咽返るような熱気が充満する、真夏の夜。ぼんやりと小さな行灯の光だけが薬草園の向こうに見えた。いくら夜目が利くといっても月も半分しか顔を出していない夜半に、探し物をすることは無謀ともいえた。
 私はもう襦袢一枚になっていたけれど、行灯の光がひとつしかないことを確認して、着物に着替えて草履をひっかけてそっと抜け出した。同室の友人は「甲斐甲斐しいこと」と呟いて灯りを消してしまった。

 わたしの目当ての人物は薬草園に屈みこんで小さな生き物を探していた。制服を脱いでいるところを見ると、風呂に入った後にでも後輩から連絡が来たのだろう。委員長代理って大変なんだなあ。

「八左ヱ門、今日は何が逃げたの?わたしも薬草摘んでいくから探すの手伝ってあげる」
「お、七詩か。今日は……三四郎が」
「なに?三四郎って、蛇?カエル?」
「大百足」
「うわっやだ、一番嫌だ」
「お前もくのいち保健委員なら虫くらい平気じゃなくちゃ。ほら、探してくれるんだろう」

 暗闇で八左ヱ門と二人きり。なんとなく良い雰囲気だと思っていたのが大間違いだ。熱心に足元を照らして大百足を探す八左ヱ門とは対照的に、私は薄目を開けてできるだけ百足の姿を見ないようにしている。
 あぁ、もう。失敗した。こんな頼りない姿見せに来たわけじゃないのに!

「あ、なんか動いた。ハチ、そこ……」
「お!三四郎お前探したんだぞー!!良かった良かった。これで委員会の後輩達も安心するよ。七詩もありがとうな」

 手早く百足を虫篭に捕らえる八左ヱ門は笑顔で後輩達を案じながら、わたしに礼を言う。

「いいよ、見つかってよかったねえ」
「保健委員会で何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ。今日の礼、させてもらうからさ」
「わたしが個人的に困ったことでも頼んで良い?」
「勿論」

 八左ヱ門は皆に優しい。人だけでなく、全てのものに。「関わったら最後まで」なんて彼の信条通り、彼にとっての「特別」になるのは酷く難しいだろう。

「おやすみ、七詩」

 部屋に戻ってすぐに布団に入った。
 あまりの脈の無さに、空しくなってしまった。自分の薄い胸を抱きしめて眠った。今日は深い眠りにつきたい。夢の中で八左ヱ門が出てきてくれたらいい。彼はわたしのことが好きで、わたし一人のことを好いて、気にかけてくれるのだ。そんなのは八左ヱ門じゃないとわかっているのだけれど、それでも夢で願うくらいは許してもらいたい。
 
 わたしは随分都合の良い力を持っているらしい。夢では八左ヱ門とわたしは恋仲の様だった。夢の中で彼はわたしの髪を無骨な手で梳いて、お日様のように笑う。干したばかりの布団の様な安心する香りがする。けれども「好き」とわたしが言うと八左ヱ門は笑って「俺は、 」と言い淀む。八左ヱ門は自分の咽を押さえて、困ったように首を傾げる。

「俺、も」
「俺は、が、お前が、お前達のことが、お前が、誰かが、みんなが、みんなを、」

八左ヱ門は苦しそうに、水を求める魚のように言葉を捜す。わたしは夢の中だとわかっているはずなのに苦しくて、胸が締め付けられるようだった。それでも、八左ヱ門の咽から引き出される言葉には正解が無い。

「ああ、七詩、俺は皆、みんな…。ああ、ああ」
「愛しているのね」
 終にわたしが答を言った。八左ヱ門、あなた夢の中でも嘘が嫌いなのね。

「ごめんなあ、七詩」

 八左ヱ門の声で目が覚めた。わたしは泣いていた。幼稚な子供の恋だとわかっているのに、夢の中でも否定されてしまう自分が酷く情けなかった。実ることが無いのだと自分で決め付けてしまっているのだと思った。しくしく泣いて、井戸で冷たい水を汲んで目を冷やしてから制服を着込んだ。

 学校はいつも通り。体術の試験は上々、投擲の試験は追試であった。同じ敷地で五年生男子が体術の試験をしていた。丁度八左ヱ門がい組の生徒と組手を行っていた。彼の目に映るものは幸せだ。あんなに真っ直ぐに見つめられるのだから。

