ふと、唐突に嫌な予感がした。こういった予感は大抵当たる。
案の定、タブレットから顔を上げた途端、部屋のドアがノックされた。
「……どうぞ」
「スカイダイビングをしに行きますよ、アリス」
応対から間を空けず、部屋に足を踏み入れるなり高らかに宣言した名前に義弟──アリスはギュッと眉間に皺を寄せる。
「ハァ。一応聞くけど、どうして」
「先週、ハルくんから電話がありまして」
名前は既に出掛ける準備は万端らしく、アウトドアに適した動きやすい服装で椅子に腰掛けたアリスの横に立った。
そこはかとない“圧”を感じ、アリスはそっと左手にウサギのパペットを着ける。
「気分転換にサッカー以外のことがしたいから何か良い案はないか、って。せっかくなので私が一度してみたかったことを選択したわけです」
『それでいきなりスカイダイビングたぁ、相変わらず姉ちゃんはぶっ飛んでやがるぜ』
「あら、良い案だと思いません? サッカー以外のことがしたいなら、芝生を離れるのが一番でしょう」
皮肉を言うウサギを指で軽く弾く名前に、アリスは溜息混じりに「それで、」と話を続けた。
「何で俺まで行かなきゃならないのさ」
「言ったでしょ、気分転換って。アリスも最近机に齧りついてばかりで、運動不足になっているのではなくて?」
む、とアリスは口をへの字にする。
名前の指摘は正しかった。帝国サッカー部の選手ではなく監督として活動を始めてから、確かにアリスの運動量は減っている。
けれど学校の体育の授業には参加しているし、父からの言いつけもあるので最低限のトレーニングはしているつもりだ。勿論、監督としてやることが多いので選手たちと同じようにとまではいかないが。
とどのつまり、運動不足と言うほどでもない──のだが、名前に言ったところで聞かないだろう。
「それにしたって、何も当日に言わなくても」
「当日に言わないと逃げるじゃない、あなた」
図星である。アリスは眉間の皺を深め、義姉を見上げる。
サッカーに限らず先々の展開を読むのはアリスの得意とするところだが、名前はそれより更に一歩先を読んでくるのが常だ。こういうところは血が繋がらずとも似た者姉弟ということだろう。
「悪いけど、午後から部活があるから──」
「今日は1日お休みと聞いてます。昨日参募くんに確認済みですよ」
『チッ、ヘタ打ちやがったな参募!』
ウサギの手が苛立ったように机を叩いた。
アリスは顔をしかめ、名前から目を逸らす。逃げ道は塞がれてしまった。他に何か言い訳はないか、と考えを巡らせていると、頭上から溜息が聞こえた。無論、名前のものである。
「ま、アリスならそういう反応をすると思ってました。今回はハルくんと2人で行ってきます」
「あ、そう……」
「でも、代わりに今度ショッピングに付き合って下さいね」
「……」
まさか最初からそちらが本命だったのではなかろうか。アリスはジト目になって、機嫌良さげに部屋を出ていく名前を見送った。
§
「ちょっと緊張してきた、かも」
「まぁ、珍しい」
諸々の手続きと説明、講習を済ませ、上空へ向かう小型飛行機の中でハルが小さく呟く。体は既にインストラクターと固定済みだ。
名前は驚いた様子で口に手を当て、一つ年下の幼馴染を見遣る。
「だってスカイダイビングなんて初めてだもん、俺。名前ちゃんは怖くないの?」
「特には。楽しそうだな、とは思いますが」
「流石、鋼の心臓」
ハルは名前の反応に苦笑いして、窓の外へ目を向けた。
眼下に映る雲、抜けるような青空。おお、と感嘆の声を漏らすハルの横顔は、いつもと変わらないように見えた。
「──到着しました!」
「う」
空を眺めていたハルの顔が僅かに強張る。
行きましょうか、と声を掛けてくるインストラクターに頷いて、名前はハルを振り返った。
「では、お先に」
「エーッ、そんなあっさり……」
言葉尻は吹き込む風にかき消され、名前は空へと飛び出した。
体がくるりと空中で回転し、安定する。日常生活ではまず感じることのないGに、名前はゴーグルで保護した目を細めた。
そうして1分程度の自由落下を経たところで、今度は体がグンッと上に引っ張られる。パラシュートが開いたのだ。
