脳髄にベビーピンク
掃除の行き届いていない倉は、ひどく埃臭い。
慎重にページの端から指を滑らせていくと、ぱりぱりと古い紙を捲る音が鼓膜を震わせる。
「鬼に選ばれる、他者、……?」
時おりまだ習っていない漢字が現れるものだから、漢字辞典を片手に手放せない。
薄暗い蔵の床に座り込んで、俺はその文面に書かれた字を窓の外から差し込む光で照らしつつ、どうにかこうにか解読した。
「……血を分け与える者を、贄≠ニ呼ぶ」
「あっ、おはよう剣城。風邪大丈夫だったの?」
「……ああ」
早朝7時15分。サッカー棟へ入るなり目の合った松風に言われ、昨日自分が風邪を理由に部活に顔を出さなかったことを思い出す。
「最近、気温の差が激しいからな。お前たちも気をつけろよ」
「はいっ」
クリップボードに挟んだ紙を捲りながら言った神童キャプテンに、松風と西園が大きく返事をした。
……仮病だった、もとい病気どころの話でなかったなどと知られないよう、注意しよう。
「はよざいまー、……す」
「あ、おはよー名前」
真後ろで自動ドアが開く。それと同時に、薫ってくるあの花の蜜のような匂い。
振り向くと、やはりそこには名字が立っていた。
「…………おはよ」
「……はよ」
いつもより短い淡白な挨拶。名字は何とも言えない複雑な表情をして、さっさと女子用のロッカールームに入っていく。
「何か、剣城くんと名前ちゃんぎこちなくね? 何かあったの〜?」
扉が閉まったのを見送って、ソファの影から狩屋がニヤニヤしながら顔を出した。と言うかいたのか狩屋。
だがしかし、図星。気取られないよう、なるべく表情筋を動かさないようにする。
「別に。いつもと変わらないだろ」
「そう? 喧嘩でもしたのかと思ったけど」
いっそそっちの方がまだ解決のしようがあっただろうに。
そう言い返したくなったのを何とか喉の奥へ押し込めて、俺はロッカールームへ向かった。
「剣城とって言うか、名前、昨日から少し様子変だったよ」
「え、そう? 僕分からなかったけど」
着替えながら、松風がさっきの話を蒸し返す。
そう言えば昨日あの後、名字と一言も会話を交わしていなかったことを思い出した。
「こう、いつも以上にぼんやりしてたと言うか」
「うーん。輝は分かった?」
「僕も全然……でも天馬くんが言うなら、そうなんだろうけど」
「剣城くんの風邪が移ったのかな?」何気無く続いた影山の言葉にギクリとする。
今、俺の肩は揺れなかっただろうか。隙あらば狩屋が目敏くこちらを観察している気がして、気が抜けない。
名字の様子が昨日からおかしいと言うなら、原因は十中八九俺しかいない。
それも仕方ないことだろう。突然クラスメートが吸血鬼の先祖返りなんてことを暴露された挙げ句、自分の血を分け与えないといけないなんて知ったら誰だって頭が混乱するに決まっている。
吸血鬼は自分の体に見合う血を持つ者から、甘い香りを感じとるらしい。
その鬼に選ばれた他者は、贄≠ニ呼ばれるそうだ。
つまり──あの甘ったるい香りに包まれた名字が、俺の贄と言うことになる。
(けど、せめてもう少し他にやりようがあれば)
昨日みたく、あんな無理矢理、その、いかがわしいことをするみたいにしなくても良い方法を、どうにか考えないと。
そこまで思ったところで、ポンと脳裏にあの時の名字の様子が浮かぶ。
熟れた桃みたいな色になった顔、見たことのない表情、聞いたこともない声。今でもはっきりと覚えている。
フィフスの連中に襲われていた時とはまた別のあいつの女子≠フ部分は、どうやら俺の脳にしっかりと焼き付いてしまったらしい。
(…………何をじっくり思い出してるんだ、俺は!!)
煩悩を頭から叩き出すようにロッカーを閉めると、存外大きな音が出て影山が飛び上がる。
謝る気にもなれずにそのままロッカールームの外へ出ると、丁度着替え終えたらしい名字と鉢合わせた。
「…………」
「…………」
思わず互いに無言になる。視線は合わない。
先に口を開いたのは名字だった。
「……今日は、体調大丈夫なのか」
「あ、ああ」
名字は少しばかり低い目線から睨み付けるように俺を見上げて、そう、と低い声で返す。
そしてじっと俺の目を見た後、やがて溜め息を吐いた。
「辛くなったら、先に言えよ。昨日みたいなのはもう懲り懲りだからな」
「…………すまん」
俺も出来ればそうしたい。
一言謝ったのが聞いたのか、名字はいつもの調子に戻って小声で続けた。
「吸血鬼って、太陽の光とかダメなんじゃなかったっけ」
「ああ……俺は純血じゃないからな。平常時は特に問題ない」
ふぅん、と鼻で返した名字は、納得しかねるような顔をしている。
「十字架とか、大蒜とか、銀も?」
「ああ。そもそも、吸血鬼の弱点って言うのは大半がフィクションらしいからな」
父さんの実家の倉に大量に残された資料の数々。そこから吸血鬼のことが書かれた書物を探しだすのには苦労した。
俺が昨日見つけたのは明治頃に書かれたらしい先祖の記録の一部で、贄の記事もそこに記してあったものである。
その中には、先祖返りに目覚めた弟の行動を記録した兄の手記もあった。
鬼の血を引く弟は満月の晩、恋人の肌を裂き数滴の血を飲む。そうしなければ彼の体は太陽の光に負けてしまう。
その弟の為を想い、自ら体を捧げる彼女はまるで生きた贄≠フようだ──確か、そんな内容だったはずだ。
記録の内容を思い出している耳の片隅に、名字の呟きが届く。
「本も案外あてにならないもんだな……」
「は?本?」
「…………」
聞き返すと、名字はハッと一瞬目を見開いて唇を引き結んだ。
──どうやら察するに、こいつも何かの本で吸血鬼に関する知識を増やそうとしたらしい。
「……じ、自分の身は自分で守れるようになるべきだろ」
「いや、別に取って食うわけじゃ……」
「本当に?」
──こいつはたまに、いつものざっくばらんで男みたいな態度とは裏腹に、ひょんなタイミングで普通の女子らしくなることがある。
それが今だ。名字は案外長い睫毛をしばたいて、じっと俺の目を見つめてくる。
一秒、二秒。先に根負けしたのは俺だった。
「…………帰ったら調べとく」
実際のところ、記録を読んだとは言え俺もまだこの体がどんな状態なのかと言うのを把握しきっていない。
無論、俺にカニバリズムの精神は一欠片もないが、もしかすると限界を突破したら食べるまではいかなくとも、それに近い何かをしてしまう可能性もなくはないわけで。
──そう言えばこいつの首、白くて柔らかかったな。
ふいにそんなことを思い出した。
「……あっ、おい。何赤くなってんだ、今お前何思い出した!?」
「ち、違う。別に何も思い出してない!」
「嘘つけ!」
釣られて顔を赤くした名字に、たまらず逃げ出すようにしてサッカー棟を飛び出す。
「痴話喧嘩かよ」と狩屋の呟きが聞こえたが、否定する余裕は今はなかった。