しかしながらその計画は、本屋を訪れてものの数秒というところで頓挫した。

「もー!連絡つかないと思ったらそういうこと?」
「そういうことだね」
「信じらんない!いくらお互い沢山いる中の1人だからって都内離れるなら一言くらいあってもいいじゃん!お姉ちゃんもそう思うよね!?」
「お姉ちゃんは沢山を相手にする気力も体力も無いので分かりません」
「やだぁ、私だって1回に何人もは無理だよ!」

お姉ちゃんのエッチ!とやけにスナップを利かせた平手打ちを肩に受け、よろける名前。
その様を大袈裟だと笑う彼女に絡まれてから、一体どれほど経ったのか。
雑誌コーナーを通り過ぎたところで突然、腕を取られ、見覚えのない少女に弟のことを訊かれた名前の心情はただただ外出したことを悔やむものだった。
平素より遥かに早い言葉を拾うにつれ、名前は朧気ながら彼女のことを思い出した。
彼女とはこれまでに2回、顔を合わせている。
1回目は祥吾の彼女になった日。
これは、祥吾が一方的に別れを告げた相手が腹癒せに名前を殴り、それにキレた虹村が祥吾をボコボコにし、その虹村が名前に1週間無視されるという誰も得をしない事件が起きてからできた面通しという儀式によるものだ。
これをし始めてから、祥吾に絡む不良の悪口レパートリーに「シスコン」が増えたが、問答無用に拳で黙らせていた。
名前と虹村が卒業しても、帝光在学中は継続した祥吾の妙な真面目さは、幸か不幸か今のところ2人以外の誰にも見られていない。
大抵はこの1回きりで、特に言葉を交わすこともないのだが、彼女は唯一の例外だった。
経緯も、彼女の名前も、名前は露程にも思い出せないが、ダブルデートのような状態でかき氷をつついた記憶はある。
しかしそれは、こんなにも馴れ馴れしくされる謂われにはならないはず。
ここで名前は一種の啓示を受ける。
──これがコミュ力、カンストということか。
未だ閉じられることなく、動き続ける口元を眺めて感心していると、後ろから声が掛かった。

「灰崎?ここ本屋やで?」

名前には、この訛り言葉を自動で翻訳する機能が備わっている。
この場合は迷惑だから話すなら喫茶店にでも行け、である。
なんとも八ツ橋に包んだような表現だが、このような物言いをする人間を名前は2人知っている。

「わ、カッコいい人!好みじゃないけど!え、誰?お姉ちゃんの彼氏?」
「あの人は彼氏じゃない。なんと言うか……微妙な相手で」
「微妙?微妙って何?あ、恋人未満ってやつ?」

この時ばかりは、名前も己の伝達能力の低さを呪った。
そして、なら今からデート行きなよ!と背を押され、勢い余って声を掛けてきた男の腕の中に収まってしまったことに絶望した。

「ほな、お言葉に甘えて貰ってくわ」

腕を回され、強制的に本屋から連れ出される。
店外に出れば解放されるという予想は大きく外れ、ずるずると近くの公園まで引き摺られた。
図ったかのように空いていた2人掛けのベンチに座り、向き合う。
ここで漸く、名前は彼のご尊顔を拝むことと相成った。

「ワシらはいつからそない青春真っ只中の甘酸っぱい関係になったんやっけ?」
「記憶にございません」
「やろうな。ワシの記憶にも無いわ」
「本屋に用があったんじゃないんですか?」
「大した用やない。妹の使いで雑誌買おうとしただけやから気にせんでええで」
「……スポドリとお茶、どっちがいいですか」
「コーヒー」

対人関係においてドライな質の2人がこういう状況に陥ると、奢ることにも奢られることにも躊躇いがない。
互いに御免と赦免の関係になるのを避けるための必要経費といった認識なのだろう。
おおきにドーモ、と軽薄な礼に物申すこと無く、名前は自分用に買った紅茶を呷る。

「で、何か用ですか?」

今吉という男は殊の外、愉快なことが好きだが、その実、当事者になることを好まない。 
それがこうして留まっているとなれば、他に目的があるのは容易に推察できる。

「今年、うちは青峰と桃井を獲った」
「おや、相手がこれっぽっちも興味が持てない話題振りとは今吉さんらしくありませんね」
「それが本心なんやったら、自分をこの場から解放するのもやぶさかでないんやけどなぁ」
「…桃井の情報網は相変わらずのようで」
「ほな、マネ復帰って話はホンマなんや?」
「今のところ、そのつもりはないです。ただ、以前のようにゼロとは言い切れませんね。うちの部員にバレちゃったんで」
「なんや、猫被りは1年しか持たへんかったんかい。その辺りは花宮に軍配が上がるわな」
「まこまこのアレは意外と雑なんですよ?」
「なんやその呼び方」
「いつでも嫌がらせで呼べるように頭と口を慣らしているところです」
「さよか」

こんなことならもっと真剣に勧誘しとくんやった、と溢す今吉に名前はうっそりとした笑みで返す。
どんな誘い文句を並べられようと、名前が桐皇に進学することは有り得ない未来だった。
名前の地頭的には何の問題もない。
それこそ、有数の進学校である秀徳だろうと、悠々と一般試験をパスできる能力を持っている。
しかし、名前は脇目も振らずに新設校である誠凛に進学を決めた。
弟である祥吾との高校生活を送れる可能性を僅かながら、それでいて最大限に残すには、むしろ誠凛以外は有り得なかったのだ。
数多ある中からわざわざ新設校を選ぶのは、進学に特にこだわりが無い地元民か、緩い審査基準に縋る馬鹿か、どこかしらで対人関係に蟠りを抱える阿呆と相場が決まっている。
祥吾は物の見事にすべてに該当していた。
ここしかない。
名前はこの選択にそこはかとない自信を持っていた。
そのため、首都圏ですらない他県に進学が決まった時は3日ほど食欲が落ちたが、今はもう割り切っている。
黒子の姿を認めるたびに祥吾を思い浮かべてしまうのも、数日中には落ち着くだろう。

「祈っていてください。私がドリンクを作らずに済むように」
「祈っとるわ。殺人ドリンクで尽く部員を倒してくれるように」
「…やっぱり逃げられませんかね」
「桃井の予想、聞きたいか?」

今吉の目と口が弧を描く。
名前はその様を首を振ることで視界から追いやった。
既に聞かされたようなものである。

「静岡に引っ越したい…」

最早、口癖になりつつある名前の本音を、本気で受け止めてくれる人間は、悲しいかな、ただの1人も居ないのだった。


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