アンラッキーナイト
吸血鬼とは、主に物語の中に登場するモンスターの名称、もしくは西洋で信じられている魔物であり、大蒜や十字架を嫌い、また太陽の光を浴びると塵になって消えてしまうと言う。
──と、言うのがネットで調べたことを簡単にまとめたことだった。
俺は電源を落とした携帯をベッドに投げ出し、机に突っ伏す。
『実はな、二人とも。この家の血筋には、吸血鬼の血が混じっているんだ』
父さんからそんな突飛過ぎる話を聞いたのは、まだ兄さんも怪我をしていない頃の話。
何でも剣城家の先祖には、吸血鬼と結婚した人間がいたとか。勿論その血も随分と薄れ、今では普通の人間と作りは何ら変わらないものの、ごくまれにその吸血鬼の血を濃く継ぐ子供──曰く、先祖返りが生まれるのだそうだ。
正直、その話を聞いた当時は父さんの悪ふざけと思っていたし、今までだってそう信じきっていた。
そう、今年の春までは。
「……有り得ないだろ……」
鏡を覗き込んだ俺の顔は青い。少し大きく口を開けると、──普通よりも遥かに鋭い犬歯が目についた。
どうやら俺は、吸血鬼の先祖返りらしい。
体の異変に気が付いてから三日。俺がやっとの思いで父さんにそのことを伝えると、父さんは一瞬驚いた顔になって、そうか、と苦笑いした。
先祖返りと言っても、本物の吸血鬼のように大蒜やら太陽の光が苦手になるわけではないそうだ。
確かにこの通り、俺は毎日のように青空の元でサッカーをしているし、母さんが大蒜を使った料理を作っても難なく平らげることが出来る。
なら、この犬歯以外特に問題はないのでは。
そう思ったのだが、現実はそう甘くはないらしい。
「ひいおじいさんも先祖返りだったんだが……話を思い出す限り、吸血衝動、と言うのがあるそうだ」
「吸血衝動……?」
自分の意思関係なく、本能が血を欲してしまう。それが唯一の、そして一番のネックだと言う。
「ただ、誰かの……何の血を欲するかは、個人によるらしい。ひいおじいさんはいつもすっぽんの血を飲んでいたなぁ……」
「すっ……」
顔がひきつる。そう言えばひいじいさんは百歳近くまでボケることなくピンピンしていたんだったか。
それがすっぽんの血によるものか吸血鬼の血によるものかは定かじゃないが。
とりあえずすっぽんの件は置いといて、その吸血衝動を無視していたらどうなるんだろう。
若干不安を覚えながら尋ねると、父さんは首を傾げて少し唸った。
「確か……貧血、に近い状態になるんだったかな。ふらふらになって、太陽の下を歩くと倒れるほど弱ってしまうとか……」
「げ」
それは死活問題だ。試合中にそんなことになったら笑えない。
真剣な顔で悩み始めた俺に、父さんは実家の納屋に残っていたと言う古い文献を持ち出してくれたのだが──
「(特に解決策も何も見つからなかった……)」
内心ぐったりしながら、俺はそれでも何でもないような顔で登校していた。
文献を読んで分かったことと言えば、吸血鬼の唾液には治癒効果があるってこと、吸血衝動があるのは実質満月の日だけと言うことの二つである。
そして今日は満月。つまり今日、誰かの──何かの血を飲まないと、俺は倒れてしまう、らしい。
現時点で、心なしか動悸と目眩を感じる。気のせい、で済めばそれで良いのだが、このまま朝練に臨んでもしも限界が来たとしたら──
「(どうするか……)」
「あっ、剣城おはよー!」
溜め息を吐いたところで、声と共につむじ風が横をすり抜けた。
俺を数歩追い抜いてパッと振り向いたのは、当たり前だが松風である(と言うかこいつしかいない)。
「も〜っ、早いよ天馬!」
「あ。ごめんごめん」
後ろから息を切らした西園と空野もこちらに気付き、おはよう、と手を振ってくる。
それに短く応えると、松風は不思議そうに首を捻った。
「何か剣城、元気なくない?風邪?」
「……眠いんだよ」
図星をつかれてギクリとしたが、それを顔に出すようなことはしない。
さらりと言うと、「僕も〜」と西園が目をこする。
その時、ふいに。
「……?」
「どうしたの剣城?」
「いや……」
