「環くーん、これどこにしまったらいいー?」
 奥の部屋から、間延びした声が聞こえてくる。自分の名を呼ぶ声が恋人のものであることは明白で、意識しはじめてしまうと急に気恥ずかしさを覚えた。
 就職するにあたって、1LDKの部屋を借りた。関西地区の少し外れ。職場からは多少距離があるが、駅も近ければ活気のある商店街も近いのが気に入った。男の一人暮らしには持て余しそうなほどの部屋だが、「疲れて帰ってきたときに狭くて汚い部屋だと気分も上がらない」と上司であるファットガムが力説するものだから少々贅沢をした。因みにファットガムの部屋は広いが物が散乱していて、落ち着く部屋だとは言えそうにない。
「クロゼットの中の小箱におんなじシリーズで入れていいー? いれちゃうよー」
 リビングで荷解きをしていた俺に、もう一度柔らかい声がかけられた。引越しは昨日であらかた終わった。今日は細々とした物を片付けるだけなのだが、生真面目な恋人のお陰で片付けは順調すぎるほどに進んでいた。明るくて笑顔がとびきり魅力的な、俺の、こいびと。すくいさん。改めて、自分には勿体なさすぎるほどの女性だと思う。それなのに、彼女はその笑顔を振りまいて俺のそばにいてくれる。
「……すくいさんに引越しの手伝いまでさせて、なんて面の皮の厚い奴なんだ俺は……ッ」
「こらーーなんでナーバスになるの! わたしはずっと電池をしまう場所を探してるのに!」
「ウッ」
 ドッ、と鈍い音がした。結構な速度で俺の背に体当たりをかましてきたすくいさんの細長い腕が腹に絡まる。苦しくはないけれど細い指が動くとむず痒い。思わず笑い出せばすくいさんが俺の背中からひょこと顔を出した。
「休憩する? アイスコーヒー作ったげよっか」
「働かせすぎだ。すくいさんは座ってて」
「ううん。わたしは自分が贈ったコーヒーメーカーの実力を試したいのです!」
「わ、わかったよ…」
「環くんは引越し祝いシリーズからお菓子を探し当てて!」
 すくいさんの足音が新居のフローリングを駆けていく。小さなキッチンに立つ彼女の姿を眺めていると、なんだか、本当に身の程を弁えない想像をしてしまいそうになる。
 丁寧に仕分けられた段ボールの山から、チョコレートやらクッキーが詰め込まれた箱を探し当てて、一番上にあったチョコレートの缶を取り出す。テーブルの中央に置けば、すくいさんが新しい冷蔵庫を楽しそうに開け閉めしている姿が視界に映った。
 うふふ、と鼻歌まで聞こえてくる。マドラーは無いから、箸でくるくるとかき混ぜられたアイスコーヒーがテーブルに置かれた。「召し上がれ!」
 新品のレースカーテンが揺れて、柔らかな日差しが差し込みテーブルの上を照らした。からり、と光を浴びた氷が溶けてコーヒーに沈む。



 高校を卒業して、俺は学生時代から世話になっていたファットガム事務所に就職することとなった。雄英高校でも群を抜いて優秀であったすくいさんは大学受験を難なくパスして、今や花の大学生だ。当然、彼女は卒業と同時にヒーロー免許を取得しているので、数多の事務所から声がかかったが、御両親の意向もあり、大学で数年勉強したのちに社会に出ることを選択したのであった。大学生活は人生の夏休み、だなんて呑気に言われがちだけれど、彼女は社会人一年目の俺から見ても多忙そうであった。大学の勉強に加えて、土日はボランティアに精を出して、かと思えば顔馴染みの事務所の手伝いに向かうのだから、もう少し休んだり、大学生活を謳歌した方が良いんじゃないのか、と口を挟みそうになる。
 俺の余計な思案を他所に、すくいさんは大学が早く終わった日は夕食でも作りに来ようか、と申し出てくるのだから頭が下がる。
「わたしまだ責任がないからね。だから面倒なこととかじゃんじゃん手伝ってあげるよ!」
「きみは責任感の塊みたいな女じゃないか」
 アイスカフェオレを早々と飲み終わったすくいさんは、チョコレートをひとつ摘み上げて口に放り込んだ。反論の準備をするかのように、柔らかな唇が尖る。
「そんなそんな、大学生活でばっちり身に付けますよ、自責の念とか」
「分けてやりたい」
 二人して笑った。すくいさんと一緒に過ごすようになって、笑うことが増えた。朗らかな自分なんて想像するだけで気持ちが悪いが、彼女はきっと好意的に受け入れてくれるだろう。
「すくいさん、あの、これ。引越しの手伝いから、なにからありがとう」
 渡す機会を伺って、ポケットに入れっぱなしにしていたから、すっかり温くなった金属を取り出した。ホームセンターの針金じゃ味気ないから、大量に押しつけられたファットガムのキーホルダーを結びつけたそれは、褒美をもらうかのように差し出されたすくいさんの掌に収まった。
 なんの変哲もない鍵をまじまじと見つめて、それからすくいさんはすばやく鍵をポケットに仕舞い込んで、俺の首に向けて飛びついた。
「わ!」
「夢の合鍵だー! ありがとう! 沢山遊びにくるね!」
「ぜひ……。でも、俺の身の回りのことなんかはやらなくていいから。きみの生活もあるしね」
「む? ご飯は作ってもいい?」
「それは、……すごく、嬉しいけれども」
「やったやった! 掃除洗濯なんかはきっと環くんのほうがしっかりできるよ! わたし早速部屋がごちゃごちゃ」
「片付け手伝おうか?」
「うっ……でもパンツとかあるからダメ!」