 それから、わたしは彼の真っ直ぐな瞳を羨むようになった。その瞳に映るものがわたしだけだったら良いのに。でもそんなことは叶わない。叶わないとわかっているのに、願わずには居られない。
 純粋な好意のつもりだった。けれども想いは願いに、願いは祈りに、強い祈りはわたし達の知りえぬ「何か」へと届き、祈りは呪いへと姿を変え、八左ヱ門を蝕んだ。






 或る日、わたしは数馬の代わりに忍たま達の治療を行っていた。くのいちはひっそりと忍たま達に恐れられているけれど、保健委員会は男子も女子も信条を同じとしているため、わたしには余りくのいちの威厳はないようだった。下級生と他愛の無い会話をしている時だった。八左ヱ門と級友達が保健室にやってきた。

「二藍!新野先生は何処だ」

 白い顔を更に青白くしていたのは久々知兵助だ。わたしは久々知よりも鉢屋と不破に抱えられている八左ヱ門に気をやってしまっていて、彼の鬼気迫る言葉は半分程度しか頭に入ってこなかった。八左ヱ門は目に頭巾を巻いていた。

「ハチ、どうしたの」
「急に目が見えなくなったらしいんだ。毒かとも思ったが、僕等では原因がわからない。二藍、伊作先輩か新野先生の居場所を知らないかい」

 不破は瞳を慌しく震わせながらもしっかりとした語気で伝えてきた。わたしは間抜けのように頷いて、新野先生が薬草園にいらっしゃると伝えた。学年随一の俊足である久々知が音も立てずに先生を呼びに向かったので、鉢屋と不破に頼んで布団に八左ヱ門を寝かし、湯を沸かすように言った。
 横になった八左ヱ門に質問をしていく。緊迫した状況で一番混乱しているはずなのに、彼の声は普段通りに聴こえた。

「目が見えなくなった意外に、症状はある?」
「いいや、眼球もしっかりある。痛みも無ければ痒みも無えさ」
「光が染みたり、頭痛があったりは?」
「染みないよ。目は見えねえが、どこから陽が射してるかは判る」
『……わたしのことは、見える?』

 最後の質問は矢羽音で聞いた。
 八左ヱ門はゆっくりと首を縦に振った。
 ヒュウウ、とわたしの咽が音を立てた。わたしはその場に居る事が恐ろしく、新野先生達の足音が聞こえて、身体はガクガクと震えだした。
 八左ヱ門はわたしの手をそっと握って、口元に指を一本添えた。『黙っていろ』ということだろうか。貴方の目を奪ったのはわたしなのに。

 新野先生と八左ヱ門の友人達が原因の追求に躍起になっている時、わたしは一心に神様に祈りを捧げていた。神様でも、仏様でも、なんでもいい。八左ヱ門の視力を奪った原因はわたしの邪な想いだ。目が見えなくなってしまえ、だなんて想っていない。ただ、わたしのことを特別な目で見て欲しかった。そんなこと言い訳にもならない。

「新野先生、わたし、薬草を探してきます…。竹谷、きっと……良くなるから」

 保健室を飛び出した。わたしの顔も久々知に負けじと青白くなっていたことだろう。どうしたらいい、どうしたら。解決策など浮かばず、薬草園に走った。眩暈や視力低下に効力のある薬草を片っ端から集めて、それで丸薬を作った。けれどもそんなものが効力を持つはず無いことはわかっていた。だって、彼にはわたしのことだけが見えているのだから。怪我や病気が原因ではない。

 夕飯を食べる気も起きなかった。八左ヱ門のところへ向かって、彼に謝罪したかったが彼の傍にはいつでも後輩や友人たち、先輩や先生達が集まっていた。わたしはその姿を見てまた涙が込み上げてきてその場に居られなくなった。
 八左ヱ門に見えているのは暗闇だ。真っ暗闇の中で、わたしの姿だけがぽつんと浮かぶ。それで、頼れるものがわたしだけになってくれたら、わたしは少しだけ嬉しい。けれど、本当は逆。八左ヱ門が暗闇に覆われても、彼の周りには自然と人が集まるのだ。

