「初めまして、私はアスレイ・ルーン。突然こんなことを言って信じてもらえないだろうが、私は27年後から来た君の未来の夫なんだ……アッいや自分が怪しいのは分かっている、君に危害を与えるつもりは全くないんだ! だから頼む一旦それから手を離して、」
ビビビビビビビビビビビ!!
──近隣一帯にこれでもかと言うほどのけたたましい音が響き渡る。
その日、菜乃花黄名子は初めて防犯ブザーを活用した。
「えー、昨日の夕方、3番街に不審者が出たそうです。未来の人間を名乗る人物だったとの話ですが……最近この話に限らず『未来人詐欺』が流行っていますからね、絶対に信じないように! 時間遡行が出来るのは限られたごく一部の人なんですから。良いですね?」
「はーい」
朝、教室に生徒が揃っていることを確認した教師は険しい顔で忠告する。
未来人詐欺、とは。文字通り未来人を騙って相手を騙す、ここ数年で頻発している特殊詐欺の通称だ。
例えば、自分は未来から来たので宝くじの当選番号を知っている、どの株を買えば大きく儲けられるか知っている、いつどこで大きな災害が起きるか知っている──ので、その情報を売ってやろう。といった風な内容らしい。
間延びした生徒の返事はどこか他人事だ。事実そうなのだから仕方がない。あれに騙されるのは高齢者か、世間をまともに知らぬ人間くらいだろう。
では本日の授業は──と、それから何事もなかったかのようにいつもの調子に戻った教師や学友たちを横目に、黄名子は小さく溜息を吐いた。
3番街の不審者情報は、言わずもがな黄名子が提供したものである。
昨日、アスレイと名乗った見知らぬ男は黄名子に防犯ブザーを鳴らされた後、脱兎の如くどこかへ逃げていった。黄名子は生まれて初めて不審者に遭遇した驚きと恐怖の冷めやらぬまま近くの交番へ飛び込んでしばらく聴取を受けた後、連絡を受けた父に迎えに来てもらって無事帰宅した。
「(あの人、未来のウチの夫だって言ってた。……ううっ、気味が悪いやんね……)」
一見気性の穏やかそうに見える人間でも、内に何を秘めているか分からないと言うことだろうか。黄名子はぞわ、と鳥肌の立った腕を摩る。これなら普通の未来人詐欺に遭った方がまだ良かった。
歴史の教科書曰く、タイムマシンでのいわゆる『時間旅行』が一般化したのは今から約50年ほど前。
幾度となく実験を繰り返し安全性を確保した上での運用ではあったが、当時ワームホールの観測精度がまだ完璧ではなかったせいもあり、防ぎきれなかった事故は何件もあった。
やがて時間旅行の危険性が噂され始めた中、ついにワームホールでのトラブルによる行方不明者が1名出たことがとどめとなり、タイムマシンの一般運用は一時中断される。
当時開発責任者であったA・ディミトリー氏はそこでタイムマシン開発の中止ではなく、より精度の高い時間遡行が出来るよう研究を進めた。それがいつか被害者を救う手立てになると判断したのだろう。
しかし度重なる実験と研究により、開発資金は徐々に高騰。再びタイムマシンの一般運用が解禁された頃には、時間旅行は限られた一部の富裕層にしか許されない程の莫大な資金が必要なものになってしまった。
「(んで、それを使って悪さする人が現れた時のために作られたのが、エルドラドの初期ルートエージェント部……と)」
電子教科書に指でサッとラインを引いて、必要な項目をノートに書き写す。
昨今はノートも完全電子化が進みつつあったが、黄名子はそこだけまだアナログ派だった。紙にペンを走らせる感覚が好きなのだ。ノートの提出を余儀なくされた際は仕方なく電子の方に書き写すので、二度手間ではあるけれど。
それから1週間、黄名子は放課後家族に迎えに来てもらい、しばらく平穏な日々を過ごした。
そして、未来の夫を名乗る不審者への記憶が少しずつ薄れ始めた頃。
「や、やあ」
「……!!」
彼はまた現れた。休日の真昼、街中へ買い出しに出た黄名子の前に。
カッと目を見開き再び防犯ブザーの紐に手を掛けた黄名子に、「頼む待ってくれ!!」とアスレイは思わずと言った様子で叫んだ。
