現在、5時18分。
バスを降りた名前は、ポケットというポケットを探り、そうして、遠く宮城の地に思いを馳せた。
「鍵忘れた…」
こんな時間にインターフォンを鳴らそうものなら、夜勤明けの母の不興を買うのは間違いない。
兄は起きていたが、神奈川から鍵を持ってきてもらう頃には流石の母も起床している。
弟は静岡。
寄る辺のない身の何と心細いことか。
朝の空気に懐具合も相俟って寒々しい。
いつまでも駅に居るわけにもいかず、ひとまず自宅近くのマジバに行くことにした。
とうに始発も動き出し、人のまばらな店内で窓際の広いボックス席に腰掛ける。
空きっ腹で欲望のままにパンケーキとハッシュドポテトとシェイクを頼んだが、目の前に並ぶと食べたくなくなる。
3品をそれぞれ睨み、冷めたら1番美味しくなくなるポテトに手をつけた。
あるあるで、口にさえ入れてしまえば食欲が戻ってきた。
しょっぱいポテト、甘いパンケーキ、しょっぱいポテト、甘いシェイク、しょっぱいポテト、エンドモア。
名前が誰に咎められることもなく、デブへの黄金ロードを突っ走っている間に、視界の端を同じ制服の生徒が何人も通り過ぎていった。
東京に残っていたら袖を通していただろう、誠凛高校の制服を見て、ふと黒子のことを思い出した。
3月末、黒子は誠凛への進学を報告してきていた。
どう返せばいいか分からなかった。
だから、返信はしなかった。
「何がどうなってバスケをやる気になったのやら」
「こんな所でこんな時間に何してるんですか」
漏らした独り言が、誰かの声と重なる。
窓の先から視線を移すと、Lサイズの容器を机に叩きつけるように置いた黒子が居た。
名前が何かを言う前に向かいへと腰掛ける。
「家に帰れなくて」
「家出少女の常套句ですね。早急にお巡りさんの保護が必要です」
「交番まで連れてってくれるの?」
「貴方が望むなら、これを飲み終えたら連れて行きますよ」
名前をじっと見つめたまま、ストローに口をつける。
黒子は、この容器が空にならないことを分かっていて買った。
シェイクのLなんて飲みきれるはずがない。
しかも朝だ。
とても胃が受け付けない。
そもそもシェイクのためではなく、部活のために家を出てきたのであって、買う気など更々なかった。
窓際の席に座っている名前さえ居なければ素通りしていた。
名前が居たから、食べ終えそうな名前を引き留めたかったから、わざわざLサイズを買ったのだ。
名前は同席者が食べ終えるまで席を立たない。
会話における配慮は欠けているのに、そういう妙なところでは律儀な人間だった。
「…お久しぶりです」
「うん、久しぶり。元気にしてた?」
「はい。灰崎先輩もお元気そうで何よりです」
「……。」
「……。」
「……Hi! How are you?」
「話題が見つからないからって、英語で同じやり取りしようとしないでください」
「冷たいなぁ。なら早く用件を話してよ」
「…冷たいですね。僕たちは『ずっせんこう』じゃないですか」
「……『ずっと先輩後輩』?」
「はい」
「響きが気に入った。特許権くれる?」
「元より使用料フリーなので、くまモンと同レベルでお使いください」
オチがついたところで、仕切り直し。
黒子はおもむろに頭を下げた。
続けざまに出てきたのは、すみませんでした、という謝罪の言葉。
名前にはそれが一体、何に対するものなのか理解できなかった。
半身の土下座のような姿を眺め、思考を巡らせた結果、親指でぐいぐいと旋毛を押すという行動に出た。
「君の旋毛をまた見られるとは思わなかったよ」
ついと目を細め、笑う。
不満げに顔を上げた黒子も、それにつられて微かに笑みを溢した。
──カシャリ。
名前は透かさず撮る。
「君と私は『ずっせんこう』だ。なら、お願いの1つや2つは聞いてくれるね?」
