これは、私がイタリアに引っ越してから約2ヶ月ほどが経ったあくる日の出来事である。

「……空が……青い……」

イタリア在住、御鏡織乃。ただいま暇を弄んでいる真っ最中。

──というわけではなく、やっと少し慣れてきた町での買い物を済ませて、帰宅している途中である。
時刻は午後1時、月曜日。

何でも、基本的にイタリアは義務教育が13歳までらしく、今年14歳になる私にはそれが適用されないんだとか。
まぁ、だからと言って勉強をサボっていたらいつか日本に帰った時大変なことになるだろうから、週に3日程日本人の通う学習センターに行っているのだけれども。

それにしたって大変なのは文化の違いだ。イタリアの人はやけにフレンドリーで、特に男の人なんかはジェントルマン精神だかレディファーストだかよく分からないが、とにかく女の人に優しい。
挨拶だって日本とは全然違うから、先週家にやって来たお父さんのイタリアの知り合いに私やお母さんが頬にキスされた時は大変だった。
私とお母さんがじゃなくて、それを見たお父さんとお兄ちゃんと、弟たちが。

最終的に物理的に黙らせて事なきを得たのだけど、ホントにあれは大変だった。
おかげで私はその次の日から護身の為だ何だとよく分からない格闘技の教室に通わされることになって、筋肉痛に悩まされる日々が続いている。
正直、早く日本に帰りたい。

「(でもまぁ、役に立たない訳じゃないし……別に良いか)」

お陰でお兄ちゃんや大樹を大人しくさせやすくなったわけだし。自分を納得させながら、荷物を持ち直す。

両手で抱えた紙袋の中に入っているのは、数個のトマトとパセリ、それからチーズ。
先日近所に住んでいる日本語の話せるおばさんにピザの作り方を教えて貰ったので、それを実践してみるつもりだ。

その辺りはすっかり順応しちゃったのになぁ──なんて思いながら道を歩いていると、離れたところから誰かの声。

ふとそちらに視線を向けると、公園のような大きな広場にグラウンドがあるのが見えた。
コロコロと転がる白と黒。サッカーボールだ。早くも懐かしい気持ちになって、私は目を細める。

「(──みんな、元気にしてるかな)」

1度、手紙でも書いてみようか。
でも、どこ宛に書けば良いんだろう。帝国学園宛に書いたら、サッカー部に渡る前に総帥に検閲でもされそうだ。そしたら、みんなが知る前に即シュレッダー行きだろう。
こうなったら、無礼を承知で鬼道さんを介して送らせてもらってみようか。サッカー部のみんなへと書いたら、きっと鬼道さんはみんなにも見せてくれる筈だ。

そうとなったら、次は封筒と便せんを買いに行かなければ。
勿論、このままじゃ両手が使えないから、1度家に帰って荷物を置いてから。

自己完結させて、私は紙袋を抱え直す。公園の前で止まったままだった足を再び動かして、その場を立ち去ろうとした次の瞬間。

「──あっ、危ない!」
「え」

聞き慣れた日本語に振り向こうとした瞬間、後頭部にとてつもない衝撃が走る。

視界の隅で袋から飛び出したトマトがきれいな放物線を描きながら落下していくのを確認しながら、私はあっさりと意識を手放した。




ゆっくりと瞼を上げると、そこには視界一杯に、綺麗な青い空が広がっていた。
………………いや、何で?

ぎゅっと眉間に皺を寄せながら、私は現状を確認する。
とりあえず、何か後頭部が痛い。あと、何か氷枕みたいなものに頭が乗ってる。
あと分かるのと言えば、自分が石造りのベンチに横たわっていたということか。

「Oh, io notai!」
「へ?」

半身を起こして声のした方に首を向けると、何やら青い顔で私に駆け寄ってくる数人の男の子。
真っ先に私の元に辿り着いた、茶髪と深海のようなディープブルーの瞳を持った男の子は、その綺麗な目にほんの少し水の膜を張り焦ったように私の両手を取った。

「Va bene!?」
「え、あー……Si.」

いきなり大丈夫かと問われて、私は若干後込みしながらも頷く。
すると男の子たちはホッと息を吐いて、強ばっていたらしい肩の力を抜いた。
私の手を握ったままの男の子は、尚も意気消沈したまま続ける。

