「──動くなッ!!」

やにわに教室の扉が弾丸のような勢いで開かれ、響いてきた怒声に生徒たちは一斉にそちらを振り返った。
ナイフを片手に突然現れたのは、目出し帽を被った男だった。男は動揺でざわめく生徒たちを「騒ぐんじゃねえ!!」と一喝すると、手近にいた女子生徒の手を掴み乱暴に引き寄せ、ぐっと首に腕を回した。

「全員教室の隅に寄れ! 言うことを聞かなけりゃオトモダチが怪我するぞァッ!?」

男の言葉尻が奇妙に跳ね上がる。
拘束していた女子生徒の踵が、彼の足の甲を力いっぱい踏み抜いたのだ。
唐突な痛みに男の体はよろめき、腕から力が抜ける。女子生徒はその腕を掴むと、自身の肩を支点にして。

「せヤァッ!!」
「ぐふぅっ……!?」

間髪入れず、男を一本背負いした。
一瞬の隙を突いた、鮮やかな一本である。クラスメイトたちからも思わずといった風に拍手が上がる。

「……あ」
「ストーーップ!! 一旦ストップです!!」

女子生徒が足元で呻く男を見下ろし、しまった、と呟くのと──教室に慌てた様子で教師が飛び込んできたのはほとんど同時だった。




帝国学園、某日正午過ぎ。
教卓の前にこめかみを押さえた教師と、目出し帽を脱いだ若い男がばつが悪そうに並んでいる。
そんな大人二人の前には、スンとした表情の女子生徒が一人。

「……生徒会は今日の避難訓練の内容を詳しく聞いていたはずでは?」
「はい。学園に侵入した不審者がどこかの教室を強襲した想定で、生徒たちの有事対応能力を確認するため時間を指定せず始めると」
「では、何故彼を投げ飛ばしたりしたんです……?」

教師は彼女を強く叱ることが出来ないのか、溜息混じりに尋ねる。
彼、と差された男は打ち付けた背中を擦って苦笑いしていた。この学園の警備員の一人である。

「すいません。幼少期に誘拐された時の記憶がフラッシュバックして思わず……」
「う、うーん……」

女子生徒は問いに対し、頬に手を当て軽く目を伏せて答えた。
だからと言って人を投げ飛ばすのは如何なものか。トラウマがあるならばそこは逆に体が動かなくなってしまうものではないのだろうか?
教師の頭を様々な疑問が飛び交うが、そんな事情を引き合いに出されてはそれ以上問い詰めにくい。

「そちらの警備員さん、確かまだ入って2ヶ月程度でしたね」
「え? あ、はい……」

ふと話の矛先を向けられ、男は目を瞬いた。どうして一介の生徒がそんなことを把握しているのか、そして女子生徒の少女らしからぬ落ち着きっぷりに、彼は自然と姿勢を正す。

「でしたら、私のことを知らなかったのも無理はありません。咄嗟に人質役に選んでも仕方ないでしょうね」
「それは、まぁ……そうですね。今回はタイミングが悪かったとしか……」
「? えっと……」

男は女子生徒と教師の話について行けず、困ったように眉を顰めた。
教師はこの際だから紹介しておこうと思ったのか、女子生徒を手で差して彼に言う。

「ああ、彼女は鬼道名前さん。この学園の生徒副会長で、学園を経営する鬼道総帥の娘さんです」
「えっ……」

男は雇い主の娘を人質役に選んでしまったことにさっと顔を青ざめさせた。
そんな反応を見てか、女子生徒──名前は、彼に気にしないで下さい、と声を掛ける。

「私も投げ飛ばしてしまって申し訳ありません。……ですが、今後のためにも受け身の練習はもう少しした方がよろしいかと」
「は、はい。精進します……」

こてん、と小首を傾げてそんなことを言う名前に、男は複雑そうに愛想笑いを引きつらせた。




帝国学園2年A組、鬼道名前の名前をこの学園で知らぬ生徒は一人もいない。
成績優秀、運動神経抜群。学園の掲げる文武両道の校訓を余すことなく体現し、昨年は1年生にして生徒副会長に抜擢されている。
いち生徒として周囲に慕われている一方で、総帥の娘という大きな肩書を背負っているせいか人を寄せ付けない雰囲気がある──と彼女を詳しく知らぬ者は思っているが、実のところ本人がマイペース過ぎてあまりついていける人間が少ない、と言った方が正しいとは義弟の弁だ。

故に、名前をよく知る人間は彼女のことをこう称する。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花──その本性は不沈艦、下手に火傷したくなければ近寄るべからかず、と。

「次回はA組以外を対象にすべきだな」

放課後、理事長室。
生徒会の活動後、一部の生徒しか入れないその部屋に呼び出された名前は、大きな机を挟んで父・鬼道総帥と対面していた。

「しかし総帥、それでは公平性に欠くのでは? 自分たちのクラスは対象外だと生徒が把握してしまえば、危機感も避難訓練の意味も半減します」
「だったら、次は不審者役を投げ飛ばさないように」

サングラスのブリッジを持ち上げて、やや呆れた目を向けてきた鬼道に名前は微かに眉根を寄せる。

「咄嗟に動けなければ護身術を学んでいる意味がありません。それに、不意のこととは言え私のような若輩に投げ飛ばされる警備員にも問題を感じます」
「ま、その点は一理ある。後日改めて警備チームの教育をせねばなるまい」

