「ただいまあ、牡丹」
月の綺麗な夜だった。忍者にとっては明るすぎる、まるい月の輝く夜。障子から差し込む月明かりが眩しくて、牡丹は眠れていなそうだ。
声を掛けて障子を開ければ、寝間着の牡丹は机に向かっていた。眠っているどころか、予習をしていたのだろう。全く、頭が下がる。
「おかえりなさい、瑠璃ちゃん。顔を洗ってきたらどうですか」
「お風呂、まだお湯残ってないかなあ」
「流石に冷たいと思いますけど、火を起こすの手伝いましょうか」
「そこまでさせないよお、適当に何とかしてから戻ってくるね」
牡丹はわたしの手拭いと寝間着を風呂敷に包んで渡してくれた。
「……瑠璃ちゃん、よく頑張りました。おつかれさまです」
牡丹がわたしの頬を撫でた。手が汚れてしまう、と思ったけれど、彼女の顔を見ていたら何も言えなくなってしまった。優しい人なのだ、とても。
自分が辛くて仕方のないときは隠し通そうとする癖に、まるで自分が手を汚したみたいな顔をして、わたしを出迎えてくれるのだから。
わたしは長期の実習を終えて帰ってきたところだった。とある城に下働きとして忍び込み、臣下の裏切りの証拠を掴むという内容は、今までの実習の中でもとびきり難易度が高かった。
自分ひとりならば、そこまで苦戦はしなかっただろう。下女として潜入するのは得意であった。
けれども、今回は一つ下の後輩も同じ任務に参加していた。彼女も良くやっていたのだけれど、勘の鋭い番頭に、正体を勘付かれそうになった。だから、殺した。それだけのことで随分と疲弊しまう自分が情けない。
牡丹のように上手く片付けられればいいのに、わたしはすぐに相手の命を奪えない。急所は頭に入っているし、武器の扱いだって慣れたはずだった。
それなのに、あの男は中々事切れてくれなかった。切りつけて、動きを止めて、首を締める。ただそれだけのことなのに、終わった時には返り血で身体はぐっしょりと濡れていた。
殺しが下手な忍びというのも滑稽だと思う。今回は殆ど任務が遂行できていたから良かったものの、任務の途中であんな殺し方をしてしまえば大きな騒ぎになるだろう。補修になるだろうか、それも嫌だなあ。
人の命を奪うのは何も初めてではない。方法だって色々試したことがある。それでも、身体を汚さずに敵を始末できた試しはない。
その原因は自分でもなんとなく、わかっている。
わたしは、不安なのだ。人を殺したことに慣れてしまいたくないという感情と、自分と同じ赤い血が流れていることを、桃色の臓物が詰め込まれていることを確かめたいという気持ちが、鬩ぎっているのだと思う。
極力殺しはしたくない、けれど、どうしても、となった時、わたしは自分を正当化しようとする。赤く染まった手を見て安心してしまう。
ーーああ、わたしは人だ。この死体と同じ人間なのだ。だって中身が同じだもの。
罪悪感や後悔よりも先に、安堵が身体を満たすのだから、わたしというやつは庇いようもない畜生だ。
お湯は案の定残っていなかったから、井戸から水を汲んで髪を洗い、身体を拭いた。
すっかり目の慣れた暗闇で、制服を洗っていると洗い桶に涙が落ちた。情緒不安定で嫌になる。
置いていかれて、追いつけなくて、自分に囚われたまま、動けなくなってしまいそう。
情けない妄想をするのにはぴったりの夜。急に寂しくなって、わたしはぴゅうぴゅうと指笛を吹いた。
懐かせた梟が長屋の近くの林に巣を作っているから、機嫌が良ければ飛んできてくれるだろう。
死体の冷たさが染み込んでいる気がして、誰かの体温に触れたかった。わたしの利口な梟は、抱きしめて、頭を撫でさせてくれるくらいは許してくれる。
「……瑠璃?」
「え、」
待てども羽音は聞こえない。わたしが諦めて洗い桶を片付けようとしたところで、林の向こうから声が聞こえた。
灰色の髪を揺らして、ひょっこり顔を出したのは、肩に梟を止まらせた八左ヱ門だった。
「おつかれ。実習帰りか?」
「そう、だけど…、どうしたの? ここ、ほぼくのたま長屋だよ」
