<すくわれなかった水の底>


「匙測、よく来たね。怪我の調子はどうだい」
「予後なかなか良い感じです。ギプスはしばらく取れないみたいですが」
「そうか。暖房入れておいたけど、寒かったら言ってね」
 進路指導室の扉を開けると、ぬるい空気が頬にあたった。放課後の高校は人気がない。先生の後ろを歩けば、来客用のスリッパが爪先から抜けてぱす、と間抜けな音を立てた。
 柔らかな口調で話し出した先生の目をしっかりと見つめることができなくて、隣の職員室から聞こえる先生方の話し声に耳を傾けたり、すっかり暗くなった窓の外にぼんやりと意識を向けていた。
 木製の机の上には、父とわたしの署名がされた休学届けが置かれている。休学の理由欄には『個性不調により、一定期間就学が困難であるため』と書いてあった。
 わたしは、先日トラブルに巻き込まれ、自分の個性が発動できなくなってしまった。ヒーロー養成機関である雄英高校のヒーロー科に、個性が使えない生徒を在学させ続けることはできない。もうすぐ最終学年になるというのに、急に路頭に放り出されたような気分だった。左手のギプスはまだ外れないし、顔にもぐるぐると包帯が巻かれている。自分でも、このまま授業に参加することなど不可能だと理解しているはずなのに、どこか、遠い世界の出来事のように感じていた。
 先生が書類に手を伸ばす。びくりと、肩が跳ねた。
「……よく頑張ったね」
 先生はただそれだけを言って、休学届をファイルに挟めて伏せた。わたしは先生の顔を見ることもできず、教室の奥でカンカンと音を鳴らして部屋を温めるボイラーの音に耳を澄ませていた。
「先生。個性が戻ったら、また……」
「今は怪我を治すことに専念しなさい。個性のことは考えなくて良いから。焦らないで」
 わたしはカーディガンの袖を右手で握り締める。ギプスに覆われた左手は汗ばんでいて、指先の感覚は戻っていなかった。焦らないで。先生の言葉を繰り返す。悪い夢みたいだ。

 休学届を提出して、教室に置いていた荷物を回収すれば用事は終わってしまう。雑多なものは既に紙袋にまとめられていて、玄関先で待つ両親に引き渡すまで、先生が運んでくれた。
 上靴を紙袋に入れる。戻ってこられるのかなあ、と口に出せば両親が心を痛めることはわかっていたので、「わ、さむ〜い!」と自分を抱きしめて見せた。先生も両親も笑っていなくて、わたしだけがへへ、と空元気で笑っていた。


***


 個性が発動できないのは、精神的な影響が大きい、とお医者様は言った。

 退院後に再度訪れた病院にて、両親と共に自分の身体に起きていることについての説明を聞き、それから深刻そうに眉間に皺を寄せたままの両親と食事に行った。
 なんでも好きな物を食べて良いから、と青い顔をした母はわたしにメニュー表を向ける。どれにしようかとわざと声を出してページを捲っていれば、父が勝手に一番上等なステーキセットを三人分注文してしまった。店員に注文を伝えてしまってからは、沈黙が場を支配した。普段は朗らかな両親が沈んでいるのは、ひとえに一人娘であるわたしが心配をかけたせいだ。

 わたしの父の職業は消防士、母は救急隊員だ。個性を活かして世のため人のために活躍する自慢の両親。ふたりの個性を受け継いだわたしは身近なヒーローに憧れて、名門雄英への入学を果たした。努力もした。雄英での日々は当然楽じゃなかったけれど充実していて、卒業してから自分はヒーローになるものだと信じきっていた。
 それなのに、まさか個性目当ての悪漢に拉致されるだなんて、思ってもみなかった。幼い頃から誘拐なんかには気を付けていたはずで、危機感もあったはずで、それなのに、気付いたらわたしは病院のベッドの上にいた。

「……すくい。無理してヒーローにならなくても、他の道は幾らでもあるからね」
「うん」
 母の震える手もとを見つめた。昼時のファミリーレストランの店内は混雑していて、頼んだ料理が運ばれて来るのはまだ先になりそうだった。
「母さんも父さんも、すくいのやりたいことをやらせてあげたいけれど、あなたはヒーローじゃなくても、きっと……」
「うん」
 わたしはずっと、聞き分けの良い娘だった。両親にとっても、周りの大人にとっても、きっと友人たちにとってもそう。定められた測りの上からはみ出すことはなかった。それが正しいことだと、人を傷つけないことだと思っていたから。
 ここでわたしが、ヒーローを諦めたくないと伝えることは、両親の望むところではないだろう。ふたりがわたしを心配していることが痛いほど伝わってきて、それでも。
「……でも、わたしは、ヒーローになりたいから、個性を取り戻すために頑張りたい」
 母と父はわたしの言葉に目を見開いた。心配かけてごめんね、と口にすればまた決意が揺らぎそうなので、飲み込んだ。
 二人は顔を見合わせて、父が携帯の画面を母に見せた。こくこくと頷き合う二人もまた、何かを決めたようだった。
「……すくいが望むなら、父さんも母さんも協力する。また、怖い目に合うかもしれない。傷つくことも、苦しいことも、避けては通れない。……いいのか?」
 まっすぐわたしを見つめる父の目を、見つめ返して頷いた。痛くて苦しくて怖くて逃げ出したくてたまらなくて、それでも。助けてくれた人がいたから、
「がんばりたい」
「わかった」
 頷いた父は立ち上がると、どこかへ電話を掛け始めた。
 母はわたしと父の後ろ姿を交互に見て「母さんの個性が怪我を治せるものだったら良かったのに」と言って息を吐き出した。
 個性は神様からの贈り物だ。奇跡でも無い限り、自分の能力を譲渡することは難しいだろう。わたしたちの特性を表す“個性”、という言葉は中々倫理的だと思う。時代が違えば、“化け物”だ。
「沢山の人を助ける母さんは立派だよ。個性も含めてね。わたしが怪我しなきゃ良いだけ!」
「……すくい、母さんは」
「すくいーー! 交渉成立!」
 母の言葉を遮って、突然父が大声を出して戻ってきた。母は「空気の読めない人!」と呟いて、握りしめた拳で父の脇腹を叩いた。
 父の交渉の内容を聞こうとしたところで、タイミングよく運ばれて来た三人分のステーキは湯気をくゆらせて鉄板の上で軽快な音を立てる。
 わたしたちはとりあえず一口お肉を味わってから会話を始めることにした。
「旨い! ……来週から父さんの知り合いのヒーロー事務所で、勉強をさせてもらえることになった。個性が使えないことは話してあるし、社会勉強だと思ってお茶汲みから手伝っておいで」
「……来週はかなり急じゃない!?」
「善は急げ、迷ったらとりあえず駆け出したほうが良いんだ。なあ母さん」
「おいし……。そこは間違いないわね」
 行き詰まったらまずは駆け出せ、と二人して口にする両親も少し元気が戻ったようだ。ようやく治った歯でステーキに噛み付く。うま!と声が出た。
 わたしは少しだけ前向きになる。足踏みばかりじゃ前に進めない。つんのめっても良いから、進むのだ。


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