峨嵋山の麓にて
青い空と神聖な霊山に見下ろされ、時には濃霧で静けさが満ちる付近一帯。
この場所での滞在もそろそろ満月と新月を二回迎えただろうか。急ぎではない軽い執務と鍛錬と、湯につかる毎日を過ごしていた。
「お疲れ様です。例の書簡は先ほど遣いに渡して出発させました」
「ああ、どうも。いちこ殿も湯につかって来てください」
「ありがとうございます」
ここに来ることに決まった頃、所属が移って法正様の副将となった。
丁度戦で矢傷を負ってしまった後だったので、後ろ暗い噂が絶えない法正様の元に異動するということは何かしらの罰かと内心思っていたことは内緒だ。
言われるがまま派遣された先は成都の南に位置する峨嵋山。成都では是非とも足を運びたい景勝地の一つとして話題にのぼる場所だが、まさか自分がここに来ることになるとはと思ったものだ。
そしてやることと言えば湯治である。驚きの展開に戸惑いがあったのももうしばらく前の話。
副将として顔を合わせた直後の法正様の顔色も相当悪かったが、今では多少なりとも良くなっているように見える。謎の人事異動はきっと健康管理のためだったのだろう。
本日もたっぷりと湯につかり、赤く染まった空を眺めながら陣地内に戻る。
私服姿で書を片手に椅子に腰掛ける法正様がいた。あたりはまばらに警備の兵がいるだけで、至って静かだ。
「戻りました」
そう言って私も隣の椅子に腰掛けると、法正様は視線だけちらりとこちらに寄越して書を読み続けている。
こんな乱世にあって、堂々と療養できるとは蜀はなんて良い国なんだ。
…なんて、そうも言ってはいられない状況ではあるが、ここでの滞在はそんなことも忘れてしまいそうだ。
よほど性格の悪い人だと聞いていた法正様も、実際行動を共にしてみればこれと言って苦がない。
休暇中だからかもしれないが。
「実はあなたに提案がありましてね」
「何でしょうか」
しばらく沈黙が続いた後、思いついたかのように法正様は言い出した。
「瀑布を見たいと思いませんか」
「ば、瀑布ですか…?まあ、見てみたいですね。美しいですものね」
この辺りにそんなものあっただろうか。いや、私が知らないだけであるのかもしれない。
湯治だけでは飽き足らずいよいよ物見遊山までするのかと、無礼にも半笑いで答えてしまった。
「このあたりにもそんな立派なものがあったのですね」
「このあたりではありません。行くのは黄果樹瀑布ですよ」
「え?」
「黄果樹瀑布」
待て待て、黄果樹瀑布だと…
噂程度にしか聞いたことはないが、成都から随分南東へ行かねばならない場所にあるのではなかったか。
訳が分からず言葉に詰まる。
「数日中に出立するとしましょう。準備しておいてください」
「ほ、本気ですか…」
「当然です。質の良い馬も用意しました」
閉じた矢傷が痛み出した気がする。と思い込みたかった。
今から戦ですと言われた方がましだったかもしれない。
平穏な休暇が突然消えた。
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