「先日は怖がらせてすまなかった! ただ信じて欲しい、私は決して不審者ではないんだ……!!」
「あ、怪しい人はみんなそうやって言うんよ!」
「そ、それはそうなんだろうが、ただ私は君に頼みたいことがあって……話だけでも聞いてくれ! 私には時間が──」
何かを必死に懇願するアスレイに若干の罪悪感を覚えつつも、黄名子はエイヤッと紐を引く。
たちまち賑やかな街に切り裂くような音が響き渡り、巡回中だった警備ドローンが飛んでくるのを見てアスレイは大慌てで逃げて行った。
「(ウチに頼み? 時間が……何?)」
少しだけ引っかかるものを覚えながら、黄名子は何事かと駆け寄ってきた大人たちに事情を説明する。
2回もこんな対応をされれば、流石にあの人も諦めるだろうとたかを括りながら。
その考えが甘かったと思い知ったのは、3日後のことだった。
「──んっ?」
授業を終え、父が迎えにきてくれているだろう校門へ向かう道すがら。
不意に周囲への激しい違和感を覚え、黄名子は立ち止まった。
同じように帰路へ着くべく歩いていた生徒たちの動きがピタリと止まっている。風も止まり、頭上を仰ぐと空を泳いでいる鳥すらも空中で静止している。
「なりふり構っていられなくなってきていてね。少々手荒な方法を取らせてもらったよ」
「あっ、あなたは……!」
瞬きの間に視界に入ってきたアスレイに、黄名子は引き攣った声を上げた。その言いようからして、この事象は彼の仕業らしい。
アスレイは警戒心を露わにする黄名子の予想に反し、彼女から数歩離れた場所で徐にその場に座り込んだ。
きっちりとした正座である。アスレイの思わぬ行動に動揺して、黄名子はつい逃げそびれてしまった。
「これを。私の名刺だ」
硬い声で言って、アスレイは地面に小さな長方形の紙を置いて黄名子の方へズイと押しやる。
黄名子は地面のそれとアスレイの顔をしばらく見比べると、慎重に彼に近付き差し出されたものをパッと拾い上げた。
「エル、ドラド……情報管理部部長……!?」
「“元”だ。時代が違うという点においても、あまり意味のないものではあるんだが……」
そう言えば、と黄名子はとある話を思い出す。
エルドラドの局員、取り分け重要な任務についている者には特殊デバイスが支給され、それで短時間ながらも時間を止めることが出来るらしい。
そんなものを持っているということは、少なくとも彼がエルドラドと関わりがあったことには間違いないだろう。
アスレイはすっかりやつれた様子で、黄名子を見上げる目は据わっている。なりふり構っていられないと言ったのは真実のようだ。
「私をまだ不審者だと思うのならば、君のことを話して見せよう。まずはせめて、私が未来から来たことだけでも信じて欲しい」
「ウ、ウチのことって?」
「家族構成や趣味、好きな食べ物……私の知る限りの、黄名子のことだ」
黄名子が恐々と聞き返すと、アスレイは真剣な顔で答えた。
両親が健在であること、サッカーが好きなこと、きな粉餅を好んで食べること。淡々と指折り数えて黄名子に関する情報を挙げるアスレイに、黄名子は。
「やっぱりおじさん、ストーカー……」
「ち、違うんだ!!」
徐々に青ざめる黄名子に負けず劣らず、アスレイは顔色を悪くして激しく首を横に振る。
「全部、未来の君が教えてくれたことなんだ! 君が密かに憧れていた人物の名前も知っている!」
その言葉に、ぴく、と黄名子の眉が動く。ごくりと唾を飲んで、黄名子はアスレイを窺った。
「あ、憧れてる人って……?」
「……剣城依織。『Gladiolus』の、創業者だ」
ひゅ、と黄名子は息を呑んで目を見開く。
女性向けスポーツブランド『Gladiolus(グラジオラス)』。その創業者の名前は、剣城依織と言う。
黄名子が彼女の存在を知ったのは1年ほど前、学校で『歴史上の人物に関して発表する』という課題が出たのがきっかけだ。
当時から黄名子はGladiolusのファンであり、150年以上続く長寿ブランドなのだからそれの創業者も“歴史上の人物”には違いないだろう、と軽い気持ちで図書館で見つけた画像付きのアーカイブを開いて──衝撃を受けた。
