……うっ!」
警察官に強く押しのけられ、美沙が地面に倒れ込んだ。
「美沙チャン!」
荒北が駆け寄ろうとするが、別の警察官に押さえつけられ、身動きが取れない。
「この男が被害者と揉めていたという証言があった。スタッフも、こいつで間違いないと言っている」
警察官の言葉を聞き、ルナはすぐに志摩へ伝えた。
「荒北さんが、被害者と揉めているところを見た人がいると言っています」
──本当に?
ルナは自分が夜中に聞いた声を思い出す。怒気の滲む声。話している内容は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、男たちの話す内容は、近付けばルナにも理解できそうだった。それは、使われていた言語がモンゴル語だったからだ。
ルナは警察官たちに向かって声を張り上げた。
「待ってください! わたしはチンギス・バトバヤルの妻です! これは正当な捜査ですか? 彼を逮捕する根拠はあるんですか?」
チンギスの名前を出した途端、年配の警察官がルナに詰め寄った。威圧感に思わず後ずさりそうになる。それでも、ルナは顔を上げた。
「被害者と揉めていた男は、モンゴル語を話していました。この人は話せません。ここにいる全員から話を聞いてください!」
声が震える。警察官たちは鼻を鳴らして笑った。
「どこで大佐の名前を知ったかは知らんが、嘘をつくと公務執行妨害になるぞ、女」
年配の警察官が背負っていた銃を構えた。大きな銃口が、まっすぐルナに向けられる。
う、うそでしょ……。
ルナの言葉をその場しのぎの嘘だと判断したのか、背後にいた警察官たちも一斉に銃を構え、志摩たちに向けた。
「これ以上邪魔をするなら発砲する」
「ちょ、ちょっと待って……」
銃を向けられ、誰も身動きが取れない。その間にも、荒北は腕を掴まれ、連行されようとしていた。美沙が彼に手を伸ばす。
そのとき、草原に鋭い怒声が響き渡った。
「おい。誰に銃を向けている!」
ルナは思わず振り返る。声の主はチンギスだった。その背後には、複数の警察車両が並んでいた。三台の車から降りてきた警察官たちは、セドルの警察官とは明らかに様子が違う。
チンギスは長い髪を風に揺らしながら、こちらへ歩いてくる。鋭い眼光がセドルの警察官たちを捉えた。
彼らの表情が一変する。先ほどまでの威勢は消え、互いに顔を見合わせた。
「銃を下ろせ!!」
チンギスの怒号に、警察官たちは即座に銃を下ろした。年配の警察官を先頭に、全員が背筋を伸ばし、チンギスに向けて頭を下げる。
「この場は俺が預かる。殺人事件に加えて、セドルの警察官による汚職の疑いも報告されている。そちらについても調べさせてもらう」
セドルの警察官たちは、頭を下げたままチンギスの言葉を聞いていた。
「大丈夫か?」
緊張の糸が切れ、草原にへたり込んでいたルナにチンギスが手を差し伸べた。手を取って立ち上がると、彼は志摩たちに向き直る。
「通訳してくれ」
いつもと変わらない調子で頼まれ、ルナは頷いた。
「無礼な真似をして済まなかった。話はクーダンで聞かせてもらう。車に乗ってくれ」
========
・とっ散らかった日本語をチャットGPTに整理してもらう女。三人称一元視点、書けなさすぎる。
・TVerを見始めて、愛が加速しています(キモオタ)