「ねえ、七詩」

 とぼとぼと保健室から帰るわたしに声をかける者があった。

「……尾浜、なあに」

 尾浜勘右衛門。ぎょろりと大きな丸い目がわたしを射抜く。彼は苦手だ。見てはいけない物も見ることができると聞いた。今わたしは業を背負っている。尾浜には見えてしまうのか。

「七詩は、なんでハチの目が見えなくなったか、知ってるんじゃないの?」
「……知らない。知っているなら、保健委員だもの、治療するわ」
「本当かなぁ。まあ、知っているなら教えてくれよ。そして、解決できるならそうしてくれ」
「…そうしたいよ。できるなら」
「うん。まぁ、そうだろうね。ごめんな、変なこと言って。じゃあ、ちゃんと夕餉食えよ」
「ありがと」

 するりと闇に溶けた、尾浜のあの、瞳。わたしが原因だと彼はわかっている。あれは警告だ。まるでわたしを物の怪のように扱った。恐怖を肌で感じるとはこのことだと思った。

 食堂へ向かうまでも、誰も私に声をかけてはこなかった。慕ってくれる後輩たちも、軽口を飛ばしてくる忍たまたちも、誰一人として。それくらい気落ちしているのが見えてしまっているのだろうか。忍者失格だ。
 重い足取りで給食のおばちゃんのところへ向かうと、おばちゃんは怪訝な顔をした。

「おばちゃん、夕飯、残っているものがあればくださいな」
「…おかしいねえ。今日は誰か一人来ていないと思ってたんだけど…」

 目の前に立っているのに、おばちゃんはわたしを見えないもののように扱う。こんな冗談を言う人では無かったはずだった。

「お、おばちゃん…?」
「いやだ、なんだ!何か触れたかい!?ああやだやだ……」

 おばちゃんの手に触れた。声は届いていないが、感触はあるのだろうか、おばちゃんは驚いて飛びのいた。
 もしかして、わたしの姿が見えていないのだろうか。

 どういうことだろう。わたしは堪えられなくなって涙を流した。わからないことだらけで、自分が自分ではなくなってしまったみたいだ。同室の友人もわたしのことが見えなくなったらしい。それどころか、記憶すら曖昧になってしまったみたいだ。

 二藍七詩なんて人間ははじめからいないことになってしまった。
 忍術学園で過ごした五年間を覚えている人間は、わたしだけ。鳥肌が立った。どうしてこんなことになってしまったのだろう。くだらない独占欲を燃やしたから?慕っている人間に、わたしだけを見て欲しいと願ったから?
 神様がいるのであれば随分残酷なことをする。わたしの恋心をまるで穢れのように扱うのだから。

 とぼとぼと廊下を歩いていて、もうひとりだけ、わたしのことを認識できる人間がいたことを思い出した。


「ハチ…、わたしが、見える?」

 保健室まで走ってくると、扉が開いていた。
 八左ヱ門は保健室の布団の上で半身を起こして、外を眺めていた。風や、気温を感じているのだろう。

「見えるよ。しっかり見える。お前だけはどうしてか、見えるんだ」

 八左ヱ門は「どうしてか」と濁した。彼の優しさが痛い。どうしてじゃないわ。わたしが原因だから、貴方の目にはわたししか映らないのよ。

「七詩、心配かけて悪いなぁ。良かったら、暫く傍に居てくれないか。目に映るものがあると、安心するんだ」

「ハチ、あのね、……ごめんね、本当に、ごめんなさい」

 狡猾なわたしは彼の手をぎゅうと握る。あたたかくて、ごつごつしてる、大きな手。いつかこの手の平で抱きしめられて、撫でられて、抱かれてみたかったなあ。八左ヱ門、好きよ。ごめんなさい、わたしの所為で、こんなことになってしまってごめんなさい。

 ここで想いを伝えれば、もしかして、と思った。けれどもわたしたちは忍者で、忍者は合理性の塊だ。夢物語だけでは生きていけないいきものなのだ。わたしも、彼も。この学園に居るものすべて、前だけを向いていなければならない。