手元のタブレットに短く何かを打ち込みながら鬼道は答えた。警備チームの教育日を早速予定に組み込んだのだろう。

「ところで、名前」
「……何でしょう、お父様」

ふ、と息を吐き出し、責任者の顔から父親の顔に戻った鬼道に、名前も少しばかり肩の力を抜いた。

「お前の担任から聞いたが、……誘拐された時の記憶がフラッシュバックしたと言うのは大丈夫なのか」
「ああ、そのことですか」

父の気遣わしげな声音とは反し、名前はあっけらかんとした様子で口を開く。

「あの時のことを思い出して咄嗟に……というのは嘘ではありません」
「では……」
「何も反撃出来なかった当時の憤りが爆発的に蘇って、つい体が動いてしまったと言う方が正確でしょうか」
「……まぁ、お前が平気ならその件は良いんだ」

鬼道は細かいことを諦めた表情になって、悔しい気持ちを思い出したらしく顰め面になって拳を握り締めた娘から目を逸らした。

名前が過去誘拐された、あるいはされかけた回数は計5回に及ぶ。
日本有数の巨大企業・鬼道重工の一人娘となれば請求できる身代金も山のように違いない──そう考える身の程知らずな愚か者が多かったこと。
よく一緒に遊んでいた円堂家の息子がサッカーボールを常日頃から持っていなければ未遂で済まなかったケースはもっと多かっただろう。

その内の1回が初等部3年生の頃。校外学習にて大人が生徒たちから離れた際に起きたほんの数分の出来事だった。
犯人は複数人のグループで、「君のお母さんが事故にあった」とありきたりな嘘で名前を拐かした。正確に言えばその頃から聡明だった名前はその嘘をすぐに信じたわけではなかったのだが、真偽を図ろうと逡巡した一瞬で犯人グループはあれよあれよという間に彼女を拘束し、車に乗せて連れ去ってしまったのである。

結果だけ言えば、その犯人グループは壊滅した。
身代金を要求された直後、名前のローファーの踵に仕込んでいたGPSの反応を追った彼女の母が、単身犯人グループの拠点に乗り込んだのだ。
初等部の校外学習という大人の目が届きにくくなるタイミングを狙い撃ちした用意周到さも怒りを増長させたが、母親の事故という子供の優しさに付け込んだ嘘が特に彼女の逆鱗に触れたらしい。
まさか犯人グループも子持ちの人妻がそんな無茶苦茶なことをするとは思っていなかったのだろう。油断を突かれたこともあり、彼らはものの数分で病院送りになった。
母自身もナイフでの反撃を受け腕に数センチほどの傷跡を作ってしまったものの、逆にそれで正当防衛を認められ“一応”お咎め無しに収まり(夫には無茶をしたことをしこたま怒られた)、のちに犯人グループの一人は『あんな怖い思いをしたのは人生で初めてだ、もう二度とあの女には会いたくない』と自分たちのしたことを棚に上げて留置所で怯えていたらしい。

そして、肝心の娘はと言うと。

「お母様、カッコいい……!」

見知らぬ粗暴そうな大人に囲まれた時は多少恐怖心を覚えたものの、母の快進撃を見た衝撃はその恐怖を意図も容易く上書きした。
徒手空拳で悪党どもを文字通り千切っては投げ千切っては投げする母は、TVアニメで活躍するどんなヒーローやヒロインよりも輝いて見えたのである。

元々身を守るために護身術を習っていた名前だったが、その日を境に彼女は母のような強い女性となるべく本格的に体術を習い始めた。
幼い体の成長を阻害しないように計算され尽くされた筋力トレーニング、フィジカルで足りない部分は武器術を習い補うなどして数年。
母親にはまだまだ及ばないものの、こうして名前はどこへ出しても恥ずかしくない“武の者”として成長したというわけである。
どうしてこうなった。娘の成長を喜ぶ一方で、その成長の方向性に鬼道が首を傾げてしまったのも仕方のない話。妻もまたこんな風に育てる予定はなかったんだけど、と言いつつも、強くたくましく育った娘にどこか誇らしげでもあった。

閑話休題。
父のお説教から解放された名前は、別れの挨拶を掛けてくる生徒たちに応えながら真っ直ぐ校門へと向かう。
校門横には、既に見慣れた黒いリムジンが待機していた。
車内へ乗り込めば、運転席の年若い執事が「おかえりなさいませ」と肩越しに振り返る。

「今日はいつもより遅いお戻りですね」
「避難訓練をダメにしたって、お父様にお説教をされてたんです。私だけのせいじゃないのに」

名前が唇を尖らせながら柔らかいシートに深く腰掛け、シートベルトを着けたのを確認して、リムジンは静かに走り出した。

「本日は夕食の後、帝王学の先生がおいでになるご予定です。ノートが残り少ないとのことだったので、新しいものを机にご用意しておきました」
「分かりました、ありがとう」

走る街並みが少しずつ夕暮れのオレンジ色に染まり始める。
伸びていく木々の影を眺めながら、それで、と名前は運転席へ話し掛けた。

「袴田くん。今日、手紙は」
「……いえ。確認しましたが、今日も……」

フロントミラーに、袴田と呼ばれた若い執事の申し訳なさそうな顔が映る。
そう、と呟くように声を返して、名前は窓ガラスにそっと頭を預けた。

「手紙の一つも寄越せないくらい忙しい学校生活を送っているんですね、丈二くんは」

声に微かに苛立ちを含めながら呟く名前に、そうですね、と袴田はハンドルを切りながら当たり障りのない返事を返す。
父の説教にすら大して揺らがない彼女の心をここまで動かすのは、きっと彼くらいのものだろう──と彼は心中で続けた。

時期は春、桜が散り始めた季節。
遠方に済む名前の許婚、桜咲丈二から手紙が届かなくなって丁度1年が過ぎようとしていた。