浮橋なごみは自他共に認めるギャルである。
中には彼女をヤンキーと称する者もいるが、浮橋はそれを強く否定する。
曰く、飲酒喫煙万引きその他、如何なるアウトローな所業もしたことがないだとか。
曰く、殴り合いの喧嘩は家庭内でしかしていないだとか。
とにもかくにも、浮橋の自己評価はただのギャルなのだった。
そんな浮橋には嫌いな人間が山のようにいる。
クチャクチャと音を立てて食べる人、ポイ捨てをする人、順番を守らない人、お礼と謝罪が言えない人、身なりに気を使わない人、エトセトラ。
挙げだしたらキリが無い。
では好きな人間は、と問い掛けるとこれが驚くほど少ない。
あくまでも常識的な範囲の嗜好であるはずが、浮橋が他者を減点方式で評価するせいで、この体たらく。
だがそれゆえ、名前が如何に貴重な存在なのかが浮き彫りになる。

「私、自分の気持ちは自分で伝えられるよ」

思えば、名前は早熟な子どもだった。
所謂、ませた子どもという訳ではなく、他者の気持ちを推し量り、自分の本意でないことにも礼を言えるような、そんな子どもだった。
人伝に嫌いと伝えてきたことへの怒りに震え、及川へと噛みついたのを武勇伝のように語る浮橋に名前はありがとう、と告げた後、でもね、と続けた。
浮橋は途端に恥ずかしくなった。
名前を自分の都合の良いお人形扱いしていることに気付いたからだ。
好きな人を傷つけた人は嫌い。
嫌いな人が好きな人に関わるのは嫌。
それは浮橋なごみの対人感覚であり、苗字名前のものではない。
己が及川への嫌悪は致し方ないものとしても、名前と共有しようとするのは止めることにした。
しかし、浮橋は中学に入ってからその判断を後悔した。

「苗字さん、及川くんと放課後練習してるんだって」
「えー!なにそれ、2人きりでってこと?」
「それきっと、苗字さんが誘ったんだよ。だって及川くんは指揮完璧だし、放課後はバレーの練習だってあるし」
「ぶっちゃけ苗字さん、ピアノ下手じゃない?」
「それ私も思ってた。あーあ、うちのクラスが合唱コン負けたら苗字さんの所為だわ、絶対」
「…ねぇ、音楽室行ってみない?及川くんがいたらラッキーだし、苗字さんだけならちょっと言ってやろうよ」
「それいい!」
「行こ行こ!」

奥歯を噛みしめていたせいで、パタパタと足音を鳴らして離れていった彼女たちを止めそびれた。
確かに名前のピアノの腕前は普通だ。
プロに肉薄するような派手さは無いが、かと言って猫踏んじゃったレベルに躓くような拙さも無い。
名前のピアノは伴奏としてでこそ、輝きを放つ。
人に寄り添うことを好む名前の気質の表れだろう。
ゆえに、浮橋は彼女たちにピアノという媒体を介して名前を否定されたように思えた。
重たい鉛が胃の腑でグツグツ煮立っている。
陰口を叩く人。
それは浮橋の最も嫌いな人間だ。
怒りに打ち震えている間にやや、時間が経ってしまったことに舌を打ち、音楽室へと爪先を向ける。
すると、向こう側から足元ばかりに目を向けて足早にやって来る人の姿を捉えた。

「あっ……」

前触れなく上がった頭の持ち主は、浮橋を視界に入れたと同時に情けのない声を出した。
ぴたりと足を止め、落ち着きなく視線を泳がせている。
さっさと通り過ぎればいいのにと忌々しく思い、今ひとたび舌を打つと、はたと気が付いた。
この場所で浮橋と向かい合うということは、音楽室の前を通ってきているはずだと。
音楽室には名前と、先程の口さがない女子たちが居たはず。

「見て見ぬ振りして逃げてきたんだ?」

結論付けるのと言葉が口から出るのは、ほぼ同時だった。
お前のせいで名前は厄介事に巻き込まれているのに、当の本人はのうのうとやり過ごそうとしている。
小学生の時も、今も。

「どうしていっつもいっつも名前を傷付けるようなことするの?」
「そんなつもりじゃ…」
「でも自覚はあるんでしょ?じゃなきゃ、そんな顔しないもんね」
「俺は…」
「アンタのことなんてどうでもいい。出来ることなら話もしたくないし顔も見たくない。アンタが関わると碌なことにならない。ホント、嫌い。大っ嫌い」

500回死ねばいいのに。
素早く横を抜き、ただでさえ大きな目が更に見開かれるのを視界から追いやる。
もう頭には名前のことしかなかった。
音楽室の前に立ち、その扉に手を掛けようとしたところで中からピアノの不協和音と物の倒れる音がした。
慌てて扉を開けると、倒れたピアノ椅子の横にへたり込む名前と散らばる楽譜、息を乱しながら仁王立ちする3人組の姿が目に飛び込んできた。

「ーーアンタたち、名前に何したの?」

手近な所に立っている女子の肩を掴み、自分に向き合わせるも、おののくばかりで話にならない。
ならばと、名前の目の前に陣取る女子に手を伸ばしたところで、他ならぬ名前から制止の声が掛かった。

「なごみちゃん、顔が怖いよ」

虚を突かれ、浮橋が動きを止めた隙に3人は脇目も振らずに教室を後にした。
閉められることのなかった扉の外から、拾いきれない音が雪崩れ込み、彼女たちの足音はみるみるうちに紛れていった。
浮橋は汚れるのも厭わず、ぺたりと床に座り込む。
何を言えばいいか思いつかないまま、1枚1枚、楽譜を拾い集める。
ついてしまった靴跡は、払ってみても落ちてはくれなかった。

「ごめんね」
「謝んないでよ。名前は悪くない」
「うん。でも、もっと上手に弾ける人がいたら、誰も嫌な思いせずに済んだかもなぁ、と思って」
「なにそれ…、そうじゃないじゃん。そういうことじゃなくて、全部及川が、」
「私、人の悪口言う人は好きじゃない」

なごみちゃんもだよね、と告げる声は淡々としたものだったが、浮橋が目にした名前の瞳は涙の膜が張っていた。
いっそ、雫を落としてくれたら。
その願いが叶うのは、この日から2年が経ってからのことだ。


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