 夕飯はすくいさんが作ってくれた。早速甘えてばかりで申し訳ないが、彼女は本当に料理が上手で、俺の個性のことまで考えてくれた丁寧な料理は見た目も味も申し分なく、こちらとしても楽しみのひとつなのでお願いしてしまった。
 簡単なものしか作れないよ、と言いながら用意されたチキンソテーとクラムチャウダーは見事な出来栄えで、ついお代わりまでしてしまった。
 皿洗いくらいは流石にやらせてくれ、と彼女の手から皿を奪えばすくいさんは頬を膨らませて席に着いた。引越しの手伝いのお礼に買った少し高いアイスをひとつ手渡せば黙って封を開けだしたのでその隙に皿を片付ける。
「ねえねえ環くん」
「なんだい」
「えへ、おいしい」
 そりゃあ良かった、と彼女の方を見ればアイスクリームを頬張る頬が赤く見えて、こちらまで気恥ずかしくなる。もしかして、すくいさんも、俺と同じような想像をしていたのかもしれない。これからの、都合の良い幸せな未来のこと。
 
 他愛も無い談笑をしながらも、壁掛け時計に視線を向ける。俺の家から彼女の家まではバスで30分程度だ。すくいさんは「襲われる心配なんてない」だとか「少しくらい歩いても体力づくりになる」だとか、思わず眉を顰めたくなるような台詞を吐くので、余り遅くなる前に帰った方がいいと声を掛ける。
 いくらヒーローとはいえ、女の子の一人暮らしだ。親御さんも心配するだろうし、あまり遅い時間にひとりで歩かせるのは俺が嫌だ。
 本音を言えば、泊って行ってくれればいい、とも思ったけれど、引越しまで手伝ってもらった上で我儘を言うのは気が引けた。
「それじゃあそろそろ帰ろうかなあ。平日早めに帰れる日があったら一緒にご飯食べようね」
「うん。今日はありがとう」
「こちらこそ。あ、鍵はわたしが閉めるね!」
 可憐に手を振って、すくいさんの姿が消える。鍵が回る。名残惜しむように静かになった玄関の扉を見つめてしまうのが我ながら女々しい。
 背を向けたところで、物音が聞こえた。鍵が回る音だ。足を止めて振り返れば、ドアが少しだけ開いて、見覚えのある瞳と目が合った。
「……すくいさん?」
「ーーあっ、まだいたの!! 合鍵早速使いたくて開けてしまったよ。閉めてかえーー」
 言葉の途中で、思わずドアを開けて手を掴んでしまった。そのまま玄関に引き込んで、目を丸くするすくいさんを胸の中に押し込む。玄関先に置いたサンダルを履く余裕もなかった、足の裏が冷たいのに、身体がひどく熱い。小さな鍵を握りしめて喜ぶ、かわいい俺の恋人。
「……今日は、泊まって行きなよ」
 胸元で彼女の頭が揺れた。柔らかな髪から覗く耳朶が赤い。柔らかい頬を撫でて、澄んだ瞳と視線がかち合った。もう離してあげられない。


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