珍しく環くんから連絡が来たので、久々に彼の部屋のドアを叩いた。最後にお邪魔したのはケーキをぶん投げて喧嘩したあの日以来なので、自分の凶行を思い出して短く息を吐き出す。
 ノックのあとにすぐに返事が聞こえて、ドアが開く。部屋着の環くんは柔和な表情を浮かべていて、思わず「良かった」と声が出た。
 相変わらず物の少ない部屋だ。ローテーブルの上には紙皿とプラスチックのフォークが並べられていて、中心に薄桃色の紙箱が鎮座する。跳ねるうさぎの模様と箱の右下に印字された店名は、わたしの目を奪うには十分だった。
「……こ、これ……」
「あ、やっぱりわかるの」
「白兎屋のケーキ!? えー!!すごい!!」
 わたしが声を上げると環くんは照れたように頬を掻いた。
「快気祝いで……」
「甘やかしすぎでない? いただいた桃も食べたよ、わたし」
「あとは、ええ……、その、……、とりあえず、座って」
 あ、クッションが増えてる。遠慮なくお尻を置けば、あまり使われていないのか新品らしい弾力が返ってきた。
「好きなの、とっていいよ」
 箱をあければ眩しいほどに光り輝くおケーキ様たちが顔を出した。白兎屋のケーキは本当に美味しくて、幼女から老婆までを虜にする魔のスイーツとして有名なのだ。食べログの評価は不動の星5だ。だから買うのも中々大変だというのに。
「すくいさん三つ食べていいから」
「え! そ、そんなのダメ……」
 なんてことを言うの! 環くんはここのケーキを食べたことがないからそんなことが言えるのだ。舌触りが軽いのにしっかりと味の残るクリーム、果物は新鮮で甘酸っぱくてアクセントの役目を充分すぎるほどに果たしているし、スポンジなんて神様が手ずから作ったのかと思うほどきめ細やかだ。土台のタルト生地には拍手を浴びせたい。
 とりあえず半分食べて、とわたしはケーキを真っ二つにして環くんのお皿に乗せる。環くんは困ったように皿を自分の前に引き寄せて、短く息を吐いた。
 なんだろ、嫌な予感がする。言葉を紡がせたくなくて、邪魔をするように自販機で買った紅茶を彼に押し付ける。
「環くん、紅茶も買ってきたから、ほら、ケーキ食べて……」
「すくいさん」
 ひぇえ、やだ。真面目な顔した環くんはわたしの顔を真剣に見つめてくる。予感は的中しそうだ。聞きたくない!
「ちょ、耳を塞ぐんじゃない」
 思わず耳に当てたわたしの手が引き剥がされる。
「だって、また別れ話でしょ!? 環くんわたしのこと考えすぎると別れようとするんだもん!!」
「違うよ! きみほんと早とちりというかせっかちというか……待ってくれ」
 意外にも力強い否定に思わず目を見開く。環くんは真剣な顔をしてわたしの目を真っ直ぐに見つめてくる。
「あ、そのためにケーキ三つも割り振られてるの?」
「エビバーガーよりは時間かけて食べてくれるかと思って」
「早いよわたし、食べるの」
「味わって食べて。折角の白兎屋のケーキだ」
 学習したね、と言えば環くんは困ったような呆れたような表情を浮かべて、それからふふと笑った。わたしは黙って環くんの言葉を待つことにした。だって、せっかくの美味しいケーキだもん。一緒に食べたいよ。
 数回躊躇いを見せてから、深々と頭を下げて環くんが謝罪を口にした。一瞬なんのことかと考えてしまうくらいに、わたしは先日の件について怒りを覚えていなかった。
 気にしないで欲しい、と言葉が喉元まで出かかったけれど、わたしも言わなきゃならないことがある。
「わたしも、ごめんなさい」
 環くんのことを理解したふりをしていた。彼の弱い部分を見ないようにして、自分の理想を押し付けていた部分が少なからずあった。そのせいで、彼を余計に苦しめてしまったんだと思う。
「仲直り、してください」
「……喜んで。すくいさんには格好悪いところばかり見せてしまうな」
「鼻血出して昏倒する姿を二度見られたわたしもそれを言われると弱いけど……」
 毎度病院まで運ばれてるし、と続ければ環くんは耐えきれなかったのか吹き出した。「果物屋の店員に顔を覚えられた」と漏らすものだから、わたしはケーキにフォークを突き刺しながら彼の話に耳を傾ける。本当に久しぶりに、こうして笑いあった気がする。
 ケーキに舌鼓を打って紅茶を飲んだあと、残りを仕舞い込んで封をすると、環くんは不思議そうにわたしの顔を覗き込む。
「食べないの?」
「なんか嬉しくてお腹いっぱいになっちゃった」
 珍しいね、なんて揶揄うから、わたしは彼の胸元目掛けて抱きついて、そのまま床に転がった。肋骨を痛めないように細心の注意を払ったので大丈夫だろう。
「わ、何……」
