<水面は深海の味を知らず>

 学校を休んで、一週間が経った。
 腕の怪我以外はすっかり完治したので、わたしは菓子折りを持って父に教わった住所にやってきていた。電車を乗り継いで1時間。都内の事務所を紹介されるとばかり思っていたので、調べた住所の指し示した先には単純に驚いた。
 わたしの目的地は関西地方江州羽市。自己主張の激しい丸々とした建物はとあるヒーローの事務所である。父のツテ、というのは中々侮れないものだ。
 プロヒーロー“ファットガム”の事務所がわたしの勉強先であった。
 いざ扉の前に立つとぶわりと汗が滲む。プロヒーローは多忙だ。わたしも何度かインターンで他のヒーローの事業所にお邪魔したことがあるからわかる。敵が現れば迅速な対応を求められるが、個人で立ち上げた事務所の管理も行わなければならない。仕事量はどこだって膨大なのだ。
 ファットガムといえば名の通ったヒーローだ。そんな人のところに個性の使えない一介の生徒がお邪魔して良いのだろうか。勿論謝礼は出すだろうし、わたしも何でも手伝うつもりではいるけれど、意外と押しの強い父に押し切られて……なんてことになっていたら非常に申し訳ない。なんだか心配になってきた。
(……ふ、普通に緊張するな)
 チャイムを鳴らせばインターホンから軽快な声で返事が返ってきた。
『はーい どちら様?』 
「すみません。いつも父がお世話になっております。今日からお世話になる匙測です」
『あー! アカン! 今日やったか!!』
 え、忘れられてる?
 どたどたとドアの向こうで走り回る音が聴こえる。
『ちょっと待っててなー! 環、扉空けてきて』
 インターホンから聞こえてくるのは柔らかい関西弁だ。そして数分もしないうちに扉が開く。顔を出したのはファットガムではなく、顔色の悪い青年であった。
「………………どうぞ」
 重めの前髪に、視線の合わない三白眼。丁寧に頭を下げる彼は、どこかで見たどころではない。隣のクラスの天喰環くんだ。ファットガム事務所は彼のインターン先なのだろう。
 先客がいるなら先に言ってよ、お父さん……!
 まさか学校の知り合いがいる事務所にお世話になるとは思っていなかった。天喰くんは雄英高校でも名の知れた実力者だ。極度に気が弱くて緊張しいなところが玉に瑕らしいけれど、それでも実力はお墨付きなのだ。
 そんな彼と同じ場所で、わたしはメンタルで個性が使えないときた。折角斡旋してもらった勉強先だけれど、既に気が重くなってきてしまった。
 彼の登場に面食らってしまったわたしはぎこちない挨拶をして事務所の中に入る。
 天喰くんは丁寧にわたしに来客用のスリッパを用意してくれて、彼のあとに着いて行く。天喰くんは何も言わないし、何も聞かない。わたしが起こした事件はそこそこ大きな話題になったので、休学する理由もなにも知っているのかもしれない。
 執務室の扉が勢いよく開いて、扉一杯の丸々とした身体が視界に映った。
「よく来たなあすくいちゃん! 俺がファットガムや。お父さんにはそれこそ若い頃バリバリに世話になってました。今回色々事情アリらしいけど、よろしくな!」
 ファットガムはとても明るい方だった。来客用の椅子に座らせてもらって、彼の話を聞いているうちに緊張がほぐれていくのを感じる。
「そ、粗茶ですが……」
「環おまえ、同級生に茶出すのに緊張する奴がどこにおんねん」
 天喰くんが震える手でお茶を出してくれて、そのあとにファットガムの隣に座る。彼はもう半年間もファットガムの下でインターンを行っているらしい。
「すみません、先に天喰くんがいたこと知らなくて」
「いやいや人出はなんぼあっても困らんし、こいつはほぼ一人前やからなーんも心配いらん。それよりも。すくいちゃんは個性出せなくなったらしいな。原因はわかっとる?」
