「あら、瑠璃ちゃん。お出かけですか」
 春の日差しの差し込む休日、早朝から鏡台を覗き込んで髪を結いあげている同室の友人に声をかけた。明るい性格の瑠璃は慌ててこちらを振り向いて、照れくさそうにはにかんだ。
「えへへ、わかっちゃうか」
「わかりますよ。それ、一張羅の着物ですもんね。彼とはどこへ行くんですか」
 彼、とは瑠璃が想いを寄せる、生物委員会委員長代理の竹谷八左ヱ門のことだ。出かける相手まで推測されては忍者として立つ瀬が無いのではないだろうか。けれども瑠璃のことだから、わざと気づかせたのかもしれない。
 瑠璃はと言えば両手で頬を押さえてくねくねと身体を捩らせている。そういうのは八左ヱ門の前でやりなさい、と言ってやりたいが、当人の前では照れくさくてそんなことはできないのだろう。本当にくのいちとしての知識を身に着けているのか、友人ながら不安になる。
「城下町へ……。委員会の買い物に付き合うの。えへへ、でもそれは口実だと思っている! わたしと出かけたいだけかも!」
「良かったじゃないですか。二人きりなんでしょう?」
「そう!」
 鼻歌まで歌い出した瑠璃は後姿からでも浮かれているのがわかる。頭を振りながらよく化粧ができるものだと感心しながら鏡に映る姿を覗き込んだ。
 おそらく、委員会の買い物に同行するというのは本当の目的だろう。八左ヱ門は快闊な青年だが、人の良いところがあるから露店の店主に進められるがまま、押し切られて買い物をしてしまうところがある。
 同じお人好しでも、会計委員会で金銭を取り扱っている瑠璃は見た目よりもずっと金勘定に強い。店主に巧みに話しかけながら、商品の話を聞き、気づけば会計時には何割か安く、おまけに別の商品まで手に入れていることが多いのだ。
 だから、八左ヱ門の人選は確かだろう。まあ、向こうも向こうでそれだけじゃないのかもしれないけれど。
「ねえねえ、牡丹、この簪覚えている?」
 瑠璃の髪は同年代の女子よりも短い。普段外出するときは垂髪にしているのだが、今日は結い上げて髪飾りをつけるらしい。彼女が差し出した簪には、漆塗りに鳥の絵が載せられている。思わず笑いが零れた。忘れるはずもない。
「覚えていますよ。私もまだ持っていますから」
 もうすぐ最高学年になる私たちが持つには、少々子供じみた柄のそれは、何年も前に私たちが揃いで買った思い出の品だった。

***

 あれは二年生に進級したばかりの春のことだった。厳しい冬の名残も去り、着物一枚で外出するのも苦ではないような暖かい日、二年生となった私たちにある課題が出された。
 それは課題とも呼べないような内容で、半分は進級したての私たちに対する褒美のようなものだった。
「城下町へ下りて行って、自分に似合う装飾品を一つ用意していらっしゃい」
 二年からは簡単な潜入任務にも携わることとなる。くのいちの本業は男の忍者よりも単純だ。忍び込み、情報をもたらすこと。どんな場所にでも入り込むために、私たちは礼儀作法から芸に至るまでをその身に叩き込まれていた。
 街外れの夜鷹になれと言われれば着物を開けて男を誘うだろうし、傾国の姫になれと言われれば、美しい音色の琴を鳴らすことくらい朝飯前だ。
 変装の基本は自分を良く知ることだ。そのために、自分に似合う装飾品を択ばせるというのは良い取り組みだった。
 当時のくのたまたちはそんな山本先生の意図を汲むこともできず、ただ友人たちと街へ下りて買い物をするという目先のことに浮かれていた。行事見習いとして入学してきた数人の女生徒たちも同じ課題に取り組んでいたから、私と瑠璃を含めて十人足らずの少女たちは笑顔を振りまきながら城下町へと降りて行ったのだ。

 街に降りるのは久しぶりだった。今の一年生たちは休日よく街へ下りていくが、私たちのころは休日を殆ど学園の中で過ごしていた。早く知識を吸収したくてたまらなかったのだ。時間があれば図書室で歴史書や術書を読みふけっていた。自習にも余念がなかった。嫌な一年生だっただろうと今になっては思う。
私には特別な事情があったが、同室の瑠璃もまた、街に下りようとはしなかった。私はその理由がわからなかった。瑠璃は明るい少女で、行儀見習いや男子生徒たちにも友人が多いように見えたのに、彼等と街に下りていくところは見たことが無かった。私は特にそのことについて彼女に問うことはしなかった。誰にだって事情があるのだ。
自分の事情を彼女に話すことをしないで、彼女の事情にばかり首を突っ込むことは礼儀知らずのように思えて、私は「友人」の小さな秘密を暴こうとはしないまま、共に一年を過ごした。

