水からうまれ


「水が嫌いなんだ」

 一期一振が風露からその言葉を引き出すに至ったのは、本丸の運営を始めて実に半年後だった。
 縁側から見える庭園には、大きな池がある。桜の花弁がこぼれ、絹糸のような雨に揺れ、灼熱の陽光に照り、そして今は友禅染のようは紅の落葉を浮かべている。その風景は歌仙兼定をして風流と言わしむ代物であり、季節の移ろいを楽しむには十分だった。ただ一人、風露を措いては。

「それは……初耳ですな」
「言ってないからね」

 風露は笑う。脈絡のない切り出し方だった。珍しく庭園の見える縁側に来て、短刀たちが庭で遊ぶのを漫然と眺めながら、その兄とふたり茶を嗜む。秋晴れの今日にふさわしいのどかな無言が続いたと思ったら、風露がそれを打ち破って告げた。

「昔、川で溺れたことがあるの。まだ五つにも満たないころのことだけど、私は忘れない」

 何かに背を押されて、橋の下へ落ちた。まず、水底の岩に身体が擦れて怪我をした。流されまいと何度も岩へかきついたが、爪が剥がれ、指先が抉れ、意味をなさない。幼くまろい手足は、川の流れに抗えず、体力だけが奪われる。体温は下がり、押し寄せる死の波に気を失い──気がついたときには、どういうわけか助かっていた。そういうようなことを、風露は語る。どこか生々しい語り口だった。

「水を見るとそのことを思い出すから、嫌なんだよね」
「つまり、怖いのですか」
「怖いよ。呆れるくらいに」

 風露の口ぶりはなんでもなさそうなものだ。風に揺れる水面を眺めるその目は、対照的にひたすら凪いでいた。そこに恐怖や不安を物語るほどの饒舌さはなく、ただ途方もない心細さだけがある。風露はいつもこんな調子で、あからさまに感情を表には出さず、自らのことを話さない。その口が他者に恐怖を語るというだけでも、かなり珍しい。

「ならば、池を埋めてしまうわけにはいかんのですか。この本丸は主のものです。無理な行軍をしろというのでもなし、誰もあなたを咎めはしません」
「埋める? なるほど、その手があったんだ」

 なぜか、こんな簡単なことを、今初めて考えついたという反応だった。

「そうは思い至らなかった。一期一振は賢いね」
「はあ、そうでしょうか。そこまで意外性のある案ではないように思いますが。私はてっきり、以前におっしゃっていた前任者への義理というものかと」
「これに限っては、違うかな」

 そもそもこの本丸を引き継いだことも、もっと遡れば審神者になろうと決意したことでさえ、風露は前任者への義理を通したのだと言っていた。そうでもなければ、恐怖から逃げたいと思わないのは、人間の本能にそぐわない。

「では、なぜ」
「そう聞かれると説明しづらいんだけどね。ただ、私は水が怖くて、嫌いで──あ、そうそう、もっとふさわしい言葉が見つかったよ」

 風露はやはりなんでもなさそうに呟いた──「虚しいんだ」と。呟いて、茶を舐めた。

「あの水の底に、なんだか私の落としものがある気がする。たぶん、ないけど。だから怖くても、埋めるなんて思いつきもしなかったんだ」
「落としものですか」
「うん。大切だったのに、落としちゃった」
「おや、思いのほか、うかつなところがおありだ」

 それに、矛盾している。冥く無情な水底を忌み嫌いながら、同時に惹きつけられてもいる。一期一振はこのとき初めて、風露という女のいびつさを沁み入るように実感した。この不完全でおぼつかない、嫌になるほどの激情を抱えて、人の世を生きてきたのだ。今日、その一端を見た。

「主も人の子ですな」
「……そう見える?」
「ええ、見えますとも」

 風が吹いた。射干玉の黒髪が揺れる。落ち葉がざあっと乾いた音を立て、池の水面が波打つ。風露はくすぐったそうに肩をすくめて、くすくすと笑った。嬉しそうでもあり、あるいはなにか諦めたようでもあった。

「あなたの笑顔を、初めて見た」
「えっ? 嘘だ。けっこう笑ってるよ、私は」
「自分がどんな顔をしているかというのは、案外自分では分からんものですよ」
「そうかなあ。そうかもね」

 おうい、と庭から呼びかける短刀たちに、手を振り返す。風露も真似して、白魚のような手をひらひらと揺らした。

「それで、主、あの池はどうします。埋めますか」
「ううん。埋めない。そのほうがいい」

 変わらず、金色の双眸が水面を眺める。一期一振は穏やかな心地で、風露のなめらかな横顔を見ていた。それからというもの、あの池は埋められることも移動させられることもなく、ただ庭の真ん中にあっては、四季折々の風雅を水面に映しているのだ。

2025.03.31 執筆