「こいつに呼ばれてさ。主人が心配だって、わざわざ部屋まで呼びにきたんだ」
梟は八左ヱ門の頬に自分の頬を擦り寄せて、優しい声で鳴いた。礼を告げたあとは、そっと肩から飛び立ち、林の奥へと姿を消した。なんて主人思いの鳥だろう。
「……それで、こんな夜中にここまできてくれたの」
「ん、何ともなけりゃいいんだ。長居すると不審者になっちまう」
「えへへ、まだ起きていてくれるなら、移動してお喋りに付き合ってくれる?」
この優しい友人がくのたまたちに追い回されるようなことは避けなければならない。
八左ヱ門はわたしの申し出に一つ返事で了承してくれた。私たちは長屋を区切る塀の近くで話をすることにした。手頃な木に登って、枝に腰掛ける。
「おぉ、綺麗な満月」
態とおどけたような声を出した八左ヱ門は、こちらを見て微笑んだ。
「おかえり。実習、大変だったんだろ?」
ぎゅう、と胸の奥が掴まれたみたいに苦しくて、すぐに言葉が出てこなかった。黙っているわたしを彼はじっと待っていてくれる。
「……わたし、あなたみたいになりたかった」
あたたかくて、裏表がなくて、やさしい、八左ヱ門に憧れていた。誰からも好かれる彼のようになりたいと、思っていた。
それか、彼がわたしのものになってくれたらいいのにと、思う。陽だまりみたいな優しい人が傍にいてくれるだけで、汚らしい自分が少しはマシになるような気がする。なるわけがないのに。
「……おまえは、おまえで良いんだよ。瑠璃」
八左ヱ門が手を伸ばしてくたから、わたしは遠慮なく彼の胸に体重を預けた。
乱暴にしてもいいから、わたしを抱いてくれたらいいのに。背を優しく撫でる八左ヱ門の肩口に顔を埋める。他の女の子が泣いていても彼は手を差し伸べるのだろうか、太陽みたいに歯を見せて笑うのだろうか。
嫌だなあ。
「わたし、いつまで経っても自分が大嫌いで、仕方ないんだ」
弱音を吐けば、何も言わずに八左ヱ門がわたしの頭を撫でた。彼の手は暖かい。情けない子どものようにわたしははらはらと涙を流して、支離滅裂な言葉を吐き出し続ける。
「欲を出さないように、嫌われないように、生きていきたかった。でも、わたしは我儘だから。手に入れたものを離したくなかった。失いたくないと意地を貼るくせに、他人から奪うことには躊躇をしない。そのくせ、自分が選んだ道に後悔ばかり、してる……」
情けない告白だとわたしは泣きながら思った。自分の描いた理想とどんどんかけ離れていく現実に、勝手に突き放されて悲しくなっているだけ。
「誰だってそうだ、瑠璃。おれだって、人によく思われたいし、好きな子の前だと格好付けたいよ。友達だって大切だ、あいつらが困ってるなら助けてやりたいと思う。ーーでも、それが、これから命取りになることも、ある」
八左ヱ門の声は低く、大きくないのに鮮明に聞こえた。
「おれは、忍になりたい。人を殺めることも幾度となくあるだろう。裏切りや欺瞞に胸を傷めることも、多分、ある。その度に忍びになることを決意した過去を恨むかもしれない。それでも、いいんだ。
足を止めていい、迷って、悩んで、泣いたっていい。胸くらいいつでも貸してやる、背中だって押してやる。だから、ひとりで泣いたりするなよ」
その言葉があまりに優しいから、声があまりにも優しいから、わたしは勘違いしてしまう。
わたしにだけ優しくしてくれたらいいのに。馬鹿みたいに何度も考えた妄想につられたように、言葉が口から飛び出していた。
「……わたし、八左ヱ門がすき。好きよ」
彼がわたしに抱いている感情が、友情の域を出なくても、わたしは、この人が好きだ。
答えを待つつもりはなかった。言うだけ言って立ち去ろうと立ち上がれば、手を掴まれた。
身体を引かれて、顔が近づく。
「逃げんなよ。おれも、……ずっと触れたかった」
唇が離れて、目の前の赤い顔が視線を逸らした。
わたしもだよ、と告げれば目を丸くした八左ヱ門が笑う。
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