「目、絶対見えるようになるからね」

「七詩…?」

「……見えるようになったら、伝えるから」

 八左ヱ門の制止の声も聞かず、わたしは学園を飛び出した。向かうは裏山、裏裏山、裏裏裏山、ううん、ずっと遠くの奥底の、わたしの意志など毛頭関わらないような遠くの深い森へ。
 どこまで走ったのか、半分物の怪と化しているわたしの足はそれでも速く、一日で来られる限界点で、運良く小さな祠を見つけた。

「神様、仏様、それ以外の何某様、どうか、わたしの願いを聞いてくださいませ。竹谷八左ヱ門の目を返してやってください。そのためでしたら、わたしの身体などどうなっても構いません……どうか、どうか」

 祠の前に、花と薬草、それからおにぎりを供えた。神様がいらっしゃるのなら、どうか願いを聞いてください。
 わたしは毎晩祈り続けた。雨が降り、風が吹き、供えた品も形を成さなくなってしまった。そのうちわたしの身体が糸を解くように消えていった。漸く神様が願いを叶えようとしてくださるのだと気づいた。良かった。好きなだけ使ってください。もう、どうせ、誰からも見られないのだから。たった一人だけを欲しがった欲深な女でよければ、どうぞ。





 幾許の年月が経ち、気づけばわたしは祠と一つになり、奉られているそのものとなっていた。意識は酷くぼんやりとしていて、自分が何者であったのか、なんであったのかも思い出せなくなっていた。
 ただ、一人のおとこに酷く執着していたのを強く覚えていた。わたしはその人を愛していて、そして、願ってはいけないものに縋ったのだ。それはわたしの願いを歪んだ形で叶え、彼の視界を奪い、わたしの存在を消した。彼をかたわものの存在にしてしまったわたしは、自身の行いを悔やみ、深い森の祠へと祈りを捧げに来たのだ。
 思えば、わたしは元々生まれが墓守ということで鬼神に憑かれやすい体質だったのだろう。この祠の神だって、土地神ではなく人身御供の怨霊を奉るものであった。

 昔話に想いを馳せていると、森へ踏み入れる足音が二人分、聞こえた。風はピュウ、と鳴き、草木は情けなく震える。森の声とわたしは良く似ている。

「ほぉら、着いたぜ、八左ヱ門」

「おお、ありがとうな。勘右衛門。……こんな所に祠があったのか」

「探すのに大分時間を食っちまった。学生以来じゃねえか、かみさま」

 勘右衛門、と呼ばれた男はまろい目をぎょろぎょろと動かしてわたしを見た。全てを見透かす大きな瞳、わたしは昔、この目が怖かった。見えていないはずのわたしをしっかりと見据えていた、あの瞳。
 そしてその隣に立つ大男は、灰色の長い髪を垂らし、よく日に焼けた肌をしていた。歯を剥いて笑う姿が太陽のようだと思った。今思えば、わたしはよく太陽を独り占めしようなどと考えたものだった。

「久々だなぁ、七詩」

 彼が、わたしの名を呼んだ。
 ピュウウウウウウウウウ、風が木々の間から抜けて高い音を立てる。勘右衛門が舌打ちをして辺りを警戒したが、それを彼は大きな手で制した。

「大丈夫だ。俺に話させてくれ」

 話したいことばかりだった。謝りたくて、その後の貴方の人生が知りたかった。けれどもわたしには口が無い。ごめんなさい、暗かったでしょう。不安だったでしょう。自分本位で、貴方を独り占めしようとして、ごめんなさい。
 ピュウ、ピュウウ。哀れみめいた音ばかりが風に乗り森に響いた。
 八左ヱ門と勘右衛門は祠を覆う蔓を除け、外れた蝶番を直してくれた。見違えた祠を見つめた八左ヱ門は、どっかと地面に胡坐をかいて座ると、背に抱えていた風呂敷から酒と猪口を取り出した。そこから透明なとろみのある酒を注ぐと祠の前に置いた。勘右衛門はその酒の価値を知っているからか、小さく溜息をついて肩をすくめた。

