待ち人来たり
行灯の油が切れてしまったので、万屋へ出る。本来は近侍を伴う必要があるが、今日はやめておいた。こんのすけには渋い顔をされるが、たかが油、戦で疲れた刀剣男士の手を煩わせるまでもない。一人で用を済ませ、あとは帰るのみだ。
小雨が降っている。番傘をさして、目抜き通りを逆方向に歩いていると、とある建物が目に入った。どこもかしこも繁盛している街並みの中で、客の一人もなく、なんだか異様な様相である。好奇心のまま中に入ってみると、くすんだ木箱の中にさまざまの雑貨が入れて置いてある。子ども用の玩具や、古ぼけた茶器、化粧品、草履など、一見してガラクタの山にも見えた。その近くには「ご自由に」と達筆の張り紙。それで風露は在庫処分かしらと思った。少しの間それらを眺めていたが、特にめぼしいものもない。雨の中、荷物が増えるのも億劫だ。何も拾わずに店を出て、本丸への帰路へついた。
世はオール電化である。本丸の設備もすべて電力で賄うことが可能だと説明を受けたが、風露はそれを断った。前任の審神者が大切に使っていたというので、あえて撤去することもないと考えたためだ。
今の本丸は夏の景趣。夕どき、濡れ縁で涼んでいると、なにやら袂に僅かな重みを感じた。はて、何か入っていただろうか。手を突っ込んでみると、鼈甲の櫛が出てくるではないか。
「あれ、この櫛……」
「綺麗だねえ。買ってきたのかい?」
「ううん? 今日は菜種油しか買ってないはず」
思い当たった。確かこれは、例のガラクタの山にあった櫛だ。見るに、大きな傷もない。金蒔絵の施された黒鼈甲は、かなり上等なものであると分かる。新品ならば、値段にして数十万は下らないだろう。しかし、あの雑貨屋ではなにも拾っていないはずだった。青江は意味深に「誘うのが上手だね」と笑った。
「髪梳きだよ」
「かみすき?」
「四谷怪談を知っているかい。あるいは、大商蛭子島は?」
「大商なんちゃらは知らないけど、四谷怪談は分かるよ。お岩さんの話だよね。たしか、夫に毒薬を飲まされて、鏡の前で髪を梳くと、みるみる髪の毛が抜けていく──みたいな」
「うんうん。大商蛭小島も同じく歌舞伎の演目だよ。辰姫は、源氏復興のために恋仲である頼朝と政子の祝言を受け入れるんだ。そうして二人が初枕を交わす夜、姫は激しい嫉妬に苛まれながら一人で髪を梳くのさ」
──黒髪の 結ぼれたる思ひには
とけて寝た夜の 枕とて
一人寝る夜の 仇枕
袖は片敷く 妻ぢゃというて
愚痴な女子の 心も知らず
しんと更けたる 鐘の声
昨夜の夢の 今朝覚めて
ゆかし 懐かし やるせなや
積もると知らで 積もる白雪……
くだんの場面で用いられる長唄だと言う。黒髪のように結ばれた思いは解け、美しかった髪も雪のように白く衰えていくようだ──というようなことらしい。青江の語り口は、おどろおどろしいものだった。さすが女の幽霊を切り捨てた刀、怪談はお手の物だ。
「髪は女の命って言うだろ。お岩の髪は毒で抜け落ち、辰姫の髪は嫉妬で白く衰える。女性の髪梳き≠ェどれだけ強い想念を宿すか、分かったかな?」
「なるほど、櫛は特別な道具なんだね。だけど、どれも恐ろしいというよりは……あっ、ここ、ほんの少し欠けてる」
風露は櫛をじっくり眺めた。この櫛の持ち主がどんな女性だったかは分からない。しかし、物の想いを励起する力を持つのが審神者というものだ。それは何も、刀に限った話ではない。
「悪い気配は感じないけど、油断はいけないよ。君はたやすく共鳴するから、ときに危ない」
青江はにっかり笑って、中へ戻って行った。いつの間にか日は傾き、すっかり薄暗くなっていた。そろそろ夕食だ。風露はハンカチを出して、いわく付きの櫛を丁寧に包み、ひとまずしまっておくことにした。
❀
一夜明けた。
風露は目を覚ますや、枕元に何かを包んだハンカチが置いてあること気がついた。昨日、櫛を包んだのだ。抽斗にしまったはずが、出てきてしまったようだった。しかしこの程度、風露にとっては不思議なことのうちにも入らない。霊現象は昔からの日常茶飯事であり、さらに二十三世紀は刀の付喪神が人の姿をとる時代だ。
「きみが干渉してたんだ。どうりで変な夢を見た」
夢の中で、風露は暗く湿っぽい和室にいた。行灯がそこらに置いてある部屋だ。粗末な敷布団からのっそり身を起こして、小さな窓から外を眺めるのである。しばらくそうしているのだが、やがて身体がしんどくやって、また床に伏せってしまう。心なしか、夢から目覚めてからも、その苦しみの名残があった。
