桂花のあなた


「こちらが陸遜様の居室になります」

「ありがとうございます」

真新しい調度品、文具に囲まれた部屋。これからここが私の居室になる。
江東にて、我ら陸家の矮小化に追いやった孫家に仕えることになった。
あの頃の孫家は孫策殿が筆頭だった上、彼の境遇を鑑みても仕方ないと思う部分はあり、現在の家督を握っている孫権殿に何か強い不満を抱いているわけではない。
それでも、散り散りになって生死も分からない一族と世話になった叔父の最期を思えば、このような状況を引き起こした乱世を憎まずにはいられない。

「何かありましたら私めか、他の使用人にお申し付けくださいませ」

そう言ってここまで案内してくれた使用人は、深々と頭を下げて部屋から立ち去った。
ひと息つき、窓を開けると雲一つない空が広がっている。
今日はこの後、自分の上司に当たる人物に挨拶に行くくらいで、これと言って仕事はない。
自分が過ごしやすいように、物品の配置を変えることにした。

そうして無心になって作業をしていると、時折ふと思い出すことがある。
父を亡くし、叔父を頼って蘆江に身を寄せていた頃の記憶を。
あの頃は優しく誠実な父を亡くして慣れない土地に来たことをはなはだ寂しく思っていた。
本家筋である叔父の一家に何となく申し訳なさも抱え、薄暗い気持ちで過ごす日々。

そんな中、屋敷のすぐそばで木の枝を携えた、やんちゃそうな女児が一人で遊んでいるところを時々見かけていた。
陸家が全てだった私にとって、当時は外のものに救いを求めていたのかもしれない。
ある日、家の者の目をかいくぐり、門の外へ出た。

「こんにちは」

「こんにちは…
あなた、この家の人?」

目的の女児にすぐさま声を掛けた。
やんちゃそうな見た目の割には、落ち着いた返答が返ってくる。

「そうです。陸議と申します。いつもこのあたりで遊んでいますよね」

「うん。あたしいちこ。あそこの飯店があたしの家なの」

屋敷の近くにあった飯店の一人娘で、いちこという名前の子だった。
母子家庭だったが、いつも元気そうだったのを考えると商売上手で母子ともに食に困ることはあまりなかったようだ。

それからと言うもの、よく二人で屋敷の陰で遊んでいた。
私は家の者には知られていないと思っていたが、今思えば遠くに行くことがなければ、と暗黙の許しがあったのではないかと思う。
彼女はこの辺りに生えていると言う桂花を、ある季節になるといつも持ってきてくれていた。
優しく、それでいてはっきりとした香りを今でもよく覚えている。
屋敷の中に籠りがちな当時の私にとっては、彼女が時折見せてくれるものは珍しいものが多かった。
どこから捕まえてきたのか、野良猫や迷い鶏などの生き物であることもあった。
漠然とした孤独を抱えていたあの頃の私に救いの手をくれたのは、紛れもなく彼女だ。


そんな昔の記憶を思い起こしながら室内の整頓を終え、上司に挨拶をし、城内を案内していただいた後には、日が暮れ始めていた。
雲のない空に、真っ赤に燃える太陽を遮るものはない。

私が叔父の家を離れる前に、彼女はどこかへ越して行ってしまった。
今もどこかで母子揃って飯店をやっているのだろうか。それならば、これからの時間は混み合って忙しなく働いているのかもしれない。
変りなく元気に過ごしていれば良いと願うばかりだ。




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