12.砂上の鎖

「海が見たいね」

 千斗は窓を見つめてぽつりと言った。私たちの住んでいる街からは海は見えない。最寄りの海は車で一時間もかからない距離にあるのだから、週末にドライブにでも行けば良いのに。彼が計画してくれるならば私は腕によりをかけて美味しいサンドイッチを作るだろう。千斗のために野菜をたくさん入れてあげる。
 けれど私が「いつでも見に行けるよ」と言うと、千斗はすごく悲しそうな表情をするのだった。私が訳を聞いても、彼は「なんでもないよ」と言うだけで答えを教えてはくれなかった。 

「千斗」

 私の声は上ずって、彼の様子を伺うように恐る恐る顔を上げた。

「ん、どうしたの」
「……ここから出して」
「君はそういうけどね、ここは安全なんだよ」

 千斗は優しく笑うけれど、一度だって「いいよ」とは言ってくれない。
 信じられないことだけれど、私は、彼の部屋から出られなくなってしまったのだ。海が見たいという話を聞いた日から、彼の部屋から一歩も出ることができなくなった。
 縛られているだとか、鍵を掛けられているなんてことはないのに、彼の部屋は頑なに私を外に出そうとしない。窓の鍵は開いているし、ドアだって千斗は出入りできているのに、私が引いても押してもドアノブひとつ動かないのだ。
 外に出られない私のために千斗が用意してくれる食事は、吐き戻してしまいそうなほどに不味い。彼がせっかく作ってくれているのに、文句をつけるなんて嫌な彼女だ。けれど美味しくないものは美味しくないのだ。出てくる料理は毎回スープ。千斗が綺麗に盛り付けてくれるそれは、筋張った肉が入っていて、口に入れると味がほとんどしない。その上生臭いのだから食べられたものじゃない。

「ねえ、たまにはハンバーガーが食べたいなぁ」
「駄目」

 私の訴えに対しても千斗は譲らない。食事に関しては絶対に彼は考えを曲げない。私が吐こうが泣こうがなにをしようが、絶対に茶碗一杯分のスープを食べるように強要してくるのだ。
 そろそろ彼の部屋から出られなくなって、正確な日数を思い出せなくなってきた。千斗がお腹を抱えて笑ったのを見たのはいつだっただろう。なんだか最近見ていない。
 一緒にいるときにそうやって笑ってくれるのが、一番好きだった。

「ごちそうさま」

 これで何杯飲み干したのだろう。今日のスープを嫌々平らげて、私は茶碗を千斗に渡す。彼は完食した私を見ると綺麗に笑って、私の頭を撫でる。毎回毎回それは決まりごとのように行われる。そうしなければならなかったみたいに。けれども今回は違った。千斗は私と同じ目線に屈む。

「もっと美味しいものが出せたら良かったんだけど、僕は自分が思っているよりも料理が上手くないみたいだ」
「千斗のお料理、いつも美味しいのに。慣れない肉料理だったからかなぁ」

 ようやく彼のスープ地獄から解放されるのかと、私は微笑みを返す。千斗は料理が上手だった。無理して肉料理を出すことなんてなかったのに。お野菜の料理が恋しい。

「食材が悪かったのさ。甘い味がしたら良かった。君は甘いものが好きだから」
「あはは、食材のせいにしたらだめだよ」

 噴き出すのを抑えるみたいに、唇の前に片手をかざして千斗は笑う。久しぶりに彼が楽しそうに笑っているのを見た。
 千斗は立ちあがって、窓を開けた。風が吹き込んで私たちの髪を揺らした。それから勢いよくドアを開ける。見覚えのある玄関が視界に映る。千斗はまた話し出す。

「僕は君の料理が好きだったよ。少し塩辛すぎた時もあったけれど、食べてるところをこれでもかって見つめてくるものだから、ついつい食べ過ぎてしまう。アイドルなのに太ってしまうところだった」
「……千斗?」
「好き嫌いが多くて面倒をかけたね。これでも随分と食べられるものが増えたんだけど」

