周囲の変化や、他人の感情の機微に聡い訳ではない。
とはいえ、今日に限っては幼馴染みの言動が不審過ぎた。
「青峰くん、今夜は出掛けないでね!絶対!ぜーったいだよ!」
出掛けたらおばさんのお金で写真集買ったの言いつけるからね!
無神経に部屋の扉を開けた桃井は、口を挟む隙を与えず言い放った。
明け方近くまで起きていた青峰が何拍も遅れて意味を理解した時には、桃井は既に立ち去っていた。
幼馴染みながらの間の取り方は見事である。
桃色の残像を追い、ベッドの上でぼんやりしている内に、青峰は再び眠りに落ちていた。
目が覚めたのは昼もとうに過ぎた14時だった。
空腹のままに台所を漁り、残っていたカップ麺にお湯を注ぐ。
テレビをつけ、適当にチャンネルを回しながら待つこと3分。
口に入れた麺はまだ固かった。
「うげ、5分のやつかよ…」
舌を打ち、外してしまった蓋の代わりに近くに置いてあった雑誌を被せたところで、漸く異変に気がついた。
何故、自分は悠々とカップ麺の出来上がりを待てているのか。
いつもなら桃井がギャアギャアと口喧しく、練習への参加を促しているのに。
朧気な記憶ながら、朝、起こしに来たのは覚えている。
しかし、その時も練習については何も言わなかった。
惰性で持ち歩いているケータイを見るも、桃井からの鬼のような着信履歴は残っていない。
たった一度、それも部屋から出て数分も経たない内に掛けてきているだけだった。
明らかに可笑しい。
妙だ。
良からぬ事が起きる予感がする。
「うっげ!伸びちまった!」
チクショウ、と悪態をつきながら麺を啜る。
背に腹はかえられない。
何せ、家に残っていた唯一の食料だ。
ズルズルと音を立て、飲み込む。
次第に腹は満たされていったが、形容しがたい不安は増すばかり。
「…今夜、何かあんのか?」
高校生になっても桃井家、青峰家が揃って夕食を共にすることは珍しくない。
だがそれは、1週間も2週間も前から母親に予定を明けておくように念押しされる。
この線ではない。
では何だ。
考えてもまったく分からない。
写真集の件を持ち出されなければ、こんな意味の分からない指示など、従うことなく無視するのに。
「やぁ、青峰。息災かい?…あ、息災の意味が分からないか」
やはり、無視しておけば良かった。
青峰がそう後悔したのは、夕方になってから。
名前からの電話を受けてからのことだった。
迂闊にも、相手を確かめもせずに出た結果、青峰の背筋は強制的に伸ばされた。
「何でアンタが…」
「アンタ?」
「…何すか急に」
「大抵の場合、電話は急にするものでしょう?」
「そういう意味じゃねぇよ」
「桃井の家に行きたいんだけど、そもそも私、あの子の家知らないのよね。連絡しても繋がらないし。青峰、ちょっと迎えに来て」
「あ"?何で俺が!」
「そういえば、中学時代は本屋に寄り付きもしなかったのに写真集とはいえ、税別2800円も本に出すようになったなんて成長したわね」
「──なっ!?」
何で知っていると言いかけて、瞬時に理解した。
桃井の密告だ。
名前に知られたところで恥じる思いは欠けらもないが、回り回って母親の耳に入れば酷い目に遭うのは自分だ。
渋々、1人部屋着パーティーをお開きにし、名前を迎えに出る。
合流場所として指定されたのは帝光中の表門だった。
「んだよ、その荷物…」
「見た目ほど重くないよ。でも嵩張って邪魔だから持って」
ぱんぱんに膨れたリュックサックを押し付けられ、致し方なく持つ。
名前の言う通り、ほとんど重みを感じない。
片側の肩に掛けると中からシャカシャカキュッキュッと音が鳴る。
「何入ってんだ?」
