これは、織乃が帝国学園に転入してくるよりもずっと前。
数年前、とある1人の少女に起こった出来事である。




「──マネージャー?」

「私がサッカー部の?」目を白黒させながら、彼女は自分の顔を指さした。
少女の名前は高岡美里。この春に新しく帝国学園に入学した1年生である。

彼女の前で両手を拝むように合わせた少年は、深く頭を下げた。

「ホント、頼むよ美里! お前が頼みの綱なんだ……!」

幼馴染みのよしみと思って、と彼は手を擦り合わせる。
美里はジト目でしばらく彼を見下ろした後、小さく溜息を吐いた。

「……分かったよ。啓太がそこまで頼むなんて、めったにないし」
「あ、ありがとう美里〜!」

大方、上級生からマネージャーを探してくるようにでも言われていたのだろう。
少年──啓太は、へにゃりと崩れ落ちて笑みを浮かべる。もうひとつ呆れたような溜息を吐いた美里は、少しだけ微笑んだ。

帝国学園サッカー部は、全国少年サッカー大会で37年間無敗を誇ってきた強豪である。
そんなチームでサッカーをすることを啓太が小学生の頃から目標に掲げていたことは、美里もよく知っていた。

「で、私はどうすりゃいいの?」
「えっと、取りあえず先輩には俺が言っておくから、お前はこれを持って影山総帥のところに行ってくれ!」

そう言って渡されたのは、1枚の紙切れ。入部届けだ。各欄には、すでにサッカー部入部を希望することと、美里の名前が書き込まれている。

「つまり、初めっから私に拒否権はなかったってことね……」
「違う違う、美里なら絶対に頷いてくれるって信じてただけ!」

パタパタと手を横に振って笑い飛ばす啓太に肩を竦め、美里は入部届けを手に立ち上がった。
昼休みはあと10分。走ればきっと間に合うだろう。

この時、もしも啓太の誘いを蹴っていたら、どうなっていたのか──それは、彼女の知る由ではない。




そんな経緯を経て、美里は無事に、晴れてサッカー部のマネージャーとなった。
とは言っても、幼馴染みの所属する2軍の──ではあるが。

試合をするのは1軍ばかり。
2軍はただひたすら1軍に上がるため練習に明け暮れる日々が続いていたが、啓太はそれでも毎日が充実しているようだった。

スポーツは勝ち負けを決める以前に、楽しむものであるということが彼の信条。攻撃的な人間の集まった帝国サッカー部において少し特異だった彼が、1軍に昇格されたのは2年生に上がった夏のことである。
それと同時に、美里も2軍から1軍のマネージャーとなった。

1軍と2軍の練習メニューには、実のところさしたる違いはない。ただ強いて言うならば、その気迫は桁違いだった。
2軍は1軍に上がるため。1軍は試合に勝利するため。
目的が違えば、自ずと選手の志にも少しずつ変化が訪れる。

それは、彼も例には漏れず。

「──啓太ァ、まだやるの?」
「当たり前だろ! 明後日は俺が1軍になってからの初試合だぞ」

辺りにいくつも無造作に転がるボールを拾い上げながら、啓太は力んでそう答える。
最近の彼は、どうも必死になりすぎているような気がする。美里はそれが気掛かりでならない。

そしてその不安は、見事に的中してしまった。




「……え」

ポキンと、手に握ったシャープペンシルの芯が折れる。
美里は、目の前で繰り広げられる試合に、自分の目を疑った。

地面を穿つボール、相手を傷付けに掛かるラフプレー、キーパーごと乱暴にゴールに押し込まれるシュート。
相手が傷付き、倒れていくというのに、帝国イレブンはそれを当たり前のことのように受け入れる。

