黄果樹瀑布




「行きますよ」

「はい…」

出立の朝、運搬用の馬を引き連れた兵士が二人と、黒と緑を基調とした旅装束に身を包んだ法正様が宿舎の前で私を待っていた。結構な遠出だと思うのだが、随分とまとまった荷物で済んだものだ。
自分の最低限の荷物を背負った馬に跨り、もう少しこの憩いの場に滞在していたかった、と名残惜しく振り返る。
今日も峨嵋山は美しい。

もしかしたらもう二度とここを訪れることはないのだろうなあと思う。
ここに残る兵士たちに見送られ、瀑布の方角へ馬を走らせた。


一日目の夜、平坦な場所に荷を下ろし、野宿をすることに。
火を起こして夕食の支度を始める。野宿の際は幕舎に見張り番以外全員で寝るらしい。女が一人いるというのに何ということだ、と思ったが荷の中には本当に一軒分しか入っていなかった。
私と法正様で幕舎の組み立てを始める。どうやら新品のようで、外気に染まっていない布の匂いがした。

「あの…」

「いかがなさいましたか?」

「君らはこの旅に巻き込まれてどう思っているの?」

幕舎も概ね出来上がった頃、法正様には聞こえないよう食事の準備をしている兵士に声を掛ける。
こんな計画を立てた本人に真意を伺う勇気もなく、もやもやした気分でいるのは自分だけではないのではないかと思いたかった。

「正直楽しいです。僕らのような平民は、普通なら遠くの特別な景色を見に行くなんてことできませんからね」

「そ、そっか」

明るい返答をもらってしまった。困ったような表情なんて全く見せないのだから、きっともう一人の兵士もそんな気持ちなのだろう。
嫌々従えて来たのではないようで一安心ではあるが、結局この状況についていけていないのは私のみということが確定した。
あの時怪我なんてしなければ、今ここで法正様と旅をしているのは他の誰かだったのだろうか。

「いちこ殿。油を売るのは幕舎を立て終えてからにしてください」

「はい」

幕舎の裏にいた法正様が手前であるこちら側に回ってきた。駄弁っていたことがばれたので大人しく残りの組み立て作業に戻る。
なぜ絶景を見るという旅をしようと思ったのか、しかもそれを殿や丞相様が許したのか。
突っ込みどころは沢山あるが、やはり今は聞きづらい。副将らしく法正様を信じて黙って付いて行こうと思う。
完全に幕舎を立て終えたところで、食事の準備も済んだようなので四人揃っていただくことにした。


そんなこんな、移動と野宿と時々宿泊を十回以上繰り返した頃。雲ひとつない快晴、青色が眩しい空のもと、山間を分け入った先でようやく黄果樹瀑布が視界に入った。離れていてもざあざあと大量の水が流れる音が絶えず聞こえる。
足元が悪いので馬と兵士を手前で待機させ、法正様と私が瀑布へ近寄る。後方で兵士二人の興奮した会話が聞こえて来た。
瀑布に近付けば近付くほど青い空が白んでくる。
高位置から落ちた水が叩きつけられた勢いで霧になって舞い上がっているのだろう。髪も肌も衣服もしっとりと湿っていくのが分かった。

「すごい…」

頰を撫でて行くこの風も、きっとこの打ちつける大量の水から生まれたものだ。
視界を埋めるほど幅と高低差のある大滝。周辺を幻想的に曇らす霧。仰け反りそうな大きさの水の音。その偉大さを五感にあまさず訴えてくる。
はっと我に返ると法正様の前に出ていたことに気づき、静かに一歩後ろへ下がった。
ちらと表情を伺うと、その景色を目に焼き付けるかのように瀑布をじっと見つめている。私と同じように圧巻されているのか、それとも他に何か思うところがあるのだろうか。
いや、今は余計な思考は無粋だろう。視線を目の前の絶景に戻した。

しばらく瀑布を眺めた後兵士の元に戻り、近くで見てきた方が良いと馬の番を交代した。
子供のようにわいわいと声を上げて兵士二人が瀑布に向かって行く。
私と法正様は乾布で濡れた髪と肌を拭いながらその光景を見送った。

「…法正様は瀑布がお似合いですね」

「何ですか、それは」

水も滴る何とやら、という言葉がふと浮かんだのでそのまま感想として伝えた。

「絵になると思いましたので。そのままの意味です」

返答はなかった。遠くで聞こえる兵士のはしゃぐ声を聞きながら淡々と髪の水分を乾布に吸わせる。
法正様は首に布を掛け、おもむろに荷から地図を取り出した。帰り道の確認をするつもりなのだろう。私も近づいて地図をのぞく。

「この後すぐ出発なさるのですか?」

「そうですね。ここは長居に向かない場所でしょう」

「ですよね…今度は成都までどれくらい掛かるでしょうか」

「誰が成都に戻ると言いました」

「えっ」

驚きの発言に思わず法正様を見る。すると法正様は意地の悪そうな笑みを浮かべて地図から顔を上げた。

「次は武陵源です」

「はっ…え…」

ここからさらに東へ。しかも国境付近ではなかったか。
言い出したからには絶対行くだろう。そしてこの旅は長く続くのだと確信した。
もう諦めるしかないと悟る。脱力してうな垂れた私を見てくつくつと笑う法正様の声が聞こえた。
ここで法正様の性格の悪さというものをいよいよ体験することとなったのだろう。何のために振り回されているのかは見当つけたくもないが。

「承知しました…」

「貴方は随分と物分かりの良い副将ですね」

「ええまあ…上官のご命令とあれば」

「ほう」

何やらご満悦なご様子で。
今まで上官と副将という関係よりさらに遠いくらいの距離感だった気がしていたのに、何だか直属らしくなってきた気がする。
なんだかんだで目的地にたどり着けば一生に一度経験するかしないかの絶景を拝めるのだから、良い時間を過ごせているのだろう。と思い込むことにした。

「昼餉を摂ってから移動することにしましょう。平地を探します」

「はい」

この調子ではきっと成都で年を越せないかも、とぼんやり思った。
瀑布のそばではしゃいだまま戻ってこない兵士二人に戻るよう呼びかける。
一生心に残るであろう絶景を振り返りながら、その地を後にした。



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