 まるでどこかに行ってしまうような物の言い方をする。置いていかれるような気がして、私は思わず彼の手を握った。触って驚くほどに、彼の手は冷たい。

「海が見たいね、ここは酷く乾いている。僕らには、似合わないよ」

 千斗は綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑った。見たことのない表情だった。

「勝手なことを言うよ。……生きてほしい」

 大きな手が頬を撫でて、それから触れるだけのキスが落ちてきた。

「ゆき、と。……千斗!」

 私の声は、なぜだかやけに掠れて、乾いている。
 −−がしゃん。
 夢から醒まさせるかのように、金属の音が大きく鳴った。
 瞬きを何度かすれば、私の前から千斗はいなくなっていた。千斗だけではない。私が居たはずの彼の部屋も、家具も、全部無くなっていた。私は砂まみれのワンピースを着て、裸足で砂漠に立っていた。皮膚が焼けて赤くなっている。焼けた砂を踏みつける足の裏に現実的な痛みが走った。
 どういうことだろう。頭が痛い。訳がわからない。ずっと私は夢を見ていたのだろうか。
 太陽に目が眩んで、目下、音の発生源を見る。そこには重たそうな金属の手錠と、白骨が転がっていた。
 それらを目にした瞬間。私は全てを理解した。
 最後に千斗の声を聞いたの、いつだっけ。

 照りつける太陽が不愉快なほど眩しく、傷ついた皮膚を着実に燃やしていく。白骨の右手には手錠がついていて、そのもう片方は、どうやら日焼けと鬱血の跡から、私の左手に付いていたようだった。本当に自分の身体かと疑いたくなるほど重たい身体を動かして、握り締められている右手を開けば、小さな鍵があった。手錠の鍵だろう。
 この鍵をどうやって手に入れたのか、思い出して、吐きそうになる。千斗は、私の手と自分の手を手錠で繋いで、鍵を飲み込んだのだ。どうしてそんなことをしたのだろう。その理由を思い出せないのに、私は鮮明に彼の身体から鍵を取り出す自分を覚えている。酷く客観的な視点からそれは映し出されている。
 仕方がない。なぜなら私はその時、千斗の部屋にいたのだから。彼が差し出してくれる美味しくないスープを無理して飲み込んでいたのだから。
 ああ、それは、そのスープの材料は。甘くない、生臭い、それは――――。
 途端、胃の奥から胃液が逆流してきて私は噎せ返る。けれども出てくるのは胃液だけで、指を喉の奥に押し込んでみても、私が飲み込んだはずの千斗のカケラは出てこなかった。

「どうせなら、逆が良かった。わたしのこと、食べてくれればよかったのに、な」

 彼は好き嫌いが多いから、だめか。
 ふふふ、と千斗の真似をして自由になった左手で口元を隠して笑ってみた。
 慣れないことをしたからか、身体から力が抜ける。熱い砂の上に膝を付いた。何日もこの太陽の下で照り付けられ続けた皮膚は今更悲鳴を上げた。熱い、熱い、痛みの方が強く感じるほどだ。身体がもう動かない。膝から腰、肩とゆっくりと身体を砂に預けていって、最後にはごろりと焼けた砂に身体をあずけた。
 ぼやけた視界に、灰色の廃墟が映った。蜃気楼というやつかしら。 
 朦朧とする意識の中。最後に唇を重ねた時の味を思い出すと、彼の唇は塩の味がしたような気がした。けれどもそれが涙の味だったのか、それとも彼の血液の味だったのか、それは思い出せなかった。
 生きて、と千斗が最期に言ったから。私はその願いを叶えたい。乾ききっているはずなのに涙が零れた。生に縋って、縋りついて、千斗が迎えに来たその時は、彼の運転する車で海に行こう。
 私は千斗の家のキッチンに立っていて、包丁で新鮮な野菜を挟んだパンを切っている。千斗はサンドイッチをひとつ摘んで、鼻歌なんて歌いながら荷造りを始める。
 そう、わたしたちは海に行くのだ。新調した水着に千斗はどんなリアクションをしてくれるだろう。一緒に海に入ってくれるだろうか。日に焼けるのが嫌だなんて、言わないでよね。

prev next
back