<すくわれなかった水の底>

 「君はもっと自分を大事にしなさい」と面談の際に担任の先生に言われた時、我ながら珍しく反論が口をついて出てきた。
 「でも、先生、わたし臆病だから、自分のことを考え過ぎると足が竦んで動けなくなってしまうんです。それで何度か失敗もしています。わたしたちにとっての失敗って、人の命に直結することが多いじゃないですか。そこで後悔したくないから、臆病風に吹かれる前に飛び出そうって、思ってしまって…………」
 その後の言葉が続かなくて、机の下で爪先を擦り合わせる。視線を上げると先生がこちらを見つめて、わたしの肩を指した。
 頑丈なギプスを嵌められた左肩は未だに鈍痛が走る。虫歯の患者のように顔の周りに巻き付けられた包帯もまだ外せない。そう、わたしは課外授業で怪我を負って退院したばかりであった。
「言い分は理解できるが、それで怪我ばかりされるのも困るよ」
「まあ……そうですね」
 はあ、と溜息を付いた先生は見た目こそ強面だけれどもとても優しい方だ。この学校の教師は皆適切な正義感と倫理観を持ち、親身になって生徒に接してくれる。本当に、“ヒーローを育成する”機関の職員らしい、とわたしは生徒の分際ながらも次の言葉を探す先生の言葉を待ちながら呑気に構える。
「それで、匙測。きみの“個性”は戻ったのかい?」
 へへ、と誤魔化すように笑って頭を掻けば先生は苦虫を噛み潰した様な顔をして机を拳で叩いた。学校の備品であろう机は簡単にひしゃげて形を変える。
 音に驚いた他の先生方が教室の扉を叩いた。先生はわたしに謝罪の言葉をかける。まるで自分のことのように、わたしに起きた事態を受け止めてくださるのだ。
 情けないことに、わたしは先日巻き込まれた事件によって個性が使用できなくなってしまった。
 ヒーロー養成機関として名を馳せる名門、雄英高校にいながら個性が使えないというのは中々……致命的な痛手であった。

***

 個性が発動できないのは、精神的な影響が大きい、とお医者様は言った。
 退院後に再度訪れた病院にて、両親と共に自分の身体に起きていることについての説明を聞き、それから深刻そうに眉間に皺を寄せたままの両親と食事に行った。
 なんでも好きな物を食べて良いから、と青い顔をした母はわたしにメニュー表を向ける。どれにしようかとわざと声を出してメニュー表を捲っていれば、父が勝手に一番上等なステーキセットを三人分注文してしまった。店員に注文を伝えてしまってからは、沈黙が場を支配した。こういう雰囲気は苦手だ。
 わたしの父は消防士、母は救急隊員だ。自分の個性を活かして世のため人のために活躍する二人は娘のわたしから見ても“カッコイイ”自慢の両親であった。そんな両親の個性を受け継いだわたしは子どもらしくヒーローに憧れて、ヒーロー養成学校への入学を果たした。
 順風満帆な人生だと思っていた。わたしも、両親も。
「ステーキ楽しみだなあ。学校はしばらく休んで大丈夫だって」
「個性が発動できなきゃ授業にならないものね。なにかやりたいこととかある?」
 母は言葉を選んでいるようだった。
「……無理してヒーローにならなくても、他の道は幾らでもあるからね」
 今更、幼い子供に諭すような言葉にしなくてもいいのに、とわたしは気を遣う母の震える手もとを見つめた。昼時のファミリーレストランの店内は混雑していて、頼んだ料理が運ばれて来るのはまだ先の事のように思えた。
「母さんも父さんも、すくいのやりたいことをやらせてあげたいけれど、あなたに向いているのはヒーローじゃなくて、きっと……」
「わかってるよ。わたしのやりたいこと、きっとヒーローにならなくても達成できると思うし、安全に人のこと助けてあげられる場所って、沢山あるよね」
 わたしは、聞き分けの良い娘だった。両親にとっても、周りの大人にとっても、きっと友人たちにとってもそうだろう。困っている人を捨て置けないお人好しの優等生。自分で、そうありたいと思っていた。
 人の感情に寄り添うような優しい人間になりたかったから、望まれるままに行動してきた。だから、それに倣うのなら、わたしはここで母の言葉に従うべきなのだ。
 けれど、わたしは、わたしの感情を優先することにした。
「でも、わたしはヒーローになりたいから個性を取り戻すために頑張るつもり」
 母と父はわたしの言葉に目を見開いた。
 それから二人は顔を見合わせて、父は少し考える素振りを見せて携帯の画面を母に見せた。こくこくと頷き合う二人が何を言いだすのか、わたしは回答を待つ。
「……すくいが望むなら、父さんも母さんも協力するよ」
「そう言ってくれると思ってた」
「個性が戻るまで父さんや母さんの職場を手伝ってもらおうと思ってたけど、やめた」
 にこりと笑う父はわたしの返事も待たずにどこかへ電話を掛け始めた。
 母はわたしと父の後ろ姿を交互に見て「母さんの個性が怪我を治せるものだったら良かったのに」と言った。個性は神様からの贈り物だ。奇跡でも無い限り、自分の能力を譲渡することは難しいだろう。わたしたちの特性を表す“個性”、という言葉は中々倫理的だと思う。時代が違えば、“化け物”だ。
「母さんの個性だって立派だよ、沢山の人を助けてるでしょ」
「……すくい」
「すくい! 交渉成立!」
 母の言葉を遮って、突然父が大声を出して戻ってきた。母は握りしめた拳で父の脇腹を叩いた。
 父の交渉の内容を聞こうとしたところで、タイミングよく運ばれて来た三人分のステーキは湯気をくゆらせて鉄板の上で軽快な音を立てる。
 わたしたちはとりあえず一口お肉を味わってから会話を始めることにした。
「お、中々いい肉使ってんなあ……。あ、すくい。来週から父さんの知り合いの事務所で勉強させてもらうことになった。個性が使えないことは話してあるし、社会勉強だと思ってお茶汲みとかから手伝っておいで」
「……え。急じゃない?」
「善は急げ、迷ったらとりあえず駆け出したほうが良いんだ。なあ母さん」
「そこは、まあ、間違いないわね」
 それは職業病じゃないのかなあ。
 わたしは分厚いお肉にナイフを入れながら、漠然と来週からのことを考えた。


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