Curiosity killed the cat

稲妻総合病院の壁は薄い。
──と言うわけでは決してない。都立の大きな病院が欠陥建築などであればたちまちゴシップのネタになることは請け合いだ。
ただ、病室同士の感覚はそこまで広くはなく、かつそこの入院患者の話し声がほんの少し大きく、更に空気を取り込みやすい大きな窓を開け放っていると、その会話が隣の病室にまで届くことは割とよくあることであった。

「ねえ依織、『毎朝君の作った味噌汁を飲みたい』ってどういう意味?」
「……は?」

明くる日の平日。いつものように部活帰り太陽の見舞いに訪れた依織は、雑談の中でふとそんなことを尋ねてきた太陽に怪訝な視線を向ける。

「お昼に見たドラマで言ってた台詞なんだけど」
「お前、それ何十年代の再放送観たんだ」

今日日そんな台詞は中々聞くことはない。太陽は途中でチャンネルを変えたから分からない、と事も無げに返し、その返答を促した。

「ね、どういう意味?」
「あぁ? そりゃ、結婚しようってことだろ?」
「えっ、何で味噌汁からそんな話になるの!?」

ある意味もっともな追撃に、依織は思わず唸り声を漏らす。
行間を読め、と言いたいところではあるが、太陽は依織から答えが出るのを目を輝かして待っている。がしがしと乱暴に頭を掻いて再び唸った依織は、仕方なく──ぼそぼそと続けた。

「だからさぁ……結婚したらお嫁さんが毎日朝飯作るだろ?」
「うん」
「だから、お嫁さんになって毎朝味噌汁つ、作ってくれ、って遠回しにプロポーズしてんだよ」

少しどもってしまったことに頬を赤くする依織には気付かず、太陽は納得したように「ああ、そうか!」と手を打っている。
全く、本当にいつの時代のドラマを観たのか。ぼやく依織を他所に、太陽はうーん、と何か考え込む素振りを見せた。

「でも僕は、味噌汁よりもポタージュの方が好きかな」
「そんな好み知るか」

和食より洋食派なんだ、という謎のアピールを切り捨てられてもめげず、暇を持て余している太陽はその話題を続ける。

「依織はポタージュ作れる?」
「レシピ見りゃ作れるだろうけどお前にゃ作らん」
「酷いなぁ。でも僕も依織と結婚するのはちょっと」
「やかましいわ」

お互いを姉弟のように思ってきた2人の間に、惚れた腫れたの感情は爪の先程も無い。
それでもそんな風に言われるのはやはり少々癪なもので、依織の振り下ろした手刀をかわしそこねた太陽の頭頂部から、ゴスンとなんとも痛そうな音が響く。
当然、「痛い!」と短い悲鳴を上げながらも、太陽はまだまだめげる様子がない。

「そう言えば……そもそも依織って、好きな人いるの? 文通してた時もそう言う話、したことないよね」
「だっていなかったし」

幼い頃から顔面偏差値の高い年上たちに囲まれてきた依織からすれば、同年代の男子などほとんど子供にしか見えない。
加え、父の目を盗みサッカーの練習に明け暮れてきた彼女には、そんなことにうつつを抜かす暇などなかった。

そんなことを溜め息混じりに答えた依織に、太陽は首を傾げている。

「でも、小さい頃は良樹お兄さんと結婚するって言ってなかった?」
「あれは良兄さんに、『将来依織は僕と結婚するんだよ』って言い聞かされてたからだ。誰があんな変態と結婚するか」

中学校に入学してから変態化に拍車の掛かった従兄の名前に、依織はゾッとしたように顔をしかめた。
別に良樹のことを嫌っているわけではない。あれでも血の繋がった身内、大切な家族だ。ただし、変態行為を除けばの話であるが。

「良樹お兄さんかわいそう」
「あの人に付きまとわれる私のがかわいそうだ」

とりつく島もないが、真実である。
今頃どこかでくしゃみでもしているであろう良樹の名前を頭の中から追い出し溜め息を吐いた依織に、太陽はそれで、と言葉を続けた。

「今は好きな人いないの?」
「え」

知らずと漏れた声と瞬きを返す。
依織は一瞬、──ほんの一瞬だけ、考え込んで。

「……いねーよ」

自分でもそこまで一瞬でもないな、と思ってしまうほどの間を空けて、そう答えた。

「何、今の間。えっ、もしかしているの? いるの!?」
「るっせーないねえよバァカ!」

たちまちかしましくなった太陽の顔を押し退けて、依織は慌てて椅子ごとベッドから遠ざかる。その間にも、太陽は新しい玩具を貰った子供が如く目を輝かせて依織に詰め寄った。

「顔赤いよ、依織! ねえねえ気になる人くらいいるんじゃないの!? 僕にくらい教えてよー!」
「ああもう、いねえっつってんだろ! 女子かお前は!?」

太陽のテンションは完全に教室の隅で恋ばなに花を咲かせる女子中学生そのものだ。と言うより、クラス内で数度見かけたことのあるそれよりも大分やかましい。
ガタガタゴトンと傾いた椅子の脚に、あ、と思った頃には、依織の視界は斜めになっていた。




さて、前述の通り、稲妻総合病院の壁は薄いと言うわけでは決してない。
けれど入院患者の話し声がほんの少し大きく、更に大きな窓を開け放っていると、その会話が隣の病室にまで届くことは割とよくあることで。

「だってさ、京介」
「……何で俺に振るんだよ」

ガッタン、あいたぁ! ──何が起こったのか想像できる音に思わず首を竦め、それまでの会話をしっかり──不可抗力ではあるが──を聞いていた、隣室の剣城兄弟。
それまで窓の外を眺めていた兄がこちらに視線をやってそんなことを言うので、剣城はやや困惑に眉根を寄せながら少しつっけんどんに返してしまう。

「ん〜? ふふ、何でだろうな」

困ったような焦ったような、複雑な表情を向けてくる弟に優一は含み笑いをして、楽しげに小首を傾げるのだった。
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