「かっ……顔が良い……!!」
長い睫毛に縁取られた凛とした瞳、涼しげな目つき、艶のある髪にスラリとした長い手足。若かりし頃の依織の顔が、凄まじく好みだったのである。
それから黄名子が依織のことを調べ上げるのは早かった。
まず、依織がサッカーと深く関わりがある人物だったことは黄名子にとって想定外なことであった。自分がいちサッカープレイヤーであることもあり、依織への親近感がそこで一気に跳ね上がる。
彼女はその当時あまり知られていなかったサッカーライセンスの周知に一役買い、女子中学サッカーの発展の大きな先駆けにもなったらしい。ただ、この部分はサッカー史においてそこまで重要な情報ではなかったのか、それ以上のことは調べても詳しく出てこなかった。
高校進学後女子サッカー部では好成績を収め、3年時にはキャプテンとして部を初の女子大会優勝へと導く。卒業後はプロに転向、様々な試合にて功績を残す一方、オフシーズンには整った容姿を買われモデルとして活躍。一躍ファッション雑誌を総なめにした。黄名子がアーカイブで見たのはこの頃の写真だったのだろう。
しかし二十代後半に差し掛かる頃、「挑戦したいことがある」と突然の現役引退を発表。それと同時に20歳の頃に既に結婚していたことを発表し、その話題はしばらくお茶の間を賑わせた。
その後、彼女は自身のモデルの経験とサッカー選手の経験を活かしてスポーツブランドを設立。彼女自身のブランド力と可愛すぎないデザインが全国のスポーツ少女に響き、Gladiolusは一気に人気ブランドとして台頭。
その人気は根強く、没後も彼女の意思を引き継いだ者たちが研究・開発を続け、黄名子の時代まで長く愛され続けている。
「かぁっこいい……!」
そうして依織のことについて粗方のことを調べ終わった頃には、黄名子はすっかり彼女のファンになっていた。
顔の良さもさることながら、情報の端々から感じられる嵐のような激しさと凪のような穏やかさを同時に併せ持った性格、そしてサッカーへの情熱。依織という存在は、一夜にして”憧れ“として年頃の少女の心に深く刺さったのである。
そうなれば当然、学校の課題も依織のことについて発表するつもり満々だったのだが──悲しいかな、その課題はグループ発表だったため多数決により黄名子の意見はあっさり不採用となった。
「顔が好みだからって理由で選ぶのはちょっとミーハーっぽくない? 学校の課題だし、もっと真面目な理由の方が良いと思うんだけど……」
同じグループだった生徒の、何気ない一言である。黄名子の13年の人生の中で、一番苦い記憶だ。
意見が選ばれなかった落胆と、ミーハー扱いされた──それが否定できなかった部分もある──悔しさからか、黄名子は何となく依織のファンであることを公言出来なくなってしまい、それから約1年。
その間、黄名子はその話を家族にすらしていない。昔の学友たちが、赤の他人であるアスレイにその話をしたとも思えない。
「あなたは……その話を誰から聞いたの……?」
「大学で君と知り合い、友人になってしばらく経った頃だ。ミーハー扱いされたことが今でも悔しいとぼやいていたよ」
アスレイはどこか遠い目をして答えた。昔を懐かしむような表情だ。
それを見て、黄名子は何故だか気持ちがストンと落ち着くのを感じた。彼が未来から来たことに、納得してしまったのである。
「……あの……ウチに頼みたいことって、何?」
「!! 信じてくれたのか」
「いったん! いったん話を聞くだけ聞いてみようかなって!」
嬉しそうに表情を輝かせて立ち上がりかけたアスレイに、黄名子は半歩後ずさる。
それだけでも今は十分だ、とアスレイは痺れる足を引き摺るようにして改めて立ち上がった。
それから腰を落ち着けて話せる場所に移動して、アスレイは事の顛末を説明した。
ここから数十年後の未来でSSCの子供たちがフェーダという組織を作り人類に反逆を始めたこと、SSCの力を持って生まれた自分たちの息子がその組織に加わってしまったこと。
