13.シーラカンスにうってつけの夜


「おつかれ。急なんだけど、今夜会えるか?」

 昼休みに万理から着信があった。

「会えるよ。なにかあった?」
「ライブ観に行こう。19時開演。最前列のチケットを貰ったんだ。うちの子達の新曲お披露目会」

 彼の働く事務所のアイドルたちは、ツアーから帰ってきたばかりでは無かったか。すぐに新曲の発表をするだなんて、本当に意欲的だ。だから、彼の休みも少ない。
 今を時めくアイドルを抱える芸能事務所の、膨大な事務を一人で片付ける彼はまさにパーフェクト事務員だ。広報からアイドルの送迎、おまけにマネージャー業までこなした上に給与庶務諸々、日常業務まで担当している。
 同じ事務所で働いている小鳥遊紡ちゃんだって優秀だ。新卒でマネージャーに大抜擢された彼女は二十歳前とは思えないほどしっかりしている。何度か会った事があるけれど、彼女はいつも笑顔で礼儀が正しくて、自分の身の振り方を考えてしまったくらいだ。
 そんな彼らが大切に育てているアイドルは、それこそとびきりの宝物だ。わたしも何度かライブに行って間近で彼らを見たけれど、彼らの笑顔は人を元気にする力がある。

 退勤した後にとびきりの楽しみができたことで、仕事は普段以上に片付いていく。面倒な契約も、難航していた建物の修繕も手をつけてしまえば意外と進んでいくものだ。
 職場での話題は、地球に接近しているという巨大魚のことばかりだった。
 「ばかでかい魚だろ? 逃げようもないよなあ」と主査が言った。テレビで騒がれてる世界の終わりについて、巨大魚が地球を滅亡させるという内容はあまりにも突拍子がなくて、うちの職場はみな、逃げる準備の一つもしていなかった。
 そもそも巨大魚は地球を滅ぼそうとしているのだろうか。近づいてきて、人間を食べてしまうの? 専門家もお手上げだ。宇宙人がいるかどうかも解明していなかったのに、まさか宇宙に魚がいるとは。
 きっと、何年かすればすぐに笑い話になる。思い出したようにテレビで特集が組まれて、わたしたちはテレビを眺めながらそんなこともあった、と今日のことを思い返すだろう。

「何もなく終わるでしょうねえ。ノストラダムスの大予言みたいに。僕らは予言を信じて貯金を使い果たしたものさ」そう笑う主任と主査に、ちょっと古いよなあ、と思いながらわたしは相槌を打った。
 定時の鐘が鳴って、わたしはパソコンを閉じる。

「おつかれさまです!」

 後ろを振り向かずに、フロアを後にした。
 もともと今週末には万理と温泉にでも行こうかと計画していたから、今週締め切りの調査は提出し終わっていたし、運良く追加で仕事が舞い込んで来ることはなかった。

「おや、珍しいね、きみがこの時間に退勤するの」

 エレベーターの前で局長に会った。時計を見れば定時を僅かに過ぎたばかりだ。張り切って早く出過ぎたかもしれない。来年の人事に影響が出たらやだなあ。エレベーターのボタンを押した。ドアが開けば他には誰もいなかった。

「今日は、用事があって」

 わたしがそう言えば、局長も嬉しそうに同意した。

「僕はねえ、今日は実家に帰ろうと思って。ほら、テレビでやってるでしょ。せかいのおわり、そろそろだって。ホントかわからないけど、今週末くらいは家族と一緒にいようと思ってね」

 ふふふ、と局長は笑った。ふくよかな体形と柔和な表情はドラえもんに少し似ている。わたしは局長が怒っているところを見たことがない。
 一階を示すランプが点灯して、エレベーターの扉が開く。

「わたしも世界が終わる前に、彼氏に会いに行くんです」
「いいねえ、若いねえ」

 手を振る局長に頭を深々と下げて、わたしは職場を後にする。
 世界がいつ終わるかはわからない、これが万理との最後のデートになるかもしれないから、目一杯可愛くして彼に会おうと思った。

 都内から少し外れに位置する公園が、今回の野外ライブの会場だった。会場に近づくにつれて、車内の乗客が増えていく。タクシーでも良かったかもしれない。押し出されるように車両から出れば、大々的に告知されていたわけでもないのに、公園へ向かう道は既に人だかりができていた。巨大魚が現れて数日で世界が終わるのならば、どこへ逃げても同じだと、みな考えているのだろうか。
 巨大魚がいつどこに現れるのか、それすらも定かではない。世界中の科学者たちは日夜必死に研究を続けているらしいが、巨大魚が接近すると地球上の磁場が狂ってしまうため、動きの予測を立てることも難しいのだという。
勿論、避難を進めている人たちもいる。
 新曲発表のため、とは一つの名目で、件の巨大魚がいつ現れるのかわからない不安を、少しでも和らげるために計画されたライブなのだろう。

