帰還



慌てた様子で軍医が部屋に入って来る。
軽く触診を済ませると、異常なし、と戸惑いを感じる声色で言った。

「な、何があったんですか?私今まで…ここは峨嵋山の…?」

「ええ、峨嵋山の麓です。夕方に湯浴みを済ませ、外に置かれた椅子に腰掛けて法正様とお話されていたところ、急に気を失ってしまわれたのです。
それから数日眠ったままでした。原因が分からず、手の施しようがありませんでしたので…目覚められて本当に良うございました」

何日も気を失っていた。にわかに信じられるわけがない。
どれが現実のことなのか区別が出来ない、何がどうなっているのか分からない。
軍医が嘘をついているような素振りはない。少なくとも彼が言っていることは事実なのだろう。
あまりの混乱に吐きそうだ。もう一度眠ってしまいたい。

「…法正様も倒れたって、法正様はどこですか?」

「法正様は別室におられますが…いちこ様より容態はよろしくなく…」

「案内して」

「は、はい」

鈍って重い体に力を込め、よろよろとした足取りで駆け出す。
薬や着替え等を置いている部屋を挟んだ隣の部屋で、法正様は眠っていた。
寝台に駆け寄って顔をのぞくと、旅に出る前の顔色の悪さがそのままだった。頭を殴られたかのような衝撃を持って現実がおそいかかる。
やはり元気に遠くまで旅をしたのは夢だったのか。

「お、起きてください法正様!もう大変ですよ!夢だったんですよ全部!」

「いちこ様、何を…!」

「地獄に行く前に大陸を見て回りたかったなんて、冗談じゃないです!起きて今からでも行きますよ!本当は行ってなかったんですから!」

着物を引っ張って揺さぶる。耳元で叫んでやった。
このまま眠るように死んでいくと軍医が思うなら、私は法正様を許さない。
未練がましくあんな夢を見せておいて、後事を丸投げだなんて。無理矢理にでも起こしてやる。

「貴方よくも私の腹を殴りましたね!女性に対してそんな事するとは信じられません!
悪党だと宣っていれば何でも許されると思わないでください!起きろこらあああ!」

悪党だと言うのに優しくしてくれたことも、思い切り頬を引っ張られたことも、夢だと思いたくなかった。夢だとしても、また同じような良い主従関係を現実で築きたかった。
鬼気迫る絶叫に、軍医は私を止める素振りはない。警護の兵が集まってくるのは感じた。

「起きたら断罪させていただきます!流刑がてら各地視察に行きますよ!このまま逃げるなど許しませんからねええ!」

喉が痛い。呼吸が苦しくなってむせていると、法正様のまぶたがかすかに動く。
ただでさえ酸欠で脈拍が早い心の臓が跳ね返った。

「ほ、法正様…」

「こんなにうるさい女だと…思いませんでしたよ…」

目を覚ました。
薄く目を開き、こちらを見たのが分かった。力なく笑っている。
その顔を見て瞬間で胸が熱くなる。私のほうが起きていられなくなり、枕元に突っ伏してしまった。

「感動の再会に…涙ですか」

「違いますう…叫び疲れたんですう」

顔も熱い。
横に軍医が駆け寄ってきて診察を始める。外では伝令を飛ばす声が聞こえた。




それからひと月ほど。法正様は歩けるほどに回復した。
法正様が倒れる前、休んでいるように見えて多くの仕事をこなしていたらしい。
無理を重ねた結果、生死の淵を彷徨うことになってしまった。
目覚めた法正様にどうしても説教したかったのか、伝令を受けた劉備様がすっ飛んできた。ここまでされると法正様も言うことを聞かずにはいられないようで、しっかり養生を重ねて今に至る。
私はとっくに全快しているのだが、引き続き軽い執務を行いながら峨嵋山の湯を日々楽しんでいた。

「戻りました…って、何だか見覚えのある流れですね」

湯浴みから戻ると、外に置かれた椅子に腰掛けて書簡を眺める法正様がいた。
あの日と同じく、静かに隣に座る。
法正様の目線だけがこちらに向いた。

「いちこ殿も蜀の外周を旅した夢を見たのでしょう?」

不意に投げかけられた質問にどきりとする。
確かにそうだとは思うが、本当に法正様も同じ夢を見ていたかは半信半疑だったからだ。

「霊験あらたかな霊山の麓に長いこと滞在しているんです。まあ、何かしら信じがたいことでも起きるんでしょう」

「そんな適当な…」

私は不思議で仕方ないのだが、法正様にとってはあまり気になることでもないらしい。
そこで一度会話は途切れた。沈黙が辺りを包む。
荊州に関する報告書を読む法正様の横で、私もそれをのぞき見ていた。もう歩けるからと言って全力全開で仕事してるんじゃなかろうな、と思いながら。
監視しておかなければ次はないだろう。

「そう言えば、貴方に提案がありましてね」

「何でしょう」

しばらく無言が続いた後でこの発言、また覚えのある流れだなあとぼんやり思った。

「絶景を見せたのも一つの恩返しのつもりだったのですが、どうやら夢だったようで。
何も返せてないことになっていますね」

「は、はあ。私はご恩として返していただくようなことは何もしてないと思っていますが」

「そこで、です。
今晩から毎日貴方を楽しませるというのはどうでしょう」

「よ、夜?毎日?」

がたり、と椅子を引く。不審な単語に思わず身が退いた。
背筋がぞわりとして肩が震えたが、そんな私の様子を見て法正様が意地悪く笑みを浮かべる。

「何を想像したんでしょうね。俺は恩返しを、執務を終えた夜に行う、としか言及していないのですが」

「い、いや、その一言が怪しいですよね?私も一応女なんですが」

「ともあれ、俺の恩返しは不要ということですか?よもや、この俺の恩返しを断るなんて心無いことはしないとは思いますが」

夢で親しくしていたとはいえ、夢は夢であるのにこんなやり取りをするほど懇意になるのか、甚だ疑問だ。
断ったら何が起きるか分からないとでも言うような圧を感じる。

「い、いえ。どうぞよろしくお願いいたします…」

「それは良かった。怪しげな想像をしたのにも関わらず、受け入れる度量があるとは」

「言い方に問題があるのは理解していただけませんか!」

どうも遊ばれている。先程まで気だるげに書簡を眺めていた法正様の表情は、今では実に元気そうだ。
とても悪そうな顔で笑みを浮かべている。
我が身に何か悪いことが降りかかりそうなのに、その顔を現実として見られていることに安堵するのは、私が忠実な副将だからなのか、あるいは。

「ではまた後ほど。楽しみにしていてください」

す、と指が私の頬を撫でていった。
夢で法正様に触れられた、いくつかの記憶が走馬灯のように脳裏によぎる。
体の中で恥ずかしさが渦巻き、拳を握りしめながら視線は地面に落ちた。
この気持ちは疑いようもない現実だ。


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