「あのね、わたし環くんが側にいてくれるなら何にも怖いことないの。だから……」
「怖くない…?」
「そ、もう何にも怖いことなんてないんだ。環くんと会えなくなるのが一番怖かったから」
 本当は、ずっとずっと引き摺っていたのだ。個性が使えなくなったあの日から、鈍色の刃物を恐れていた。暗闇でぎらつく人の目が、男性の怒鳴り声が、いつかわたしを傷つけるのではないかと得も言われぬ不安を胸の底に押し込んでいた。けれど、不安はいつの間にか霧散して何処かへ消えて、今は、目の前のこの人を失うことが一番恐ろしい。
「だから。……この前の、続きが、したいです」
「……それじゃ、俺は逆がいいな。この体勢、不安になる」
 わたしに押し倒された環くんは眉間にしわを寄せて、掛け布団も減らしてるんだ、とボヤくからわたしは彼の上から素直に降りる。埋もれたのトラウマになってんじゃん……。
「肋骨にヒビ入ってたの、笑ったよねぇ」
「それはきみのせいじゃないよ」
 わたしのせいだと思うな、思い切り押しちゃったから……。リカバリーガールに治してもらったとはいえ、心臓マッサージで彼氏の肋骨にヒビを入れる彼女ってちょっと嫌だよね。
「俺は、自慢だけど」
「え」環くんは目を細めてわたしの頭を撫でた。
「自慢の恋人なんだ。だから自分と釣り合いが取れなくて、勝手に苦しんでた」
 手が頬に降りてきて、環くんの顔が近づく。触れるだけのキスのあとは、そっと唇が開かれて舌が口の中に入ってくる。息が、できない。
 本当は、キスってもっと等閑なものなんじゃないのかな。こんな、物語のなかみたいに、意識がふわふわして、気持ちよくて、良いのかな。わたしはわからない。でも、こんな感覚にさせてくれるのは環くんだけなんだろう。
「好きだよ」
「う……」
 息が苦しい、酸素が欲しくて、環くんの服を掴む。唇は隙間なく押し付けられて、一瞬離れた瞬間にそんな言葉をかけられては呼吸なんて出来るはずない。
 ずるいなあ。押し付けられた唇にまた意識を奪われていく。毎回思うけど、環くんはずるい。わたしだって彼に向き合うために必死だし、照れちゃうし、挙動不審になる。でも、環くんはいつも最後はちゃんとするから、かっこよくて、ずるい。自分のこと太陽だなんて思ってないけど、環くんに食べて欲しいと思う。
 キスの最中に薄眼を開けて、環くんの細められた目を見るのが好きだ。濡れて光る眼はどこか動物を彷彿とさせて、気弱な性格だなんて到底信じられそうもない。
 優しく抱き上げられて、ベッドに沈む。布団から彼の匂いがして、もう居ても立っても居られない、堪え性がない。怖がりのくせに、彼と行き着く最終地点まで早くたどり着きたくて仕方がない。だからせっかちって言われるんだ。自覚あり。
 丁寧に服を脱がせてもらって、新しい下着に「可愛いね」と言葉がかけられた。うれしくて、顔に熱がこもる。
「布団、被ってもいい……?」
 わたしがごそりと布団に潜る間に、環くんが上を脱いだ。思わず溜息が出てしまう。当たり前だけど、この人はきちんと男の人で、そしてわたしの恋人で、これからわたしたちがしようとしていることは、本来子どもを作るための行為だ。それを、快楽だとか、恋愛の延長線上だとか、気持ちを深めるためだとか、抑えられない好奇心だとか、そういう理由をつけて行おうとしている。みんながやってるから、とかじゃなくて。わたしたちがしたいから、するんだけど。でもやっぱり、ちょっとだけは、怖いよなあ。
「最後まで、してね」
「無理はしないで。嫌だったり痛かったりしたらちゃんと言ってくれ」
「……うん」
 抱きしめられて、そのままブラが外される。環くんの体温は温かいのに、胸元を覆っていた布が外れるだけでどうも心許ない。彼の手が徐々に身体に触れていく。もういちいち確認は取らない。大きな手が身体を撫でて、遠慮がちに胸に触れて、気持ちいいなって思った辺りで小休止のようにキスをする。二人して息が荒くて、緊張してる癖に手を止める気はなくて、すごく、熱い。
「すくいさん……」
 いいよ、と頷くけば、痛かったら言って、と繰り返した後に環くんはわたしの耳を食んだ。
「ひゃ……」
 気を紛らわせる為なのか、耳朶を食まれて、舌が捩じ込まれる。水音が頭の中に響いて、思わず布団を掴む手に力が入る。はじめての感覚に身をよじらせていると、下着の上から彼の指が形をなぞった。身体が跳ねる。ああもう、いっぱいいっぱいになっちゃう。
 敏感なところを下着の上から何度か擦られて、足の間から液体が染み出す感覚に鳥肌が立つ。恥ずかしい、はしたない。でも、今わたしたちはそういう行為をしているのだ。この人の前ではしたない姿を見せることを自分で選択した。服を脱いで、恥ずかしい姿を見せて、声を聞かせて、そう、したいと望んだのはわたしの方なのだ。