「Io sono l'uomo peggiore……Io ho fatto male una ragazza……!」
「ちょ、まっ……」

どうしよう、ネイティブ過ぎて全然聞き取れない。私が慌てたことに分かったのか、男の子が頭上に疑問符を浮かべる。
とりあえず、先に言葉の壁をどうにかしないと。私は覚えて間もないイタリアを必死に頭の中で繋げて、なるべくカタカナ発音にならないよう発声した。

「ええと──Sono giapponese.parlo italiano solo un po'.」

確か、これで良かった……筈。
男の子がハッとした顔になったのを見て、伝わったのだと分かった私はホッとしながらもう一度口を開く。
もう少しゆっくり喋ってもらっても良いですかと尋ねようとした、その瞬間。

「ごめん! 慌ててたもんだから、つい配慮を忘れちゃって……」
「……う、え?」

眉を少し下げて、突然流暢に日本語を喋りだした彼に面食らう。これは、私も日本語で喋って良い感じだろうか。

「え、と。こちらこそ、すいませんでした……?」
「君が謝ることはないよ! さっきも言ったけど、俺が間違えて変な方向にボールを蹴ったせいで怪我させちゃったんだから……」

ああ、さっきのはそれを謝っていたのか。何となく納得していると、また少し離れたところから誰かがやってくるのが見えた。

「──Si svegli?」
「キャプテン! 彼女、日本人だったんですよ」

茶髪の男の子の横にいた赤毛の天然パーマの男の子が日本語で言うと、キャプテンと呼ばれたその人は少し驚いたように目を丸くする。

「そうだったのか。チームメイトがすまなかったね。俺は中田、君の名前は?」
「あ──御鏡織乃、です」

名乗ると、中田さん(どうやら日本人らしい)──は、少し苦笑しながら茶髪の男の子の肩をポンと叩く。

「いい加減に離してやれ、フィディオ。彼女が困ってる」
「あ、ごめん」

ぱっ、と私の手を離すその人。
頭の後ろを掻きながら、彼は笑顔を見せた。

「改めて、俺はフィディオ・アルデナ。よろしくな、シキノ!」
「あ、はい……」

ごく自然に当たり前のように呼ばれた下の名前に、「流石イタリア」と若干的外れなことを思っていると、中田さんの脇に抱えられた物に目がいく。

「サッカーボール……」
「ん? ああ、俺たちは、ここのサッカークラブの選手なんだ」

中田さんの言葉を皮切りに、日本語の話せるらしい何人かが各々好きなことを口に出し始めた。

「ったく、フィディオもあり得ないよな。よりによって、女の子にボールをぶつけるなんて」
「だから、その点はさっきからずっと反省してるって!」
「ジャンルカは女の子に関しては厳しいからなー」

何人か──と言うより、結構数は限られているらしい。フィディオさんと、赤毛の人と黒髪の人以外はみんなキョトンとしている。
そこで私はハッとした。

「ご──ごめんなさい、私、練習の邪魔を……」
「いや、構わないよ。非があるのはフィディオだから」
「キャプテンまで……」

どんよりと落ち込むフィディオさんに申し訳ない気持ちになって、私は少し項垂れる。

「でも、私もぼーっとしてたから……ごめんなさいフィディオさん」
「いや、だから俺が……」

「ああもう、キリがない!」いたちごっこになりかけた会話を、赤毛の人が大声を出して制止した。
途端口を噤んだ私を見て、何を思ったかフィディオさんが顔を綻ばせる。

「そうだ、シキノ! 俺たちのサッカー観ていかないか? お詫びになるか分からないけど、飛びっきりのシュートを見せてあげるよ!」
「え……良いんですか?」

「良いですよね、キャプテン?」尋ねたフィディオさんに、中田さんは快く頷く。
コートに走っていったフィディオさんたちを見送った彼は、私の座っていたベンチの隣に腰を降ろす。

「そう言えば……君も、サッカーが好きなのかい?」
「え?」

「さっき道で眺めてただろう?」笑顔で言う中田さんに、私は小さく頷いた。

「……私、プレーすることは出来ないけど……観るのは、好きです」

1つのボールを一心に追いかけて、技術を磨いて、仲間と力を合わせて。
つい半年前まで興味もなかったこのスポーツがこんなに楽しいものだと分かったのも、きっとみんなのおかげなんだろう。