頭上で微かにハルの声が聞こえてくる。その声に恐怖らしいものは感じられなかった。
「た、楽しかった…………」
初めてのスカイダイビングを終え、帰りのリムジンにて。柔らかなシートに体を投げ出すように座って、ハルは呆然と呟いた。見開いた目に光が差し込んでキラキラと輝いている。
「それは良かったです」
「ありがと名前ちゃん、誘ってくれて……」
今度は一人で飛んでみたいな、とハルは早くも次回のことを考えている。余程空の旅が気に入ってしまったらしい。
その様子を横目に、名前は微笑んだ。
「それで?」
「んぇ?」
「どうしてまた、“サッカー以外のことがしたい”だなんて言い出したんです?」
ぱち、と一つ瞬きをして、ハルは黙り込む。
日本で一番有名な元サッカー選手を父に持ち、自身も並外れたサッカーセンスを持つハル。それ故に周囲から掛かる彼に対する期待や重圧は、他人が想像しきれるものではないだろう。
それでも、ハルはサッカーを“嫌う”素振りをただの一度も見せたことがない。
そんな彼が、一時でもサッカーから離れたいと言う。だから名前はこの話を受けた時、酷く驚いた。春になったばかりだと言うのに明日は雪でも降るのかと思ったほどだ。
ハルはトレードマークである首元のヘアバンドに口元を埋めると、しばし置いてぽつりと言った。
「何か最近、サッカーがつまんなくてさ。1回、ぜんぜん違うことに挑戦して気分転換したら、また楽しめるかなって思ったんだ」
「……その話、おじ様たちには?」
「言ってない。変に心配しそうだし……とっちゃんはともかく、母さまは心配性だしさ」
そう言って、ハルは困ったように口角を上げる。
つまらない、と口の中でその単語を繰り返し、名前は唇を指で押さえた。
要は、ハルは強くなりすぎたのだろう。何だって頂点を極めて敵無しになってしまえば、いつかやり甲斐がなくなってしまう。
「……近く、また大会があるのでしょう。そこで新しい刺激があると良いですね」
「うん……」
彼の卓越したプレイは、日本でも有数のサッカーセンスを持つアリスの先読みさえ易易と越えていく。お眼鏡に叶う選手と出会うのは中々難しいだろう。それこそ、何か奇跡でも起きない限り。
「名前ちゃんは?」
「はい?」
そこでハルは話を変えることにしたのだろう、声色を明るくして名前を振り返った。
「電話した時、自分も気分転換したいとこだったって言ってたじゃん。何かヤなことでもあった? 今日のお礼ってわけじゃないけど愚痴があるなら聞くよ、俺」
「……ヤなこと、と言うか」
名前はハルから目を逸らし、小さく溜息を吐く。目元に力が入り、不機嫌そうに寄った眉間の皺にハルは瞬時に理解した。
地雷踏んじゃったかも、と。
「私に許婚がいることは話したことがありましたっけ」
「あ、うん。遠くに住んでるとかナントカ」
「その人からの手紙がここ1年ほど途切れてまして、……流石に腹が立ってきたな、と」
「そこで嫌われたかもとか思わないのが名前ちゃんだよな……」
関心を覚えながら呟くハルに、名前は組んだ足先を揺らしながらぶつくさと続ける。
「第一、先に手紙のやり取りを提案したのは彼なんです。私に飽きたにしろ他に好い人が出来たにしろ、まずは一報寄越すのが筋と言うものではなくてッ?」
不満を口にしたことでしまい込んできた苛立ちが露わになったのだろう、語気を荒らげる名前に、ハルはチラリと運転席の袴田を見遣った。
青年執事はハルと目が合うと、一瞬にこりと笑ってそっと首を横に振る。
「えっと、……手紙、来ると良いね?」
「ええ。これであと半年待っても来なかったら私、長崎まで彼の横っ面を引っ叩きに行ってやるんです」
名前はプンスカしながら平手を素振りした。冗談めいた口調ではあるが、恐らく半分以上は本気だろう。
何年か前、今日と同じように2人で遊んでいたところに出会した不審者を名前が「正当防衛です」と言って平手打ちでふっ飛ばしたシーンを思い出しながら、ハルは彼女の母直伝のスナップを利かせた一撃が顔も知らぬ許婚殿に炸裂しないことを切に祈った。