このままでは息子は人類の敵になってしまう。そうならないように自分がフェーダに潜入して手回しを試みている間、母親である黄名子には息子を見守って欲しい──そう語るアスレイの顔は、疲れてはいるものの真剣そのものだった。
「──話は分かったけど……どうしてウチなの? 未来には大人のウチがいるはずでしょう? そっちに頼んだ方が早かったんじゃ……」
大まかな話を聞き終えた後、黄名子は尤もな疑問を口にする。しかしアスレイは、途端に表情を曇らせた。
「それは……私の時代の君は、もう……」
「な、何だか暗い話になりそうだから、やっぱり話さないで」
濁された言葉尻と暗くなった瞳に、黄名子は食い気味にアスレイを制止する。どんな内容であれ、あの表情から出てくる答えが良いものであるはずがない。
黄名子はそれからしばらくアスレイの話を聞いて、やがてある結論に思い至った。
「(この人、もしかしなくてもスッゴイ不器用な人やんね……)」
自分の地位を捨てられなくてフェイの元を離れたのに、結局非行に走りかけているフェイの為に地位を捨てている。
その癖、後ろめたさから直接フェイにコンタクトを取ることも出来ず、考えうる限りでも最も回りくどい方法で彼を守ろうとしている。ここまで愛情が空回っている大人も珍しい。
そもそも、黄名子の協力を得るためとは言え出会い頭にいきなり「私は君の未来の夫だ」などと話しかけてくる辺りでその片鱗は見えていたが。
もしかすると、未来の自分はアスレイのこういう不器用なところが放っておけなくて結婚まで至ったのではないだろうか。
そして、そんな彼が不器用ながらも必死で守り、愛している息子はどんな子供なのか──少し、気になった。
「戦争と関係のない“今”の君に、こんなことを頼むのは筋が通っていないとは思う。もしかすると、危険な目にも遭うかもしれない。だから……この話を受けてくれるのなら、3日後の朝、もう一度この場所に来てくれ」
「……もし、ウチが来なかったら?」
「その時はその時だ、手持ちの札で何とかしよう。君の前にも二度と現れないと誓うよ」
苦笑して、アスレイは立ち上がる。
もう一度会えることを祈っているよ──その言葉を最後に、カチッとどこかで音がしてアスレイの姿は掻き消えた。それと同時に、止まっていた時間が再び動き出す。
「……どうしよう」
夕暮れに、呆然とした呟きが零れ落ちた。
彼の必死さと息子に対する気持ちは本物だと思う。全てが真実なら、手を貸してあげたい。
ただ、この件に深く足を突っ込めばアスレイの言うように危険な目に遭う可能性はあるだろう。会ったこともない未来の息子に、そこまでして体を張れるかと言われれば怪しいところである。
そんな気持ちを後押しする出来事があったのは、それから更に2日後。
提示された約束の日の、前日のことだった。
「アスレイ・ルーンです。よろしくお願いします」
「……ッッ!?」
今日は転校生を紹介します。授業が始まる前、いつもと違う文言から始まった教師の一言で教室に入ってきた少年に、黄名子は絶句する。
現れたのは、アスレイだった。正確に言うと、黄名子が先日会った中年の彼ではなく──自分と同い年の、少年の姿の。
「……あの、何か?」
「あっ、ううんごめんね! 知り合いに似てたから、つい……」
無意識の内に、アスレイの顔をじっと見つめていたらしい。隣の席に着き、怪訝な目を向けてきたアスレイに黄名子は慌てて首を横に振った。
アスレイはその答えに一応は納得したのか、そう、と冷めた声で返す。
「あまり不躾に人の顔を観察しない方が良いよ」
それだけ告げて、彼はシャンと姿勢を正して授業の始まりを待った。
「(ぶ、無愛想〜……!)」
おまけに気難しそうと来た。言っていることは間違っていないのだが、もう少し違う言い方があるだろうに。
そこで黄名子は、やはり彼こそがきっと“この時代の”アスレイ・ルーンなのだと確信する。この不器用そうな雰囲気は間違いなく本人だろう。
はて、とそこで黄名子は首を捻った。
先日アスレイは、黄名子と自分が出会ったのは大学生の頃だと言わなかっただろうか。
「(ひょっとして……歴史が変わっちゃった?)」