 一人前、と言われた天喰くんが照れたように俯く。同級生の知らなかった一面だ。
 それよりも、と言われたわたしは二人に向かって口を開く。
「身体に異常は無いんです。個性はわたしの身体の中に残っているのに、発動しようとしてもできなくて……。先日、お恥ずかしいことに事件に巻き込まれまして、その時のことがトラウマになったのかと思ってます」
「“ハッピージャンク”か」
「あ、ご存じですか」
「ご存じも何も、俺はその昔麻薬取締の方で働いとったからな。あいつらは最悪の集団や。今回捕まえられたのもホントに僥倖っちゅうか……」
 ハッピージャンク、というのは麻薬を取り扱っていた売買組織の名前だ。それと共に、組織で開発された新しい薬の名前でもある。ヘロインの中毒性と阿片の依存性を併せ持つ非常に強力な麻薬は密かに出回り、暴力団やヤクザの新たなシノギとして注目されていたらしい。
 その薬の製造には大変な手間がかかり、値段が高騰していた。だから、それを簡単に作成する術をハッピージャンクは喉から手が出る程に欲していた。
「わたしの個性、“計量匙”といいまして。右手で測ったものの体積や質量を変化させることができるんです」
 右手を開いて二人に見せる。本来ならば、わたしの五本の指はそれぞれメジャースプーンへと変化するはずであった。生身の指先を見て、天喰くんが口を開いた。
「救助の授業でよく匙測さんの名前を聞くよ。優秀な個性だって」
「えへへ、ありがと。……そのハッピージャンクに、目を付けられてしまったんです」
 ボランティアに参加していた時のことだった。わたしの個性は災害時や人命救助に適していたから、綺麗な水を増やしたり、土砂を減らしたり、やることは幾らでもあった。まさか、敵が来るだなんて完全に想定外だったものだから、殆ど抵抗もできずに拉致されてしまったのだ。
 あまり思い出したくはないけれど。ハッピージャンクはわたしに薬を増やすように命じた。雄英生の個性、特にヒーロー科の個性は隠されるより体育祭等で逆に披露されるものなので、わたしの個性が学外に知られていることも不思議では無かった。
 あとは、押し問答だ。わたしの個性はわたしの意思が無ければ物質を変化することはない。増やせ、と言われても右手の指を匙状に変化させ、物質の変化する量をこちらで決めなければ能力は発動しない。
「あとは、ご存じの通りです。指も元に戻ったので、五体満足の帰還だったんですけど」
 左手のギプスを外して、腕をテーブルの上に置く。砕けた骨は繋がったはずなのに、左腕は置物のように動かない。きちんと五本揃った左手の指の根元、小指と薬指にはまだ糸が残っている。一度離れた物を接続した痕だ。
 薄暗い建物の中に連れ込まれ、椅子に縛り付けられる。血走った目の男たちに従わないことだけが、わたしにできることだと直感が伝えていた。ただただ、あの時間は恐ろしかった。
 薬を増やしてしまえば、自分はもう用済みになることも理解できた。だから、わたしは耐えるしかなかった。
 能力を使おうとすると、あの時のことを思い出して背中に冷や汗が伝う。
 ばつん、と聞こえないはずの鈍い音が耳を打つ。錆びた鉈は切れ味が悪い。力任せに振り降ろされた鉈で、切り取すというよりは、押しつぶすように、わたしの指が、根元から離れる。
「すくいちゃん、もうやめろ。話さなくて良い」
 立ちあがったファットガムがわたしの肩を掴んだ。机が揺れてお茶が零れた。わたしは吐き出された短い呼吸が自分のものだと気づくのに時間を必要とした。
 鉈で指を切り落とされた恐怖が、いつまで経っても消えない。
 夢にまで見る、この恐怖を拭うことができなければ、わたしはもうヒーローにはなれない。
 

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