「お、いたいた」

 やっと長蛇の列が動き出したと思えば、スーツを着た万理がこちらに手を振っていた。そっと列を抜けて合流すれば、用意された席まで案内してくれた。

「万理、職場からまっすぐ来たの?」
「そう。着替える暇もなかった」

 人混みを抜けて、特設ステージが見える場所まで歩いていけば、七色の旗と眩いライトが煌々と光り、ステージの存在感を露わにしていた。

「アイドリッシュセブンも、今やすごい人気だよね。少し前まで、駅前でチラシ配ってたのにさ」
「懐かしいな。あの子たちはすごいよ、本当に」

 万理がまるで自分のことのように嬉しそうな顔をするから、わたしは少しだけ彼らに嫉妬してしまう。アイドリッシュセブンは、万理や紡ちゃん、小鳥遊事務所の人たちが大切に磨き上げてきた宝石だ。万理の近くで彼らの活躍を見ていたから、彼らの魅力はわたしもよく知っているつもりだ。

「こんばんは」
「こんばんは、お久しぶりです」

 最前列に用意された席に向かうと、紡ちゃんと小鳥遊社長の姿があった。二人に挨拶をして、席に着く。隣の席の紡ちゃんの目は心なしか赤かった。膝の上にウサギ柄のハンカチが置いてある。先程まで泣いていたように見えた。

「……大丈夫?」
「あ、すみません。先程もリハーサルを見ていたんですけど、みなさんが歌っているのを見ていたら泣けてしまって。いつも見てるのに、えへへ、変ですね」

 目元を拭った紡ちゃんに、万理も同意の声を挙げた。

「わかるなあ、俺も新曲聴いたら涙出てきましたよ」
「お二人も、ハンカチ用意しておいた方がいいですよ!」

 真剣な顔をして紡ちゃんに言われてしまったので、ハンドバッグからハンカチを引っ張りだしてわたしも膝の上に置いた。万理もスーツのポケットからハンカチを出す。見れば社長さんまで準備している。傍から見れば奇妙な四人組だ。ライブが始まる前から膝の上にハンカチを用意しているのだから。
 照明の色が変わって、ファンの子たちがメンバーの名前を呼び始めた。その声援はどんどん大きくなっていく。やがて、バン!と音を立ててスポットライトがステージの中央を照らした。スクリーンに7つの影が映る。わたしは思わず甲高い声をあげていた。
 カラフルな衣装を身につけた彼等がステージ上に現れると、割れるような歓声が沸き上がった。一曲目に選ばれたのは彼等の始まりの歌。アイドリッシュセブンの鮮烈なデビューを飾った「MONSTER GENERATiON」が歌い切ると、照明がまた変わり、口々に彼らの名前や感謝の言葉が叫ばれる。その中で、ぽつり、「こわいよお」と誰かが叫んだ。
 わたしはそれを耳にして、どこか安心した。ああ、やっぱり。誰もが言い表せないような不安を感じているんだ。それに呼応するように口々に「こわい」と言葉が飛び交う。行き場のなかった不安が、言葉になって夜の公園に押し寄せた。

「……大丈夫です!」
 
 大声を出したのは陸くんだった。彼はマイクを握って前に出る。涙を浮かべた人たちを安心させるように、ゆっくりと口を開いた。

「……世界が終わっちゃうなんて、信じたくないけど。その日が来るときも、オレたちはそばにいます。精一杯歌います。不安で泣きそうなときは、テレビを消して、オレたちの歌を聴いてください」

 みんなの不安を吹き飛ばすように、陸くんはもう一度「大丈夫だよ! 泣かないで」と笑顔を浮かべた。彼の目はぐるっと客席を見つめて、一人一人を励ますみたいにゆっくりと頷いた。不安を叫ぶ声は、いつの間にか収まっていた。

「今夜は、みんなに聴いてほしい曲を持ってきました。曲紹介は、壮五さんから!」

 陸くんに話を振られて、頷いた壮五くんが陸くんと交代で前に出る。拍手を浴びて、彼は丁寧に客席に向けて頭を下げる。

「みなさん、こんばんは。……これから歌う曲は、今までみなさんの前で歌ったことのない曲です。僕らには、不安や孤独や苦しみや……みなさんの心を締め付けている色々なものを完全に取り除くことはできません。僕らにできるのは応援してくれているみなさんのために、精一杯歌うことだけです。音楽の力は小さくて、目には見えないものだけれど、陸くんが言ったように、みなさんに寄り添うことはできるんです」