「ま、飲んでくれや。俺もお前も、もう飲める年だろう。……ごめんなあ。俺は酷いガキで、お前の気持ちなんか全然気づいてやれなかった」

 いいの、八左ヱ門、いいのよ。わたしこそ、ごめんなさい、ごめんなさい。

「お前を人じゃなくしてしまったのは俺だ。良かったんだ、視力くらいお前にくれてやったって良かった。あの後、一月余で目が見えるようになった。周りの奴等はお前のことを覚えていなかった」


 八左ヱ門は真摯に、あれからのことを話してくれる。けれども木々のざわつきは収まらない。わたしは悲しかった。苦しかった。胸などないのに、締め付けられるようだった。今すぐに、彼の首をかき抱いて、「ごめんなさい」と言いたかった。一緒に酒を飲み交わして、学園の思い出を語りたかった。
 欲が、出てしまった。八左ヱ門があまりに真面目だから、わたしのような物の怪に対しても誠意を尽くそうとするから、甘えてしまう。言ってはいけない考えてはいけない、貴方の為にこの身体を使ってしまおうと決めたのに、欲が出てしまう。

 八左ヱ門、そばに、そばにいて。貴方の声を聞かせて欲しいの、ずっと、欲しかったの、わたし、ずっと。八左ヱ門、ごめんね、貴方の目を奪ったのはわたしなの。それくらい好きだったの。わたしひとりを、見て欲しかったの。でも、叶わなくて。
 わたし、今も、今も、今も―――
 
 押さえていたはずの感情の箍が外れそうだった。大樹は身を震わせ、風は今にも八左ヱ門と勘右衛門、二人の体を切り裂きそうだった。

 ハチ、わたし、言ったものね。目が見えるようになったのでしょう、伝えることをどうか許して。そして、今度こそわたしのものになって欲しい。この森は素敵よ、暖かくて、優しくて、まるで貴方みたいでしょう。ねえ、お願い。

「七詩、俺は」

 わたしであったものはぐるりと八左ヱ門を包んで、彼の背を撫でた。
 風が鋭利な葉を乗せて、八左ヱ門の背を襲った。着物が破け、少しばかり皮膚に血が滲んだ。血の匂いよりも先に、白粉の香りと乳の甘い匂いが漂った。
 はっと、空気が変わった。
 八左ヱ門から命の匂いがしたのだ。
 わたしは気づいてしまった。わたしが知らない香り、白粉と、赤子のにおい。
 嗚呼、彼はもう父親なのだ。わたしは、彼の隣に立てなかった。彼を待てなかった。特別にはなれなかったのだ。わたしは八左ヱ門の首に絡めていた身体を解いた。


 途端、風が止み、木々は黙り、ぽたり、と雨が降った。しとしとと草木を濡らした。
 幸せに。どうか、幸せに。わたしではない誰かよ、どうか。八左ヱ門と幸せに。

 八左ヱ門は雨の中酒を飲みきると大きく手を鳴らしてわたしに向かって深く頭を下げた。

「また、来るよ」

 彼の言葉を耳にしながら、わたしはまた自分の意識が朦朧としていくのを感じた。
 どうか、どうか幸せに。
 貴方のこれからの人生、手に入れるもの、目に映るもの、全てが明るく、幸福で、素敵なものでありますように。




 八左ヱ門が立ち去った後、じわじわと振り続けていた雨は大雨となって森を濡らした。山を降りた後に勘右衛門はひゅう、と口笛を鳴らす。

「八左、お前あの森と心中するつもりだったろう」

「望まれんならそれでもいいとは思ってた。本当に、あいつだけだったんだ、俺が途中で手放したもの」

「ま、話のわかるかみさまで良かったじゃねえか。乳児と白粉の匂い、つけていったのが功を奏したなぁ」

「騙したみたいで俺は納得してないがな」

「人の心のあるうちで良かったってこった」


 ざあざあと大雨が降り、供物の酒も流れ、自分が何故涙を流していたかは覚えていなかった。はて、酷く大切な客人が来た気がしたのだけれど、もう何も覚えては居ない。
 小奇麗になった祠は酷く過ごし易く、遠く山の下で子供達の楽しそうな笑い声が聞こえた。

 どうかさいわいに、さいわいに。

 小さな祠の神はそれだけを呟いた。目に映るものすべてにさいわいがありますように。

<森を結う>
2015
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