「口の利き方がなってない。やり直し」
「…何入ってるんデスカ」
「お土産。中身は後のお楽しみ。こっちはシュークリームとプレゼント。これから1日早い誕生日会をするんだよ」
もちろん、青峰も一緒に。
名前は目を三日月に細め、実に楽しそうに笑った。
呆れるほどつまらぬ種明かし。
今朝の幼馴染みの挙動不審は、ただ単に浮かれていただけのことだった。
ゴールデンウィークの中日。
5月4日。
青峰は毎年、その日の夜は決まって桃井家のリビングでケーキを食べている。
「さつきのヤツ、一気に2つも歳取る気かよ」
警戒して損したとぼやく青峰の横で名前は思った。
ちゃんと当日も祝ってやるつもりでいるのだな、と。
どんなに捻くれても、桃井のことを突き放しきれないのは青峰の優しさであり、甘えの表れだ。
それを察せというのは、兄弟のいない桃井には無理難題もいいところ。
姉弟のような幼馴染みと兄弟とは違う。
もしも祥吾がおらず、幼い時から宮城で暮らしていたら、京谷と名前の関係は桃井と青峰のそれに近いものになっていたはずだ。
とはいえ、京谷はフィジカルに恵まれてはいても天才ではないし、名前の来る者拒んで去る者追わずの対人スキルでは、問題の種すら蒔かれない。
つまるところ、青峰と桃井だからこそ引き込んだ事態なのだった。
「名前先輩!会いたかったです!」
青峰の案内のもと、桃井家へと向かうと本日の主役は家の前で今か今かと待ち受けていた。
眼中にすら無いのか、立ちはだかっていた青峰を押し退け、名前に勢い良く抱きつく。
ぎゅうぎゅうと締め上げるかのような激しい歓迎を、軽く背を撫でて落ち着かせる。
青峰に荷物すべてを預けていて良かった。
然もなくば今頃、桃井も名前もクリームに塗れていたことだろう。
切りが無いと退屈がった青峰に促され、揃って中へと入る。
誰の靴も出ていない整頓された玄関と、気配の無さで桃井の両親の不在に気付いた名前に、青峰が囁いた。
桃井の両親は親バカで、毎年、一人娘の誕生日に全休を取るために前日は遅くまで働いて後顧の憂いをなくしてくるのだと。
名前は青峰の口から「後顧の憂い」などという言葉を聞くとはと驚いたものの、青峰イチオシの堀北マイが最近、事務所を立ち上げたことを思い出し、納得した。
男は官能小説やら、グラドルのインタビュー記事などで語彙を増やす、というのは名前の兄の談である。
「…ん?ということは桃井、夕食は?」
「あ、えっと、パスタがあります!私、頑張って作ります!」
「却下」
「やめろ」
「ソースはお母さんが作ってくれてるから、後はパスタ茹でるだけだもん。それくらいできるよ!」
「素麺を塩水で茹でて吹きこぼしたくせに」
「何年前の話してるの!?」
「なら私がやろうかな」
「お客さんにそんなことさせられないです…!」
「気にしなくてもいいのに。あ、戸棚にシーチキンがあるね。あれと、レタスちょこっととキュウリがあればサラダが作れるよ、青峰」
「は?」
「青峰くん、冷蔵庫にどっちもあったから出しとくね」
「良かったじゃない。これで準備万端だ。邪魔にならないように私と桃井はこっちで見てるから。あと宜しく」
名前の指示で動く桃井の姿は2年前の体育館でよく見られた光景だった。
もうすっかり忘れてしまっていたのに、いざ2人が並んでいると懐かしく感じる。
青峰が如何にバスケ以外のことに疎くとも、最低限、情緒くらいは備わっている。
本来であれば喜ぶべきことだが、不幸にも今回はそれが付け入られる隙となった。
強制的に始まった桃井家でのパスタ作り、かっこ1人でできるもん篇かっことじ。
青峰の受難はここからが本番だった。
prev /
next
back