 壮五くんが話している間は、誰も口を開かなかった。鼻水を啜る音も、呼吸の音すらもしない中で、彼は続ける。

「大切な人に傍にいてほしくて、触れていたくて、待ち続けて、歪んでいく感情が恐ろしくて。けれども、好きだって感情だけは本物なんです。目を背けたくなるような現実は容赦なく襲い掛かってくるけれど、今の時間だけは、大切な人のことを考えて、目を閉じて、この歌を聴いてほしいです。……「Latimeria」」

 それは、不思議な曲だった。
 不規則なリズムが人を不安にさせたかと思えば、懐かしい思い出の様に傍に寄り添ってくる。波のようなリズムに乗せられた歌詞は離れ離れになった恋人のことを歌っていて、溢れんばかりの感情は共感せずにはいられない。切なくも美しい歌を必死で歌う7人は汗だくで、それでも全員が顔をくしゃくしゃにして笑っている。不安なんて吹き飛ばしてやる、という力強さと、傍に寄りそう温かさが痛いほどに伝わって心臓を打つ。
 万理も、紡ちゃんも、社長さんも、涙を零していた。7人の歌う曲が、彼らの歌声が、心臓を掴んで離さない。

 人々が演奏に夢中になっている最中、急にあたりが暗くなった。視線をあげれば上空に広がっていた夜空は姿を消して、巨大な魚の目がこちらを見下ろしていた。
 ――シーラカンス、だ。
 教科書に載っているそのままに、まあるい目に光は無く、ガラス玉をはめ込んだようにただ滑らかであった。
 オォオオオ、オォオオオォオオオ
 地響きのような凄まじい音が辺りを揺らした。これはシーラカンスの声だ。びりびりと身体が痺れる。わたしは万理の腕を掴む。

「大変。万理、はやく逃げなくちゃ」

 けれども彼は茫然とステージを見つめている。ステージ上の7人も、観客たちも、上空のシーラカンスなんていないものみたいに、パフォーマンスを続けている。
 わたしは、自分の上のシーラカンスが気になって仕方がない。口を開けば、都心はまるごと口内に収まってしまいそうだった。けれどもわたしの心配をよそに、満月のような大きな目に涙をいっぱい溜めたまま、シーラカンスは動かない。まるで、7人の歌を聴いているみたいに。
 彼らの歌声はよく通る。ひょっとしたら、シーラカンスにもこの歌が届いているのかもしれない。見開かれた大きな目に膜を張った涙はゆっくり、ゆっくりと瞳から離れて――落ちた。
 咄嗟に隣の万理の手を掴む。ようやく彼と目があった。

「万理、わたし……」

 世界の終わりに話す言葉くらい、考えておけば良かった。どぷん、空から降ってきた水の塊に、ステージは沈む。 人々はどんどんと流されて行く。わたしたちは手を繋いだまま涙の海に沈んでいった。
 ばしゃん、ばしゃん、とシーラカンスは遠い空から涙の塊を落としつづける。恐ろしい大きさの涙の玉は一粒で公園を水没させてしまった。
 次々と涙が落ちるたびに涙の海は広がっていって、そのうち、わたしたちは自分が沈んでいたのか浮かんでいたのかもわからなくなる。気いたときには、足元には星が沈んでいて、上空には花が咲いていた。
「きれいだなあ」と万理が呑気に言った。彼の言葉は白い泡となって、消えてしまったけれど、それでも伝わった。
 涙が落ちるたびに海が揺れる。シーラカンスはまだ泣いているらしい。
 それにしても今夜は良い夜だ。空も、海も、地上さえもが深い、深い群青色に染まって、一つになる。
 遠い銀河を泳いでやってきたシーラカンスに、うってつけの夜じゃないか。この素晴らしい夜は、彼女の願いを叶えるだろう。
 彼らが歌っていたように、すべての人が幸せにしあわせになれたらいいのに。寂しいシーラカンスにも愛した相手がいたのだろうか。世界の果てで、再会できたらいい。
 あんまり綺麗な夜だから、目を瞑ってしまうのが惜しい、とわたしが言うと、万理はそっとわたしの目を手で覆った。

「傍にいるから、眠ってもいいよ。ゆっくりおやすみ」

 子守歌のように、どこからか7人の歌が聴こえてきた。機材も、楽器も、水の底に沈んでしまったはずなのに、彼らはどこから歌っているのだろう。
 不思議に思ったけれど、段々と瞼が重くなってきた。海の底なのか空の上なのかもわからなくなった世界で、わたしたちは目を瞑る。大事なひとの手を離してしまわないように気を付けながら。眠りについた。
 どうか、どうか、しあわせに。
 いじわるな神様に祈るように、大切な恋人に縋るように、叶いやしない願いは白い泡になって、遥か彼方から聴こえる歌を追いかけるように、遠くへと消えた。

prev next
back