<水面は深海の味を知らず>

 
 扉の前でわたしは幾度目の深呼吸をした。両親に持たされた手土産の紙袋の持ち手はすっかりシワシワになってしまっている。ヒーロー事務所の玄関前で永遠とも言える深呼吸を繰り返す学生、客観的に見てかなり胡乱なやつだろう。
 電車を乗り継いで2時間半。揺られゆられて辿り着いた先は関西地方江州羽市。てっきり県内の事務所にお世話になるものと思い込んでいたので、父から住所を聞いて驚いた。慣れない公共交通機関を使うので、早めに家を出たら1時間も早く着いてしまった。周囲を歩いてみようとしたけど、知らない道はなんだか不安で、やめた。結局事務所のまわりをぐるぐるまわって、コンビニに売っているご当地パンを眺めてみたりして時間を潰していたのだが、ついに約束の時間が来てしまった。
(……いざ、まいります!!)
 ぐに。インターホンに指を押し込む。眼前に聳える自己主張の激しい丸々とした建物はとあるヒーローの事務所である。父のツテ、というのは中々侮れないもので、プロヒーロー“ファットガム”の事務所がわたしの勉強先であった。
 プロヒーローは多忙だ。わたしも何度か他のヒーローの事業所にお邪魔したことがあるからわかる。敵が現れば迅速な対応を求められるが、個人で立ち上げた事務所の管理も行わなければならない。仕事量はどこだって膨大なのだ。
 ファットガムといえば名の通ったヒーローだが、そんな人のところに個性が使えない一介の生徒がお邪魔して良いのだろうか。勿論両親は謝礼を出すだろうし、わたしも何でも手伝うつもりではいるけれど、意外と押しの強い父に押し切られて……なんてことになっていたら非常に申し訳ない。なんだか心配になってきた。
 チャイムの音が反響して、数秒。インターホンの向こうから明るい男性の声が返ってきた。
『はーい! どちらさん?』 
「いつも父がお世話になっております。今日からお世話になります匙測と申します!」
『あぁーーッ! アカン今日やった! ちょっと待っててなー! 環、扉開けてきて……』
 あっ忘れられてるかも?! 忙しいところに面倒をかけてしまい申し訳ないという気持ちが沸き上がる。そしてやはり父はゴリ押しをしたのではなかろうか。
 インターホンに出てくれたのがファットガムだろう。悲鳴によってビリビリと割れた音声の端でバタバタと足音が聞こえ、そしてしばらくして扉が開く。様子を伺うように、細く開けられた扉の隙間から顔を出したのは顔色の悪い青年であった。
「………………どうぞ」
 重めの前髪に、視線の合わない三白眼。丁寧に頭を下げる彼は、どこかで見たどころではない。隣のクラスの天喰環くんだ。ファットガム事務所は彼のインターン先なのだろう。
 先客がいるインターン先に捩じ込むな!! 父!!
 まさか学校の知り合いがいる事務所にお世話になるとは思っていなかった。天喰くんは優秀な生徒だ。極度の緊張しいと聞いたことがあるけれど、それでも実力はお墨付きなのだ。
 そんな優秀な人と同じ職場で、お世話になるわたしは個性が使えないお荷物ときた。折角斡旋してもらった勉強先だけれど、ちょっと気が重くなってきてしまった。事務作業とか頑張ってお手伝いしよう……。
 天喰くんの登場に面食らってしまったわたしはぎこちない挨拶をして事務所の中に入る。
 慌ただしい出だしだったけれど、来客の準備はしっかりされているようで、玄関には来客用のスリッパが一揃い用意されていた。居心地の悪さを感じながら、案内されるがまま着いて行く。天喰くんは何も言わないし、何も聞かない。わたしが巻き込まれた事件はそこそこ大きな話題になったので、休学する理由もなにも知っているのかもしれない。流石に何も話さないのもな、と口を開く。
「ええと、天喰くんのインターン先だったんだね。急にお邪魔しちゃってごめんね」
「いや…………」
 会話は終わってしまった。
 天喰くんが執務室の扉に手を掛ける。何かを説明してくれようとしたのか、一度唇が動いたけれど、開く前に一文字に結ばれてしまった。あんまり仲良くない同級生が突然自分のインターン先に来たら居心地悪いよね……。わたしはやや俯きながら彼の様子を窺う。
「うわ」天喰くんが一歩後ろに引いたと同時に、扉が勢いよく開いて、丸々とした身体が視界に映った。
「よく来たなあすくいちゃん! 俺がファットガムや。お父さんには若い頃バリバリに世話になってました。今回色々事情アリらしいけど、よろしくなぁ!!」
 一瞬固まってしまった。天喰くんと声量が三倍くらい違う。いやでもしかしここで負けてはダメだ。先程永遠とも言える深呼吸で喉を温めたのは何のためだったのか。