バタフライ・エフェクトという現象がある。ほんの些細な選択が、最終的に大きな結果を引き起こす現象だ。
アスレイは息子を守るため、時空を渡り子供時代の黄名子に会いに来た。その行動が何らかの形でこの時代に影響を及ぼし、今こうして二人の出会いを早めてしまったのではないだろうか。
歴史は変わる。変えられる。
もしかすると、大人になった黄名子に悪いことが起きた未来も。
「……っ?」
突然、バサバサッ、と何か物音がして黄名子は我に返った。
どうやら深く考え込んでいる内に授業は終わってしまったようだ。
音の出処を振り向くと、アスレイが足元にしゃがみ込んでいる。どうやら席を立とうとした拍子にノートを落としたらしい。
「はい、どーぞ」
「ああ……どうもありがとう」
その内の一冊が自分の足元に落ちていることに気が付いた黄名子は、それを拾ってアスレイに手渡した。
「珍しいやんね、紙のノート使ってるの」
何となしに話題を振ると、アスレイは微かに不機嫌そうに眉根を寄せる。
「よく言われるよ。古臭いってね」
「確かにちょっと古風な好みやんね。でも、それが良いから使ってるんでしょ? ほら、ウチもおんなじ!」
そう言って黄名子が自分のノートを胸に抱えてみせると、アスレイは初めて自分以外に紙のノートを使っている学生を見たのだろう、一瞬驚いたように目を丸くして。
「本当だ。……ふふ、趣味が合うね」
心なしか嬉しそうに、無愛想を崩して少しだけ微笑んだ。
「(──あ)」
その瞬間、黄名子は突然胸に走った直感に、ゆっくりと目を瞬く。
「(多分ウチ、この人のことを好きになる)」
点と点が繋がったような、心にポンと彼専用の場所が生まれたような。理屈も何もない、ただの勘でしかないけれど。
「……アスレイくん、ウチと友達になろっ?」
「えっ……僕と? べ、別に良いけど……」
この直感は、きっと手放してはいけない。
運命だなんて安い言葉では片付けられない。この瞬間、黄名子は自分で彼との未来を──彼の息子を救うことを、選んだのだ。
緩やかな風が頬を撫でる感覚に、黄名子は目を覚ました。
何だか随分と懐かしい夢を見ていた気がする。
ぽこ、と胎動を感じて、彼女は小さく微笑んで丸くなった腹部を撫でた。
──ふと、病室の外から物音がする。
そちらへ目をやると、売店に駆け出して行った夫が閉め忘れたらしい扉から、見覚えのある少年がそっと中を覗き込んでいた。
「……また会えたね」
「っ、分かるの……?」
おずおずと病室に入って来た夫と同じ色をした少年──フェイに、分かるよ、と黄名子ははにかむ。
「不思議でしょう。この中に、赤ちゃんのフェイがいるんだよ。もうすぐ会えるんだぁ」
「うん……」
フェイは曖昧に相槌を打って、ちらりとサイドボードを見た。
そこには仲睦まじく肩を寄せ合う黄名子とアスレイを写した写真と、いつか──フェイにとってはつい先程、雷門イレブンが彼女にプレゼントしたサッカーボールの寄せ書きが、お守りのように置いてある。
「でも、君は……」
「──お母さんにはなれない?」
腹部を撫でながら、黄名子は落ち着いた声で尋ねた。
フェイはグッと言葉を詰まらせて、微かに声を上擦らせる。
「僕を生んだ後、急に容態が悪化したって……うんと小さい頃、父さんから聞いたのを思い出したんだ」
「もう……誤魔化すってことを知らないんだから、あの人」
らしいと言えばらしいけど、と黄名子は呆れた溜息を吐く。今頃アスレイは黄名子のためにゼリー飲料を探しながらくしゃみをしていることだろう。
「でも、良いの。こうしてちゃんと会えたんだから」
一瞬何かを言いかけたフェイは、やがて唇をぎゅっと噛み締めた。
「それに……歴史は変えられる。でしょう?」
「っえ……?」
その言葉に、フェイは虚を突かれたように目を丸くする。
アスレイはここまで表情豊かではない。成る程、確かにこれは母親似だ──黄名子は楽しそうに微笑んだ。
「諦めずに頑張るよ。赤ちゃんのあなたに会うために……このインタラプトを乗り越えて、新しいタイムルートを作って見せる」