「わあ、きれい」
「素敵ねえ」
 少女たちは店先に並べられた簪や櫛、美しい髪紐を手に取っては互いの髪にかざして色合いを楽しんでいた。私たちも例に漏れず、互いに髪飾りを選びあっていた。
店先を通りがかった中年の女性が瑠璃を見て声をあげたのだ。
「あれ、あんた」
 びくり、と隣の瑠璃の肩が跳ねた。彼女は振り返らない。代わりに私が振り向いて、声をあげた女性の顔を見つめた。どこにでもいる、私たちと同年代くらいの少年を連れた母親であった。
「……お知り合い?」
「……」
 私は小さく瑠璃に声をかけた。彼女の名前を呼ぶことはしなかった。瑠璃が声を発する前に、女性の連れていた少年が声をあげた。
「おっかあ、こいつヨツアシだ。いつの間にか村からいなくなったと思ったら、こんなところで女の子の振りしてらぁ」
 ヨツアシ、という言葉が聞きなれなくて、私は眉を潜めた。それが侮蔑の言葉であるということは少年の瑠璃を見る表情で理解できた。傍にいた少女が声を潜める。
「……差別用語よ、二本足で歩くことを許されていない。人間以下、って意味の言葉」
 ――下らない、と思った。
 それから顔を蒼白にしている瑠璃に視線をやって、女性と少年に向き直った。
「――私の友人に、何か御用ですか」
「友人? あんたが?」
 少年が私の言葉を繰り返した。如何にも頭の回転の悪そうな話し方に、こちらの神経が逆立つ。少年が真面目な形相の私に向かって笑い出した。
 笑い声に追い立てられるように、震えていた瑠璃が走り出した。追いかけようと彼女の方を向けば、諌めるように女性が口を開いた。
「お嬢さん、あんた良いところの出だろう。悪いことは言わないから、あれと関わるのは止めなさい」
「ご忠告有難うございます。繰り返させていただきますが、彼女は私にとって大切な友人です。あなた方に口を出される筋合いはありません」
 女性が大きく息を吐いた。悪い人ではないのだろう。面倒見の良さそうな女性だった。その隣で少年が唾を地面に吐き捨てる。子供の教育は行き届いていないけれど。
「あれは、穢多の娘だ。わかるかい? 穢れを受けることを生業にする人々のことだ。彼らは人目に付かない場所で、穢れを身に纏うような、忌み嫌われる仕事を生業としている。人がするような仕事じゃない。だから、穢れに触れないように、あたしたちは近寄っちゃなんねえのさ」
 母親の言葉に被せる様に、少年が大声を出した。
「ヨツアシ! あれは俺たちと同じ人間じゃない、動物と一緒なんだ。あんたも近寄んねえほうが良い」
「……具体的には、何を?」
 私は純粋に驚いた。彼らは大真面目なのだ。穢れだ、と信じ切ったような表情でこちらを見る。瑠璃が何をした? 何もしていないのだろう。罪人であったわけでもない。ただ、穢れだと見なされる仕事を生業にしているだけで、避けられ、侮蔑されているのだ。
「死体の埋葬さ」
 ――ぶつり、と頭の中で何かが切れた音がした。
 白い布団の上に寝かされていた兄の身体が鮮明に思い出される。冷たくなった肌、硬直して泥に汚れた身体を清掃し、装束を着せた人々が、穢れているだと。兄の身体が、死が、不浄なものだと、彼等はそう言ったのだ。
 それは、ひとつの命を救う為に死者の国に足を踏み入れた私を罵ることと同じであった。
「……それじゃあ、貴女たちの死体は野晒しがお似合いだ。死を悼む癖に、死を扱う人々を蔑むのは、死を冒涜することと同義でしょう」
 ひゅ、と母親が息を吸い込んだ。
 自分がどんな表情を浮かべていたのかは覚えていない。少年が母親の手を引いて、二人は弾けるように走り去っていった。気づけば行儀見習いの女の子たちも私を遠巻きに、別の店へと移動してしまっていた。
 私は深く息を吐いた。嫌な過去を思い出してしまった。我武者羅に勉学に励むことで過去のことを忘れようとしていたのに、脳裏に焼き付いた記憶は消せない。
 強く目を瞑って、一瞬だけ力を使う。瑠璃は町から出て、裏山で泣いているようだった。
わたしは唖然とした店主に金を握らせて、簪をふたつ、買った。