「匙測すくいと申します! お忙しいところご迷惑をお掛けしますが、なんでもやりますので勉強させてください!! よろしくお願いします!!」
 ……天喰くんの倍は出た!! 彼はファットガムとわたしの声量に驚いたのか肩を跳ねさせて、部屋から静かに出ていってしまった。彼の好感度ゲージが目視できたら、きっと見る見るうちに減っているだろう。
「すくいちゃん、元気ええな!」
 ファットガムはとても明るい方だった。来客用の椅子に座らせてもらって、彼の話を聞いているうちに緊張がほぐれていくのを感じる。
「そ、そそ粗茶ですが……」
「環おまえ、同級生に茶出すのに緊張する奴がどこにおんねん」
 天喰くんが震える手でお茶を出してくれて、静かにファットガムの隣に座る。なんて気が利く人なんだ。聞けば彼はもう半年間もファットガムの下でインターンを行っているらしい。
「あの、すみません。先に天喰くんがいたこと知らなくて」
「いやいや人出はなんぼあっても困らんし、こいつはほぼ一人前やからなーんも心配いらん。それよりも。すくいちゃんは個性出せなくなったって聞いたで」
 一人前、と言われた天喰くんが照れたように俯く。同級生の知らなかった一面だ。
 それよりも、と言われたわたしは二人に向かって口を開く。
「お恥ずかしい話なんですが、自分の個性が原因で、先日拉致騒ぎが起きてしまいまして……’
「原因、なんて、そんな……」
 顔を上げた天喰くんが声を出した。尻窄みになって消えた言葉はわたしをフォローするものだ。やっぱり、みんな知っているのだ。天喰くんはやさしい人だから言わないでいてくれた。わたしが何をされたのか。
「わたしの個性は"計量匙"といって、個性を発動すると両手の指がメジャースプーンになります。右手で測ったものの体積や質量を変化させることができる。増やしたり減らしたものは、左手からスプーンに乗って出てきます。下限は小匙1杯から。上限は体重の重さまで。……純度の高い覚醒剤なんかを、一瞬で大量に精製できたら、それってすごい、儲け話ですよね」
 末端価格でも1g5万円。もっと高いだろうか。高額で取引されるものを、リスクなしで増やすことができる。わたしの個性は、そういう危険性を孕むものだった。
「だから、攫われちゃった」
 幸いにも記憶は飛び飛びで恐ろしいシーンはあまり覚えてないけれど、感覚だけは染み付いている。ばつん。鈍い音。冷たい金属が皮膚を破る瞬間、血が吹き出す熱さ。骨に引っかかって、刃が軋む音。一瞬のことだったのにひどく長く感じた。わたしの小指が身体から離れた時のこと。
「個性を使えって強いられたから、断りました。本当にできると知られたら,どうなっちゃうかわからなかったから。助けてもらえるまで待とうと思って、個性を発動しないことだけを考えて、それで………助かった時には、逆に使えなくなっちゃって……」
「その手は、その時の怪我か」
 ファットさんが遠慮がちにギプスを指差した。わたしは話に夢中になって自分がひどく興奮していることに気付く。天喰くんが淹れてくれたお茶はすっかりぬるくなってしまったが、唇を潤すにはちょうど良かった。
 ギプスの金具を外す。本当はもう固定もいらないのだ。骨折はリカバリーガールのお陰で治っている。右手に比べるとやけに白い肌をした左腕が現れる。繭の中にいる芋虫のようだと思った。
 手首を右手で掴んでテーブルの上に置いた。模型みたいに強張った指先。一番端の小指には、ジグザグ模様に糸が通っている。
「怪我はもう治ってて、指も無事にくっついたんですけど、肘から下が動かなくなっちゃって。だから、個性も、ダメで」
 あっ泣きそうかも。消毒液の匂いがツンと染みて、鼻を啜った。ファットさんがティッシュの箱を差し出してくれる。わたしは遠慮なく鼻水をかむ。
「刃物、もっ、怖くて、暗いところもまだ、ちょっと……。でも、それじゃあ、ダメで」
 ヒーローになるには、そんなの全部克服しなくちゃならなくて。あと少しのところにあったはずのものが全部遠くなっちゃって、わたし、怖いのだ。
「すくいちゃん、もうええ。話してくれておおきに」
 立ちあがったファットガムがわたしの肩に手を乗せた。あたたかい大きな手だ。天喰くんがティッシュの箱を寄せてくれたので、またしても遠慮なく鼻水をかんだ。
 それでも諦めたくないんです、と掠れた声が漏れた。そんなの知ったこっちゃないよって、言われたって仕方ないのに、人助けを生業とする人たちは途方もなくやさしいから、「諦めなくていい」と手を掴んでくれるのだ。
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