ふわりと風に乗って、どこからか甘い匂いが漂ってきた、……気がした。
「何か……甘い匂いが、しないか」
「え? しないけど……」
ね、と同意を求めた松風に、西園と空野も頷く。
なら気のせいか、と思い直すも、匂いは段々強くなる一方だ。まるで、匂いそのものが近付いてきてるような──
「な〜に校門の前で固まってんだよ、お前ら」
「あ、おはよー名前」
おざなりに背中に投げられた声に、振り向く。
そしてすぐに後悔した。
匂いの元が、こいつ──名字だと、分かってしまったからだ。
形容するなら花の蜜。しかもとびきり匂いの強いもののはずなのに、名字は平然としている。
だが、不思議なことに不快感はない。ただ甘い匂いがする、それだけ。
なのに──俺は知らず知らずのうちに、こくりと小さく唾を飲んでいた。
喉の乾きによく似たそれを意識した途端、ハッとする。
「(まさか、こいつが)」
「……? どしたよ剣城、そんな目ぇかっ開いて」
熱でもあんのか、と名字が俺の顔を覗き込んだ。
襟元から見えた白い首筋から、慌てて目を逸らす。
「別に、何でもない」
「……ふ〜ん?」
一歩後退して、名字は疑わしげに目を細めた。
……ああ、そういやこいつに嘘は通じないんだったか。墓穴を掘ったかもしれない。
すると案の定、名字は次の瞬間顔をしかめて松風たちを振り返る。
「天馬たちは先に朝練行ってろ。私はこいつを保健室に連行してくる」
「えっ、やっぱり剣城風邪?」
風邪の方がまだ良かった。そんなことも言えず、口をつぐんでしまった俺の腕を、名字が強引に掴む。
一層、喉の乾きが激しくなった気がした。
「とにかく、キャプテンたちに伝言よろしく。ほら、行くぞ」
「おい、引っ張るな……!」
:
:
「センセーいないのか……ま、良いや。勝手にやっちゃえ」
無人の保健室に入るなり椅子にぐったりと背もたれた俺を尻目に、名字は棚を漁り何かを探している。
保健室に行くまでの間にも動悸と目眩は酷くなり、足元が覚束なくなるほどになっていた。
おまけにこの甘ったるい匂いと喉の乾き。このままだと、恐らく俺はこいつの血を飲まないと倒れてしまうだろう。
しかし仮にも一応、こいつはとも……クラスメート、チームの仲間だ。故意に傷付けるようなことは出来ればしたくない。
だけど、事情を説明したところでまず信じてもらえるかどうか。
「何かいつも以上に血色悪いし、ふらふらしてるし、貧血じゃね……って、何立ってんだよバカ」
椅子から腰を上げた俺に、体温計を片手にした名字がぎょっとした。
うるせえ、ほっとけ。そう言おうとしたのだが、喉がカラカラで声が出ない。
顔をしかめた俺に、名字は珍しく眉尻を下げた。
「なぁ、キツいときは動かない方が良いって。だからちゃんと休んでてくれよ」
きっと病院にいる幼馴染みを彷彿とさせたのだろう。名字は声に懇願するような色を滲ませながら、俺の袖を掴む。
そのまま少し腕を引かれ、向き合って。
真っ先に視界に入った名字の首元に、どくんと脈が上がった。
「……っ」
「剣城……?おい、どうした」
目を見開いた名字が、半歩よろけた俺の体を支えるように腕を伸ばす。
ぶわりと香る匂いに釣られたように、ふつりと視界が滲んだ。
「……悪い、名字」
「えっ?」
突然手を絡み取られたことに驚いたのだろう、名字がぽかんと口を開ける。
そのまま反撃の余地を与えない内に、その体を保健室の壁に押し付けた。
「ちょっ、何……!」
「後でちゃんと説明するから──」
するから、何だと言うのだろう。
自分でも考えが及ばないまま、俺は強引に名字のブラウスの襟元を強引に引きちぎった。ぶちん、と第2まで弾けたボタンが足元に転がり、襟からするりとリボンが落ちる。
そして呆気に取られた名字に気付かない振りをして、露になった首筋に噛みついた。
本能のまま、獣にでもなった気分で。
「いたっ……!?」
ぶつりと犬歯が薄い皮膚を突き破った瞬間、名字がか細い声を上げる。
それすらも聞こえない振りを決め込む俺は最低だろう。だけど、もう意識よりも吸血鬼の本能の方が、俺の体を支配していた。