「(会いたいなぁ)」

ふと、頬を緩ませ遠くを見た私に、中田さんが微笑みかけた。

「時間がある時にでも、見にくると良いさ。みんなサッカーが大好きな連中だから、きっと君もすぐ馴染めるよ」

その言葉に頷いた途端、金に光り輝く剣がゴールを割る。
こっちに向かって手を振るフィディオさんに応え、私は手を振り返した。




それから更に1週間後、日本の某所にて。
心なしか早足で廊下を歩くのは、帝国サッカー部キャプテンの鬼道有人その人である。
部室の扉を開けると、すでに全員がそこに集結していた。何のことはない、事前に自分が今日は早めに集合しろと指示を出していたのだから。

帝国のユニフォームに身を包んだ成神が、ヘッドフォンの音を切りながら小首を傾げる。

「どうしたんすか? 鬼道先輩」

そんな嬉しそうな顔しちゃって──そう顔を指され、鬼道はムッと頬を動かした。
しかし、すぐに口角を持ち上げる彼は、「これを見れば分かる」と持っていた一通の封筒を持ち上げてみせる。

「……エアメール?」

誰からだ? と首を傾げる佐久間に、鬼道は少し呆れた顔をした。

「俺たちにこんなものを送る人間なんて、1人しかいないだろう?」
「……織乃先輩!」

パッと洞面が顔を輝かせると、成神が「見せて下さい!」と慌てて手を伸ばす。
中から取り出した便せんは2枚。それをデスクに広げると、一同は額を寄せ合って紙面をのぞき込んだ。

『──帝国サッカー部のみなさまへ。
お久しぶりです。みんな、元気にしているでしょうか。
日本ではそろそろFFの地区大会が近付いてきた頃だと思います。

私も、イタリアで何とか頑張っています。
今はご近所のサッカークラブのお手伝いをさせてもらって、お友達も出来ました。
みんなサッカーが上手で、中には日本の留学生も混じっています。

きっとサッカー部も、健也くんや洞面くん、私の知らない後輩が入部して、前よりもっと強くなっているんでしょうね。

日本に帰る目処はまだ付かないけど、いつかみんなとまた会える日を楽しみにしています。

御鏡織乃より。

──PS。お兄ちゃんたちがどうしてもと言うのでもう1枚手紙を同封したのですが、変なことが書いてあったら構わず捨てて下さい。』

全て読み終え、久しぶりに部室に柔らかい空気が漂う。
そして自然に視線が向かうのは追伸にあったもう1枚の手紙だ。裏返しになっていたそれを、少し後込みしながら源田が捲る。

『──イタリアは油断できない。こうなったらいっそあの時、お前たちの誰かと織乃の交際を認めておくんだった。 冬樹』
『イタリア男爆発しろ 大樹』

部室に何ともいえない微妙な空気が漂った。
織乃の手紙だけ丁寧に封筒にしまった成神が、「こんなん書く暇あったら俺に手紙出せよ」と顔をひきつらせる。
その対象は、言わずもがな織乃の弟であり自分の友人である、「イタリア男爆発しろ」と何やら不穏な走り書きを寄越した大樹だ。

軽く頭痛を覚えた気がした鬼道は、兄弟達の手紙を小さく小さく折り畳みゴミ箱に投げ入れる。
ポコンとそれが綺麗に入ったのを確認し、鬼道はマントを翻した。

「あいつも頑張っているんだ。俺たちも気を抜かずに行こう」
「そうだな」

鬼道の言葉に、源田が緩く破顔して頷く。
「今日の練習相手、どこでしたっけ?」問いかけた洞面に、寺門が答えた。

「確か、雷門中──だったな?」
「ああ」

小さく返し、鬼道は部室の扉を開ける。校門にはきっと、すでに車両が控えているはずだ。

雷門中学校──あるひとつの目的の為、今日の自分たちは動く。それが、後にどんな展開をもたらすかも知らずに。

「──さぁ、行くぞ」
「おう!」

幕はまだ、降ろされてはいない。
物語はこれから始まるのだ。


(It continues ahead.)

海を越えて