***

「瑠璃ちゃん」
「……わ、わぁー。牡丹、なんでわかったの? わたし、かくれんぼ得意なんだけどなあ……」
 樹の上でさめざめ泣いていた瑠璃を追いかけて声をかければ、彼女は顔を覆ったまま気丈に返事を返してきた。声が裏返っているのにわざと茶化した口調で返してくるのがまた痛々しい。
 枝を掴んで隣に腰かければ、瑠璃は手ぬぐいで顔を覆ってしまった。泣き顔を見られたくないのだろう。
「隠しててごめんね。ともだち、やめる……?」
「やめませんよ」
 鼻水を啜る音が暫く続いて、私はその間もずっと、彼女の揺れる肩を見つめていた。
 思えば気づくきっかけは多々あったのだ。
 入学時、受付に名前を書くとき、瑠璃は一瞬躊躇いを見せた。自分の名字を書くことを恐れたのだろう。彼女の名字は、―「弔村」だ。村の弔事を司る一族だったのだろう。
どうして忍者になりたいの、と聞かれた時に瑠璃は「わたしとして生きられるから」と答えた。あまりに詩的な答えに同級生たちは笑っていたが、山本先生は笑わなかった。彼女の生い立ちを知っていたからだろう。
私が初めての友人だと喜んだのは、村で人以下の扱いを受けていたからだ。
どうして、と後悔が胸を打つ。初めてできた同性の友人は、こちらだって同じだったのに。
「瑠璃ちゃん、謝らなきゃいけないのは私の方です」
「なんで、牡丹が謝るの」
「無知でした、友人であるあなたを傷つけました。気づく要素は散りばめられていたのに、気づけなかった。くのいちとしても、友人としても失格です」
「言われなきゃ、気づかないよ。気づかないふりしてくれてたのも、ありがたかったよ。わたし、言ったほうがいいのかなって思ってたけど、言えなかったんだ。恥ずかしいって、気持ちがあったの。自分の家系なのにね。あ、別に悪いことはしてないよ。ただ、死体を弔って埋めてるだけの仕事なんだけど、……みんな、結局死ぬのにね」
 えへへ、とまた瑠璃は笑った。
 無理をして笑うのが癖になっているのだろう。私は思わず彼女の手を取っていた。
「言ってください、辛い時、嫌な時。今日みたいなことがあった時、私は瑠璃ちゃんの助けになりたいです。あんな男、蹴飛ばしてやります。おばさんだって、大男だって飛び上がらせてやります。だから、笑わないで」
 笑って、自分の感情を押し込めたりしないで。
 この学び舎にいる間くらいは、あなたにはあなたで居て欲しい。
 それは私の我儘なのかもしれない、卒業したあとに瑠璃を苦しめてしまうかもしれない。それでも、自分であることを望んで入学したというのに、自ら自分を差別されていた頃の枠に収めてしまっては勿体ないではないか。
「…………ぼたんが、友達で、いてくれて、良かったなあ…」
「私もですよ。ほら、瑠璃ちゃん課題を途中で抜けてしまったでしょう。私が勝手に選んだんですけど、気にいってくれますか」
 ひとしきり泣いた瑠璃の手に先程買った簪を握らせれば、彼女は腫らした目で簪を見つめて、にこりと笑った。瑠璃は鳥が好きだった。小鳥が貝細工で彫られた簪は素朴な造りでも目を引いた。元服前の少女にはよく似合うだろう。自分には花の彫られた同色の簪を買った。お揃いというのは気恥ずかしい気もしたが、瑠璃はご満悦のようだった。
「お揃いだ!」
「そうですよ。これを付けて、また一緒に街へ行きましょう」
「牡丹、ありがとうね」
 くしゃくしゃの顔をして笑う瑠璃に、私まで釣られてしまう。
 ああやっぱり、心から笑っている顔の方が似合う。

***

「……その想い出の簪を付けて、瑠璃ちゃんは友人である私を置いて男と出かけるわけですか……」
「え!? あ! 兵助も声かけて四人でいこ!」
「兵助くんは土井先生のお使いで外出してるんです」
「わかってて言ったでしょ!」
「うふふ、幸せそうで良かったです。その簪をつけるなら、帯はこっちの色の方が合いますよ。八左ヱ門くんとよろしくやるなら素敵にしていかなくちゃ」
「嫌な言い方するなあ……」

 あれからもう四年が経つ。
 命芽吹く春を、清流流る夏を、紅葉散る秋を、雪積もる冬を、何度もめぐりめぐって、私たちは来年にはこの学び舎を飛び立つのだ。
 こうして屈託なく笑いあえる日々の終わりを感じながらも、私たちはそれを心の奥深くに仕舞い込んで笑い声をあげる。
 せめてこの箱庭の中にいる間だけは、仮面を被らずに笑っていよう。
 それは、私と大切な友人との間の密かな約束なのだから。

<花牢と雛鳥>



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