「たまき、くん…」
「すくいさん、大丈夫……?」
「平気、気持ちいい、から……」
 濡れちゃうから脱がすね、と口に出されればまた恥ずかしくて堪らなくなる。するすると下着が膝から抜かれて、今度は直に、環くんの指が、触れた。
「……!!」
「すくいさん、頼むから、痛かったり怖かったら言って欲しい……。我慢しないで」
 環くんは優しくて、わたしが何かリアクションをする度に心配そうに眉を下げて顔を覗き込んでくる。彼だって緊張している筈なのに、こちらを気遣ってくれる姿が嬉しくて、わたしはかぶりを振る。
「やじゃない、やじゃないの……」
 良いんだね、と環くんは念を押す。いいとも、とわたしは軽快に応える。
「わ、わっあ……」
 彼の長い指が、体内に潜る。その感覚はなんとも表現し難くて、一つ言えるならば現状、快感とは結びつきようがないとだけ。
「へ、平気……?」
「う、うん……」
 探るように、ゆるゆると指が入ってくる。壁にぶつかっては止まって、緩やかに揺らされて、時々、敏感な部分に親指が触れる。
「や……!」
「えっ」
「う、ううん……、そ、そこ、き、きもち、良いなって……」
 良かった、と環くんが表情を緩める。ようやくお互いの顔を見る余裕が出てきたのか、はたと目が合って照れるように笑った。
 何度か身体の中を掻き回されて、気持ちの良い場所を探し当てられる。正直、緊張しすぎてエッチな動画みたいな声はあげられなかった。それでも確かに触れられている部分は熱くて、脚の間は泣いてるみたいに濡れてきた。段々背骨が緩むみたいに力が抜けてきて、吐息に混じって情けない声が出そうになる。環くんの名前を呼べば、彼は大きく息を吐き出して、それから、「いいかな」とわたしの目を見つめた。好奇心と、一匙の恐ろしさを胸に押し込んでわたしは頷く。一度離れた環くんがわたしの脚を持ち上げた。
「い……っ!」
 ぎゃ、痛い!! えっ、痛いぞこれ……!! 思わず飛び出した第一声に自分でも驚いてしまう。規格があってないんじゃない、と言いそうな感覚だった。恥ずかしくて見れては居ないけれど、環くんの、それが入口に入ってくる感覚は先程指が入ってきた時のものとは違うのだ。
「い、入れ歯も時代の変遷により、一層お洒落に便利になっていくと思うの……」
「急に!? すくいさん、無理しないで」
「無理してない……」
「もう、止めてあげられない、よ」
 いいよ、と応える代わりに唇に触れるだけのキスをした。
「ぁ、く」
 ゆっくり、ゆっくり、身体が押し込まれて重なっていく。ぴったり嵌るなんて、変なの。なんだか初めからそうなるみたいに作られたみたい。誰とでも重なることができるのに、今この瞬間、お互いが酷く特別みたいに思えてしまう。ううん、特別なんだろう。わたしにとってそうであるみたいに、彼にとってのわたしが、特別であれたらいいと思う。
「環くん、あの、あのね。……大好き。上手に言えないけど、すごく、すごく好き……」
「……すくいさん、ゴールじゃない、から」
 我慢したかったけれど、痛くて、苦しくて、それから少しだけ気持ちが良くて、浅い呼吸が涙腺を緩ませてしまう。目尻からじわじわと伝う涙を環くんの唇が拭った。
 ゴールじゃない、と彼が言う。そのとおりだなあ、とわたしは前言を撤回する。身体を重ねたあとだって、わたしたちは一緒にいるのだから、沢山喧嘩もするだろうし、楽しいことだって山程待っている。繋いだ手が離れる時があるのかもしれない、傍にいられないことも、誓いのように呟いた愛が消えてしまうことだって、あるのかもしれない。
 それでもきっとその時は、わたしたちは今より少しは大人になっているはずだ。わたしは泣き虫なヒーローを卒業して、環くんは堂々と胸を張るヒーローになる。その時、わたしたちはお互いに縋らなくたって、隣に立てる。だから、寂しくなるような約束も、誓いも、いまだけ許して欲しい。いい加減な神さまがいるのなら、今だけ目を逸らして。
「あいしてる」
 呂律の回らない五文字を、どちらが言ったのかはわからなかった。まだお互いにとって少しだけ手の届かない言葉だった。背伸びをして身体を重ねている今でさえも、まだ遠い。
 ただ、これから先も同じ言葉を、互いの目を見て、今度ははっきりと言えたらいいと。これまたどちらともなく思った。
 あなたを、愛している。

<かみさまのいい加減>
おわり
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