聡明なあなた
城の下女として雇用してもらって、一つ年が過ぎた。年中行事も一通り覚え、日々の業務を淡々とこなす毎日。
「この荷はあっちの部屋に、そっちはこちらの部屋で……」
重要度の低い書類やら、洗濯後の衣類やら、私たちが役職のあるお方への居室に物々を運ぶことは多い。
しかし文字の読めない下女もまた多く、読み書きの心得がある私は他の下女たちが各部屋への運び込み等で間違いのないよう指導する役を持っている。
これと言って身分があるわけではなく、あくまで下女の中でそういう立ち位置というだけだが。
「いちこが来てからというもの、上からお叱りを受けることが減ったと思うの。文字が読める子は他にもいたけど、正確じゃないことも度々あったから、あなたが来てくれて本当に助かってるわ」
「ありがとうございます」
洗い場の近くに座り込んで休憩をしていると、私よりずっと長く城に勤めている中年の下女が話しかけて来た。
使い古された粗末な椅子に並んで座る。不意に述べられた感謝の言葉に少し照れて、それを隠すように視線を空に移した。
今日は雲ひとつない快晴。
「読み書きがしっかりできるって、実家は結構裕福だったり、そこそこな家柄だったんじゃないの?下女なんかじゃなくて、もう少し上の立場狙えそうよね」
「いえいえ。たまたま教えてくれた方がいただけで、身分なんてみんなと一緒ですよ。お城にお仕えできるだけで十分幸せです」
私には城下で飯店を切り盛りする母親がいる。病でこの世を去った父親を想いながら、女手一つで育ててくれた偉大な母だ。かつては都から離れた場所で暮らしていたが、今は親戚の伝手で城下で商いをすることができている。
私の生まれは廬江で、幼少に父親が死んでからは親子二人で小さい飯店をやっていた。私が文字を覚えたのはその頃だ。
近所に邸宅があったのだが、ある日その邸宅の主と同族のお坊ちゃまが越して来た。
詳しいことは何も知らなかったが、元住んでいた場所にいられなくなって越して来たらしいことだけは把握していた。
身分が違うのではじめこそ交流はなかったが、店で働くか外で遊ぶしかやることのない私を、その家のお坊ちゃまは時々見かけていたらしい。
邸宅のある横の路地で、木の枝を使いガリガリと地面を引っかいて遊んでいると声をかけられた。
「こんにちは」
「こんにちは…
あなた、この家の人?」
「そうです。陸議と申します」
くりくりとした大きい瞳が特徴の、色白の男の子だった。
自分よりも一、二歳ほどは年上だろうか。子供なのは分かっていたが、妙に大人びて見えた。
「いつもこのあたりで遊んでいますよね」
「うん。あたしいちこ。あそこの飯店があたしの家なの」
「そうでしたか」
そう言って彼はにこりと笑う。
その笑みがなんだか子供心にも不自然に思えた。
「あのね、あっちにこの辺りじゃちょっと珍しい木があるの。
いま花が咲いてるからおいでよ」
「…あ、私はあまり勝手に出歩けないので…」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
木の枝を放り出して一目散に駆け出す。
飯店の横を抜け、三、四件のよその家の間をぬい、少し開けた場所にぽつんと立つ一本の木。
優しい香りがあたり一帯を包む。肺にいっぱい匂いを吸い込み、小さい橙色の花をいくつか取った。
落とさないように両手を貝のように合わせ、来た道を走って戻る。
彼は先ほどと同じ位置に所在なさげに立ちすくんでいた。
「これ。桂花って言って、南方生まれの花なんだって。
すっごく匂いがいいでしょ」
「本当だ…!」
両手を開き、彼の顔の位置まで差し出すと、彼は顔を輝かせてそう言った。
さっきまでの不自然に大人びた雰囲気はなく、年相応の表情だ。私の中にあった違和感も解け、自然と笑みがこぼれる。
この日この時間がきっかけになり、私たちは時おり邸宅の横で遊ぶようなった。
文字を覚えたのもこの頃。育ちの良い彼が、私のいつも持ち歩いていた木の枝で地面に字を書いてくれた。
数年かけてじっくりと、少しずつ文字の読み書きができるようになった。
その後、私の方が先に廬江を出ることになる。今、城下で母親が飯店している家に引っ越すことになったからだ。
そして城下の飯店で庶民の割に綺麗な文字を書く看板娘がいると噂が流れたようで、こうして城に勤める流れになった。
あれから彼に会っていない。今でもあの邸宅に住んでいるのか、あるいは元住んでいた地域に戻ったのか。
子供にふさわしくない何かを背負ったいたような表情が、自分と同じ子供の顔つきに戻った彼との思い出が鮮明で、ふと思い出すことが時々ある。
見上げる快晴はきっと大陸のどこかにも繋がっている。今頃、どこで何をしているのだろう。
この空が見える場所にいるのだろうか。
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