口に溢れた血は本来鉄の味しかしないはずなのに、酷く甘く感じる。砂糖のような甘さとは違うはずなのに。
ごくん、と一口飲み込んだ途端、喉の乾きと動悸が収まっていく。
だけどまだ、足りない。
「つ、るぎっ……やめ……」
名字の震える声が鼓膜を振動させた。
──泣いてるのかもしれない。突然こんなことをしたら当たり前だ。
二口目を飲み込んだところで、足元と視界がしっかりする。
そっと牙を引き抜き、空いた二つの傷を軽く舐めとった。唾液には治癒効果があると言うから、このくらいの傷なら治せるんじゃないかと、期待を込めて。
「ん……っ!」
瞬間。名字が体を小さく震わせ、鼻から抜けたような聞いたこともない声を漏らす。
驚いて思わず押さえつけていた体を離した途端に膝からガクンと崩れ落ちるものだから、結局その肩を抱きかかえる形で支えることになった。
「…………う、わ」
慌てて名字の顔を覗き込み、思わず呟く。
目尻に少し涙を滲ませた名字は、顔を真っ赤にして浅い呼吸を繰返していた。
何と言うか、良くないものを見てしまった気分になる。
──と言うか、飛んでもないことをしてしまった。
今更ながらさっきまでの状況を(と言うか今も少しアレなんだが)思い出して、顔が熱くなっていく。
それでも名字の顔から目を離せないままひとしきりそんな表情を眺めていたところで、伏せられていた目がゆっくり開いた。
俺の顔と、立ったまま抱き抱えられたような自分の状態を確認して。
「……歯ぁ食いしばれこの変態ッ!!」
即座に繰り出されたボディーブローに飲んだ血を危うく吐き出しかけたが、自業自得だった。
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:
「──つまり? お前は吸血鬼の先祖返りで、月一で私の血を飲まないとぶっ倒れるってこと?」
「まあ……要約すると、そうなる」
冷たい保健室の床に正座させられ、俺は明らかに切れているだろう名字の問いに頷いた。
目を細める名字の肩には、俺の制服が掛かっている。第2ボタンまで引きちぎってしまったから、リボンだけでは誤魔化せないのだ。……本当に飛んでもないことをしてしまった。
「……血がないと、さっきみたいにふらふらになんの?」
「多分……」
「多分ん?」
「あ、いや、ああ」
ドスの効いた声に思わず言い直す。
以前海王との試合で一度こいつが本気でキレたところを見たことがあるが、これは完全にその時と同じ顔をしている。目を逸らしたら殺られる、と俺の生き物としての本能が告げていた。
ふぅん、と名字は顎に手を添え考え込む。
じっとりした目で俺を睨み付けて。
「…………分かった。そう言う事情なら仕方ない」
「え?」
そう言って、溜め息を吐いた。
「……信じるのか、今の話」
「信じるも何も、もう被害者になっちゃいましたしィ? 試合中に倒れでもしたら、それこそやばいだろーが」
皮肉を交えつつ、名字は答える。
そして、ただし!と俺の顔面を指差した名字は顔をほんのり赤くしながら、言いにくそうにもごもご口を動かして俺から目を逸らして言った。
「こ、こんな状況にならないように、次からはちゃんと事前に許可を取ること、服を破かないこと! 良いな!?」
「あ、ああ……」
釣られて俺の顔もまた熱くなる。
壁に押し付けた時の手首の細さと良い、傷を舐めとった時の声と言い、やっぱりこいつも何だかんだ言って女子なんだよな。
…………改めて恥ずかしくなってきた。
「わ、私から言うことはそれだけだ!!」
言い捨てるように叫んで、名字は保健室を出て行く。
そのまま、校舎の奥へ進む背中に思わず声を掛けた。
「おい、部室は逆方向だろ」
「……第2家庭科室に裁縫道具借りに行くんだよ、どっかのド変態が千切ったボタン直しにな!!」
最後の最後で耳まで真っ赤になった名字は、捨て台詞を吐いて駆けて行く。
……同級生にド変態って言われた……うん、だが、……うん……仕方ない。甘んじて受け入れよう。
「……甘い」
口の中に僅かに残った血の余韻を感じながら、俺はキャプテンたちへの言い訳を考えつつ部室へ走った。