序の幕・音なき夜明け
爛れた赤が空に滲んで、ようよう夜も明く頃、二人の女が一隻の舟を雇って本土を旅立った。行き先は丹後沖に浮かぶ小さな孤島、地図にも載らず、名前すらもない無人島だ。
「奇策士さん。疑問なんですけど、なあんにもない鄙びた無人島へ行くのに、本当に護衛が必要なんですか?」
おかしげに首を傾げる女は、名を瀬音という。清廉と可憐を主題に据えた美人画があるとすれば、そこにはまさに瀬音のような女が描かれているだろう。世の荒波を知らず、ただきゃらきゃらと笑っているのが似合うような女だ。お気楽そうに間延びした喋りかたで、とにかく人畜無害の四文字がぴったりだった。そんな印象に反して腰には太刀を佩いた女剣士なのだが、どうもその刀が異様である。異様というのは、刀そのものの話ではない。むしろ、あるいは見る人が見れば上等のものだと分かるような逸品だ。しかし、鞘から柄にかけて、抜刀を封じるかのように紐で結ばれているのだ。当の持ち主はこれを気にしたふうでもなく、不便そうにするでもなく、これで当然というような態度であった。
「何もなければ、わたしがここまでするものか」
奇策士と呼ばれたもう一人の女が、瀬音の質問をひとことで突っぱねた。彼女はいかにも清楚な瀬音とは打って変わり、かなり目立つ風貌だ。若い顔つきにそぐわぬ白髪、そして華美で装飾過多な装い。どこをとっても、瀬音とは正反対と言える。見るからに変わり者の彼女の名はとがめといい、見た目どおりに変わった名前だった。瀬音ととがめ。この二人の関係は上司と部下のようなものに近く、現在においては護衛されるほうと、護衛するほうであった。
「というか、そもそも無人島ではない。二十年前から、あの島には人が住んでおる」
「えっ、そうなんですか。あんな小さな島に?」
「うむ。まあ、そなたになら事情を話しておいて問題ないだろう──瀬音。先の大乱のことは存じているかな」
とがめは船頭を一瞥し、淀まず話し始めた。
先の大乱。日本に生きるものならば、この言葉が指す出来事を知らぬ者はいない。太平の世に突如として巻き起こった、惨憺たる大戦乱である。全国各地に被害を及ぼしたこの大乱は、なんとたった一人の首謀者により企てられたものだった。
「もちろん。あ、でも、当事者って意味では、二十年も前のことなので、あんまり覚えてないです」
「それで構わん。とにかく、その大乱を鎮めた虚刀流の存在は聞いたことがあるな? 当主の名は鑢六枝といって、はじめは英雄だなんだと言われていたのだが、妻殺しの嫌疑をかけられ、家族もろともに島流しに遭ったのだ。その流刑地こそが──」
「あの島ですか」
「さよう。こたび、わたしは虚刀流に用がある」
「へー、じゃあわたし、虚刀流に会えるんだ」
虚しい刀の流れと書いて虚刀流。それは今や耳慣れぬ名だが、瀬音も一端の剣士として聞き覚えがあった。なにしろそれは、刀を使わない剣法なのだ。あくまで拳法ではない。存在そのものが矛盾にして無類、禁忌じみた強さ。その当主がたった一人で大乱を鎮めたという話である。しかし使い手は二十年前に忽然と姿を消し、真相は歴史の闇に葬られた──というのが定説だ。
「無刀の殺人剣ですね。それくらいしか知りません」
「それが当然だ。門外不出の流派だからな」
「虚刀流に会ったら、用心棒にでもするつもりですか? 正直、腕に覚えのある剣士だったら、本土にいる人たちで事足りると思うんですけど」
「いいや、駄目だ。今回ばかりは、そこいらの剣士では役者不足なのだ。……しかし瀬音。事情を話すと言っておいてすまないが、込み入った話はできれば到着してからのほうが望ましい」
とがめは少し声を落として言った。どうやら相当な警戒を払っているらしく、船を漕ぐ船頭に聞かれることを気にしているらしい。それで、瀬音もなんとなく似た声色を作って「了解です」と返した。
「なんにせよ、がぜん楽しみです。刀を使わない剣士だなんて、いったいどんな人なんだろう」
「さてな。それを知ったとて、そなたにはあまり関係ないことだ。というより、関係ないからこそこうして護衛を任せたのだが──むっ、見ろ、瀬音!」
とがめはふいに顔を上げ、進行方向の水平線を指差した。見れば、空を切り取る大きな島影が見える。あれが目的地の無人島──住民である虚刀流の言い方では不承島らしかった。
日ノ本の果て、不承島。この地に無刀の流派眠れり。空は高く晴れ、雲ひとつなかった。