ハーフタイム、我慢できなかった美里は思わず啓太に噛みついた。

「啓太! 何であんなプレーするの!? みんな、先輩も──!」
「勝つために決まってるだろ」

そう答えたのは、キャプテンである3年生だった。彼も、他の仲間たちも、そして啓太も──美里と目を合わせない。

「総帥が望むのは勝利だけ。だから、俺たちはそのために」

あの人に、従う。
──その言葉は、彼女をいきり立たせるに十分な力を持っていた。

「──影山総帥ッ!!」

その日の放課後、美里は影山の元を訪れた。
鬼の形相でやってきた彼女に一瞥をくれ、彼は「何だ」と答える。

「何だじゃないでしょう……何なんですか、どうしてみんなにあんなサッカーさせるんですか!?」
「勝つためだ」
「相手を怪我させなくたって、みんななら勝てます!!」

吼える美里に、影山はやれやれと言うように肩を竦めた。
その反応がさらに、美里の怒りを増長させる。

「サッカー部があんな試合するなんて知らなかった──負けた学校を壊すことも! 私もう、こんな部のマネージャーやっていけな……」
「お前の」

ふいに、彼は美里の言葉を遮った。

「……お前の幼馴染み──保川は、次のキャプテン候補だ」
「……? 何ですか、急に」

突然語り出した影山に、美里は後込みしたように眉根を寄せる。
保川とは啓太の名字だ。まさか、彼がキャプテンになるまではマネージャーを止めるなとでも言うのだろうか。

しかし次に続いた影山の言葉は、美里の想像とは全く違った。

「言わば、彼にとっては今がチャンス。そんな時に、……例えば足を壊すようなことがあれば、彼はさぞかし落胆するだろうな」
「……!?」

一瞬、美里は彼の言っていることが分からなくなる。
啓太をだしに脅されていると理解したのは、数秒後のことだった。

「っな、何を言ってるんですか! まさか総帥、啓太に……!」
「ふん……例えばと言っただろう」

クツクツと喉の奥で笑う影山に、美里は思い切り顔をしかめる。
──彼ならやりかねない。彼女の本能が警報を鳴らした。

「……ッしつれーしました!!」

影山の部屋を飛び出して、美里はそのまま部室へ走る。
棚に仕舞われた試合記録をいくつも引っ張り出して、机一杯にレポート用紙を広げた。

「何してんだ、美里」
「……あんたたちが動かないなら、私が動くしかないでしょ!」

尋ねてきた啓太に、美里は跳ね返すように答える。
早く、この現状をどうにかしなければ。影山の呪縛から逃れ、サッカーが出来るように。

試合記録──帝国に負けた学校が、影山の傘下に下ったか否か。帝国が、どれほどの点差をつけて、相手を下し、傷つけたか。
事細かに記したこの記録を提出すれば、警察なり教育委員会なり、動いてくれるかもしれない。

──しかしそんな希望は、無惨にも彼によって打ち砕かれた。

「そんなことしたって無駄だろ」
「無駄じゃない! あんただって、あんなサッカー嫌でしょ!?」

啓太は、一瞬口を噤む。
瞳の色を鈍らせた彼は、ぼそりと呟くように言った。

「──別に構わない。勝てれば、それで」
「……は?」

美里は思わず聞き返す。
自分の耳を、疑ったのだ。彼は今、なんと言ったか。

「総帥は、俺たちに勝たせてくれる──それで良いじゃないか」

それだけ言い残して、彼はスタジアムに消えていく。呆然とした美里の手からシャープペンシルが滑り落ちた。

──彼はいつの間に、戻れない場所にまで浸食されていたのだろう。
変わってしまったのだ。昔の純粋にボールを追いかけていた頃の面影などない──完璧な勝利に、その天秤は傾いてしまった。
もう、戻らないのか。自分が好きだった、応援していた頃の彼には。

──しかし、悔やんでもマネージャーを止めることは出来ない。
恐らく、影山は本気だ。自分がマネージャーを止めれば、きっと啓太はサッカーが出来なくなる。

魔宮に迷い込んだように、美里の思考は混濁する。所詮、マネージャーはマネージャーのままで。選手を変えることなど、出来ないというのだろうか。

虚しくて悲しくて、涙が出る。
美里は途中まで書いた書類を乱雑にまとめて、ロッカーに押し込んだ。

──そして、そのまま時は過ぎる。
3年生が引退し、啓太がキャプテンを引き継ぎ、それから季節は回って、中学に上がって3回目の春、新しく1年生が入部してきた。

影山のお気に入りと囁かれる、鬼道有人。夏の大会を最後に、彼にキャプテンの座を渡した啓太は、美里と同じくサッカー部を引退する。

そして、最後の春。




「──えっ……織乃ちゃん、転校しちゃったの!?」
「はい」

卒業式も終わり、胸に造花をつけた美里は、向き合った鬼道にがっくりと肩を落とした。
鬼道としては、彼女と美里に関わりがあったこと自体驚きである。

「そっかぁ……残念だなぁ、最後にもう1回話したかったのに」
「はぁ。というか、先輩はいつのまに御鏡と……?」

美里はぐっと口を噤んだ。
まさか、織乃がサッカー部のファンクラブによる集団リンチを受けそうになっていたところに遭遇したのだとは、口が裂けても言えない。

「……鬼道、女にはね、秘密が色々とあるもんなんだよ」
「(よく分からん……)」
「ちょっと、そんなあからさまに呆れた顔しないでよ」
「してません」

目尻をつり上げた美里に、鬼道は少し口角を緩める。
そんな彼に、美里は驚いて思わず目を丸くした。
──自分がマネージャーをやっていた時は、彼がこんな風に穏やかに微笑むところは見たことがない。

「……織乃ちゃん、頑張ったね」
「? それは、まぁ……はい」

美里の言葉の真意を受け取れないまま、鬼道は首を傾げる。
小さく笑った美里は、キュッと靴音を鳴らして踵を返した。

「さて! じゃあ私も帰るとするか。部活、頑張りなよ」
「あ、はい……」

ご卒業おめでとうございます──口を突いて出た呟くような鬼道の言葉に思わず噴き出しながら、美里は昇降口へ駆けていく。

──そうか。
彼女は、頑張ったんだな。

あの小さな後輩が、自分を信じて行動してくれたことに、嬉しく思う。
それは志半ばで終わってしまったようだったが、美里はそれでも十分満足だった。
マネージャーでも、少しずつなら──選手を変えることが出来ると出来ると分かったのだから。

「……あ。おっせーぞ美里!」
「はいはい、ごめんごめん」

そう。それはきっと、今からでも遅くはない。
影の支配から逃れ、光の射す今ならきっと、彼女にも。

舞い散る桜の花びらが、踊るように風に吹かれて飛んでいった。

少女Aの物語

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