「……うん……」
唇を引き結び、フェイは鼻の詰まった声で小さく頷く。
窓から風が吹き込み、二人の髪を揺らす。きっともうじきアスレイが戻ってくるだろう。
「……じゃあ……行くね」
「うん」
名残惜しそうに言って、フェイはゆっくりと踵を踵を返す。
「──フェイ!」
寂しげな後ろ姿に、黄名子は最後に声を掛けた。
振り返るフェイに、彼女は微笑みかける。いつかの友人として、未来の母として。
「フェイもしっかり、頑張るやんねっ!」
「! ──うんっ」
目を瞬き、輝かせて。フェイは母と笑顔を交わして、病室を後にした。
§
「フェイ、別に今日すぐにという話ではないんだ。ただ、その……一度家に帰ってみれば、気持ちが変わるかもしれない」
未来へ戻った後。面倒くさそうにサカマキについていくザナークを見送って、それでは自分も一度フェーダの拠点へ戻ろうかと考えていると、アスレイから声を掛けられた。
また一緒に暮らさないか、と言う今朝の話の続きだ。
フェイがじとりとした目を向けると、父は気不味そうに目を伏せる。
「も、勿論、無理にとは言わない。あくまでお前の気持ちを優先したいんだ」
「……分かった」
「そうか、……えっ?」
良いのか、と動揺するアスレイを横目に、フェイは準備されていた彼の車に歩み寄った。
「言っておくけど、どのみち今日は一度フェーダの拠点に戻るよ。荷物をほとんど置きっぱなしなんだ」
「あ、ああ……!」
アスレイは嬉しそうに表情を綻ばせ、小さく何度も頷く。
フェイは一瞬迷ってから助手席ではなく後部座席に乗り込んで、逡巡の後、親子のやり取りをハラハラと見守っていたワンダバを振り返る。
「……ワンダバ、一緒に来て!」
「だばッ!? い、良いのか? せっかくの親子水入らずを……」
「良いの、早く!」
正直、アスレイと二人きりになるとまだ間が持たないのだ。その点、ワンダバがいれば色々と話題を振ってくれるだろうから気が紛れる。彼はそう言った気遣い出来るところが、意外と大人なのだ。
「では……行こうか」
二人がシートベルトを着けたことを確認して、アスレイはどこか声に緊張を滲まして車を動かした。
窓の向こうに、街の景色が飛ぶように流れていく。フロントアンダーミラー越しにアスレイがちらちらとこちらを窺っていることに気付いたが、それを指摘する勇気はまだ出ない。
「──さ、着いたぞ」
それから15分程が経って、車はとある一軒家の駐車場に停まった。
フェイからすれば、久し振りの実家だ。カーテンを閉め切った窓から、微かにリビングの明かりが漏れている。
「……電気、消し忘れたの?」
「んっ? おかしいな……私も長らく留守にするから、ブレーカーを下げていったはずなんだが」
「何? まさか泥棒か……!?」
ワンダバの不穏な一言に、アスレイは一気に険しい顔になった。
彼は鞄を盾のようにして前に構えると、慎重に玄関を解錠して扉を開く。
そしてその玄関ホールにもまた、電気が付いていた。三和土には女性物の靴が一足、きちんと揃えて置いてある。
「……え……?」
フェイは、アスレイが小さく呆けた声を漏らしたのを聞いた。
彼の背中から顔を出し、フェイはそっと廊下の奥を窺う。すると、リビングのある方からパタパタと音が聞こえてきた。
例えるならそう、スリッパを履いた足音のような。
「──あ〜っ! 二人とも、やっと帰ってきた! ワンダバさんもいらっしゃい、来ると思ってたよ」
ワンダバが小さくアッと声を漏らした。アスレイは鞄を取り落とし、フェイは言葉を失って息を呑む。
エプロンで手を拭きながら現れた彼女は、オレンジ色のシュシュで一纏めにした長い茶髪を揺らし、小首を傾げる。
「なぁに? 二人して幽霊でも見たような顔して! ……フェイってば、私が前に言ったこと忘れちゃったの?」
インタラプトを乗り越えて、新しいタイムルートを作るって!
──彼女は晴れやかに笑って両手を広げると、膝から崩れそうになりながら転がる勢いで駆け寄ってきた夫と息子を力いっぱい抱きしめた。
「おかえり。フェイ、あなた!」
「っ、た、ただいま……!」