ハンカチから櫛を取り出すと、黒い髪が数本絡まっている。風露の髪は生まれつき黒いが、この櫛は一度も使っていない。一見すると不気味な現象だ。
「悪い気配は感じない」
青江の言を繰り返す。風露自身もそう思う。由緒正しい血筋でもないが、神社の宮司に育てられた身だ。生まれつきの霊感に苦しめられたり、助けられたりしてここまで生きてきたのだ。だから恐ろしくはない。絡まった髪を取って、綺麗にしてからもう一度抽斗へしまった。
二夜明けた。ゆうべの夢では、同じく行灯部屋で、重い体を起こして花街っぽい外の景色を見ていた。途中で窓を離れ、懐から手鏡を出すと、鼈甲の櫛で髪を梳かす。櫛をくれたあの人が迎えに来たときに、綺麗なままでいられるように。起きたとき、櫛にはまた髪が絡まっていたので、取ってやる。こうしておけば、何度でも使えるだろうから。
三夜明けた。今度は、行灯部屋の布団から起き上がれもしなかった。病に回復の見込みはないらしいが、それでも櫛は手放さないのが、想いの強さだった。その念が強まれば強まるほど、髪が絡みつく。起きてから櫛の手入れをしていると、乱藤四郎が「なにそれ?」と目を輝かせた。
「素敵な櫛!」
「この前万事屋から帰ってきたら、ついて来ちゃったみたいで。毎日抽斗から抜け出すから、お手入れしてるんだけどね」
「やんちゃな子だね。外に出たいのかな? それとも、あるじさんに使ってほしいんじゃない?」
女が一人で髪を梳かす髪梳き≠フ場面は──さすがに躊躇われる。風露は「そうかもね」と濁して、また抽斗の中に大切にしまった。なんとなく、その日は遠くもない気がする。
四夜明けた。持ち主はほとんど寝たきりで、最後には髪を梳かすこともできなくなった。このまま眠るように死んでいくのだろうなと分かる。結局、約束の人は迎えに来なかった。櫛には女の想念が宿る。風露は「なるほど」と思った。この櫛は主の代わりに迎えを待っているわけだ。
「主、その櫛は?」
執務室で書類の受け渡しを終えると、一期一振がくだんの櫛を見つけた。先ほど手入れを終えて、机に置いたままにしていたのだ。今朝は髪の毛が絡まっておらず綺麗なままだったが、念のため拭いてやった。
「万事屋へ出かけたときに見つけたの。私について来たから、部屋に置いているんだよ」
「なるほど。羨ましい役目ですな」
「──羨ましい?」
一期一振は何ごともなかったかのように櫛を取って「お借りしても?」と言った。思いもよらない提案だったが、風露はついとっさに頷いた。てっきり自分で使うのかと早とちりしたが、違うらしい。一期は風露の後ろに来て、黒髪に指を通した。
「あっ、私の髪を梳くってこと?」
「せっかくの綺麗な御髪です。使わなくては、互いに損というものでしょう」
今日はたまたま髪を結んでいなかった。丁寧に手入れしてきた上等の櫛が、つつがなく髪を滑る。古風な鏡台には男の姿をした付喪神と、人間の女が映っていた。それは凡そ、この櫛の持ち主が願い焦がれた光景であろうと思う。
「よい品ですな。大事になされよ」
「そうだね。実は彼女の夢を毎晩見たから、私もそれなりに思い入れがあって」
「彼女?」
「一期、この子はきっと女の子だよ。二度と会えない殿方に、恋い焦がれているの」
一期一振が鏡越しに面食らっているのが見えた。しばらく黙っていたかと思うと「お恥ずかしい限りです」と眉を下げて笑っていた。
❀
「櫛の夢を見なくなった」
「やっぱり共鳴していたんだね」
青江は呆れたように言った。主を心配していたようだった。風露が幼いころから、育ての親によくよく言い含められていたことだ。共鳴そのものは悪いことではないが、ひとたび線を越えると、戻って来れなくなるかもしれない。
「でも、まあ、何百年も続いた願いを叶えてもらえるなんて、物としては嬉しい限りだね」
刀剣男士は付喪神だから、青江にはそれがよく分かるらしい。だからこそ、風露を咎めることはしなかった。もし危険なものならば、刀を抜いて斬るのみだ。
「あのね、青江。お岩さんや辰姫の話だけど……実は、あんまり恐ろしいとは思わない」
「そうかい? とっておきの話だったんだけどねえ」
「うん。恐ろしいというよりは、悲しいね」
女が一人で髪を梳かせばやるせない激情を表し、女が男の髪を梳いてやれば愛情を表す。後から調べた話によれば、そういうことらしい。となると、先日のできごとは本来とは逆だったことになる。しかし、細かい話は気にしないでおこうと思った。青江はにっかり笑って「だから、君について来たのさ」と言うのみだった。
2023.07.16 執筆