及川徹は自他共に認めるモテ男である。
付き合いたいと夢見る女子もいれば、ただひたすらに観賞用として愛でる女子もいる。
生まれ持った整った顔立ちと柔和な態度を掛け合わせれば、コロリと恋に落ちてくれる。
そうと知っているから、及川の女子への対応はドミノ倒しのような単純作業だった。
誰も不満を言わない。
何故なら、及川徹はそういう人間なのだと思っているから。

「どうして平気で笑ってられるの?」
「及川にとって大したことじゃなかったのかもしれないけど、私たちにとっては違ったんだよ」
「アンタがどんなに努力してようと、結果を出そうと、そのすべてを否定する」

ーー許さない、と。
明確な敵意を持って、及川と相対する女子が青葉城西高校には3人いる。
こちらが朗らかに微笑んでみても、彼女たちの顔は歪むばかり。
それどころか、呪詛のように念のこもった暴言を吐かれる。
大勢の中のたった3人。
それは少なからず及川に好意を寄せる女子たちの、恰好の悪口の対象となった。

「女の子には穏やかに笑っていてほしいなぁ」

及川は彼女たちの悪口を耳にするたび、そう呟くように言ってさり気なく諫めた。
不快に思わないのかと友人に尋ねられても、この世の女子がすべて自分の物になってもいいのかと冗談で返した。
及川にはこの3人に負い目があった。
否、正確には此処にいないもう1人の女子に対して。
その容貌も人となりも朧気で、幽霊のように記憶の中で揺蕩う存在に成り果ててしまったけれど、決して消えてはくれない。
苗字名前という名前と、鍵盤の上を滑る指先の動き。

「実はピアノよりもギターの方が得意なの」

そして抑揚の幅の狭い、落ち着いた囁き声。
中学校1年生の時、及川は率先して手を挙げ、合唱コンクールの指揮者になった。
目立ちたがり屋め、と岩泉に蔑まれたものの、指揮棒を振るってみたい衝動に突き動かされていた及川には、取るに足りないことだった。
当時、クラスにピアノが弾けるのは名前しかおらず、ほぼ強制的に名前が伴奏を担当することになった。
楽譜の読めない及川は、部活がオフの日の度に名前を巻き込み、指揮の練習をした。
良し悪しなどはさっぱりだったが、他クラスの生徒は、やや自己主張の激しい弾き方のように感じた。
聞け、と迫られているような気さえする。
その点、名前のピアノは良い意味で個がなかった。
音の強弱、緩急、どれもきちんとあるのに耳に残らない。
けれど、自然と歌いたくなるのだ。
ピアノに合わせ、男性パートとソプラノパートが重なる。
声が音に乗るというのはこういうことなのだと初めて体感し、らしくもなく震えた。
この感覚をクラスの皆と共有したい。
この感動を学校全体に伝えたい。
そのためには1位にならなければ。
元来、負けず嫌いなタチではあったが、金賞への執着心は、後の2年とは比べものにならない程だった。
それが思わぬ形で名前に飛び火しているのに気づいたのは、合唱コンクールを来週に控え、追い込み期間になってからのことだ。

「苗字さんさ、もっとピアノ大きく鳴らして。って言うか、むしろずっとフォルテでいいよ」
「え、どうして?」
「あのね、アルトもそうだけど特に男子が声出てないから、ピアノの音が大きくなったら出るんじゃないかな、と思って」
「あ、それからこの辺の音取りにくいからこの音、特に鳴らしてくれる?」

口々に勝手なことを言うクラスメートに怒りが沸いた。
扉越しで誰かは分からないが、具体的な注文をつけているところから、楽譜の読める吹奏楽部かコーラス部だろうと当たりをつける。
彼女たちは名前のピアノを聞いて何も感じなかったのか、と失望感も相俟って室内に乱入しようとしたが、ある一言に息が詰まって動けなくなった。

「及川くん、指揮頑張ってるし苗字さんも頑張って」

ああ、またか。
そう結論づけると、反射的に踵を返した。
足音が響いてしまっているかもしれないが、その場に佇み続ける勇気はなかった。
中学生になり、及川の周囲からガールフレンド以外の女子は離れていった。
同じ小学校の、それなりに仲が良かったはずの子まで、皆等しく、及川を遠巻きに見るようになった。
放課後、気負うことなく会話に付き合ってくれていたから、すっかり忘失していた。
ーー名前もまた、離れていった内の1人だったということを。
浮かれていた。
正にこの一言に尽きる。

「徹は名前が好きなんだろ!」
「こないだ手繋いでるの見たぞ!」

雨上がりの放課後。
4年2組の教室で囃し立てられ、慌てて否定したのを覚えている。
当時の及川は、別に名前のことが好きだったわけではない。
手を繋いでいた、というのも転んだ名前に差し伸べ、握られた瞬間を切り取られただけで何の疚しさもない。
けれど、胸の内に秘めていたものを暴かれるような、そんな思いがした。

「好きなわけ無いじゃん!」

岩泉であれば、これが照れ隠しにも似た言い訳だと気が付いただろう。
及川自身が知らぬ内に育てていた、異性への好意にもまた同様に。
しかし、そこに居たのは岩泉ではない。
興味本位で口出ししてきたクラスメートだ。
からかいながらも額面通りに受け止め、その挙げ句、名前に伝えたらしい。
詰まらぬネタ明かしをすると、このクラスメートの内の1人が、名前のことを好きだったのだ。
及川の言葉が改悪され、名前の耳に入ったと知ったのは、あのやり取りから数日が過ぎた頃のこと。

「アンタ何様よ!名前は、アンタのことなんてちっとも気にかけてなんかないんだから!その辺の砂利みたいな奴が、わざわざ人使って名前のこと嫌いとか言ってくんなバーカ!」

500回死ね!と他クラスの女子に罵られ、及川は言葉を失った。
ちやほやされて育ち、罵倒するのはもっぱら岩泉くらいの甘々な世界の住人だった及川は、当然、死ねと言われたのは初めてだった。
その単語の鋭さが胸を突き、彼女の言い分を理解するにまで至らない。
結果、過度のストレスでふらりと倒れ、及川は学校を早退した。
皆勤賞を逃す原因となった彼女ーー浮橋なごみは、この時から徹頭徹尾、余すことなく及川へと敵意を向けている。
それは勿論、同じ高校に進学し、クラスメートとなった今でも微塵も変わらない。


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