有無も言わさず、黒子のシェイクをトレーに乗せ、端へと寄せた。
机を軽く拭き、鞄の中からある物を差し出すと、黒子も合点が行ったらしい。
可愛らしい装飾の囲いの中に、素っ気ない真っ黒のボールペンで綴る。
時折、小首を傾げては間違いの無いよう、慎重に連ねていく様を、名前は今一度カメラに収め、満足げに頷いた。
それから間もなく黒子と別れ、帰宅した名前は母と短い再会を果たした後、すぐに繁華街に向かった。
盆暮れ正月は宮城に集まっていたので、名前が東京の地を踏んだのは1年振りだった。
都会は店の入れ替わりが激しい。
雑貨屋がアパレル店になる程度なら受け入れられたが、ケーキ屋がラーメン屋に変貌していたことには動揺を隠しきれなかった。
ラーメン屋。
しかも豚骨。
挙げ句に従業員の顔触れは同じ。
一体、何があったと問い質したくなったが、そんなことのためだけに店内に行くのは憚られる。
覚えていたら桃井に訊こうと踵を返し、横道へと逸れた。
文明の利器に頼らなければ、買い物も満足にできないと分かったからだ。
落ち着いてケータイをいじるために、迷い無い足取りで細道を進む。
先には、虹村に何度も引っ張り込まれたストバス場が広がっていた。
休日で集まった親子連れの賑やかさから最も離れたベンチに腰掛ける。
前方右奥には、威風堂々とした建物が見える。
位置的に帝光中のはずだが、懐かしさを感じない。
ここは、この景色は、何1つ変わっていないと思った。
だが、よくよく見ればベンチの数が増え、ゴールも新しくなっている。
校舎の壁も、オフホワイトからパールベージュに塗り替えられている。
まったく変わらないなんて土台、無理な話なのだろう。
寂寞で瞳が潤むほどの思い入れはない。
それでも、どこか物悲しい気分にさせられる。
「自分で思ってるより、好きだったんだ…」
自覚した途端、無性に虹村に会いたくなった。
面倒ばかりかけて悪かったと笑った虹村に、それだけでは無かったと伝えたくなった。
無意識ながら打ち込んだ電話番号は、今ではもう繋がらない。
虹村は維持費をかけるくらいなら入院費や生活費に回すと、あっさり解約して旅立った。
電話番号もメールアドレスも、覚えてしまうくらいやり取りしたのに、その繋がりは一方的にぷつりと切られてしまったのだ。
もはや連絡を取ることなど忘却の彼方へと飛んでいた名前の元に、虹村から何の前触れもなくカードが届いたのは今年の1月のことだ。
「Marry Christmas and Happy New Year !!」と印字された、明らかにクリスマスカードを年賀状へと転用したそれには、「謹賀新年、今年も宜しく」とぶっきらぼうな字が書かれていた。
名前は言葉が出なかった。
何の近況も書かれていない。
これが船だか飛行機だかで、時差の17時間を飛び越えて延々と渡ってきたかと思うと、いっそ涙が出そうだった。
虹村修造は、てっぺんから爪先まで、丸っとすべて、完膚無きまでに自分本位な男だ。
3年の付き合いは伊達じゃない。
重々、分かっていた。
分かっていたが、これはあまりにも名前の気持ちを蔑ろにする所行だった。
気安く顔を見ることも、声を聴くこともできなくなったのに、テンプレートの文言のみ送り付けてくるとは何事か。
腹に据えかね、名前は余っていたバースデーカードに新年の挨拶を書いて送り付けた。
住所。
現在、虹村について名前が知っているのは、ただそれだけだった。
「あー…やめよう。不毛だ」
今日の1番の目的と虹村は何の関係もない。
頭を振ってネットを起動する。
検索ワードは「バスグッズ」だ。
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