都江堰




このまま南下して蜀への帰路につくとのことだったが、法正様は帰りたくないのだろうか。
九寨溝を出た後は、一層進む速度が遅くなった。
集落があれば観察するかのように眺め、時には滞在する。関所があれば、守りにつく者に声をかける。
法正様の噂をよく知る者は、法正様本人だと分かると誰もが引きつった顔をしていることが少し面白かった。
そんな具合で、今までよりものらりくらり南下している。当初思っていた以上に長い旅だったので、もうじき終わってしまうことに感慨深くもなってしまう。
同時に、早く部屋で一人で寝たいとも思うが。

「ずっと大きな河に沿って歩いてますけど、もしかしてこれが最後の」

「ええ。都江堰に繋がる岷江です。この河が蜀の命、血液と言っても過言ではありません。
この暴れ川をこの先にある都江堰によって制御することで、安定的に作物を育てることが可能になっているんです。
まあ、かつての秦国にでも感謝してください」

今でさえここまで大規模な治水は大変な事だというのに、さすがは帝国・秦だ。
季節柄、水量は少ないものと推測できるが、降水量が多くなった時のことを想像すると恐ろしい。
暴れ川と言うだけのことはある。力強く流れるこの川の水流の前には、人間の命など塵と同じだろう。
ある程度予測できるだけ人間の大軍が迫る方がまだましだ。

「とはいえ一度作って終わりではなく、常に補修は必要です。
あなたもいつかは指揮することになるかもしれませんから、よくよく見ておいてください」

そんな少し真面目な話をしていると、いよいよ河の要所・都江堰が見えてきた。
太い河の中ほどに突如として大きな中洲が現れる。
これがただの中洲ではなく、蜀の各農地へ水を運ぶ入口になり、水位が高くなった時には洪水をも防いでくれる。
今はあまり雨が降らないので水位は低め。さあさあと水の流れる音が耳に心地良い。

「あ、うちの兵がいますね」

「蜀の生命線の一つですから。誰かさんの命で兵が常駐しています」

「ああ、諸葛亮殿…」

数として千ほどだろうか、支流側に兵の駐屯地が見えた。私たちが連れている二人の兵士の顔が輝き、向こう岸に手を振る。
が、河幅があるのでこちらは見えていないことだろう。冬ではあるが、河に沿って沢山木が生えているのもなおのこと視界を遮っている。

「もうそろそろ旅も終わりです。最後にこの要所を目に焼き付けておいてください。
荷が重いでしょうが、俺がいなくとも見聞きしたことを思い出してこの蜀に貢献してください」

「え、蜀に戻ったら法正様の副将から外されるんですか?私は」

「そのままの意味ですよ。俺がいなくとも、というのは」

「…どういうことですか?」

ぼうっと河を見つめながら法正様の話を聞いていると、段々と何か引っかかるような話し方に変わって来た。
河から法正様の顔に目を移す。心なしかあの頃のように顔色が悪く見えた。

「地獄に向かう前に劉備殿が治める土地と、これから治めるであろう土地を、この目で確かめたかった。
それを貴方にも見せたかったのですよ。知識として、そして一つの礼として」

「え、いや、あの。元気になったからここまで旅をしてきたんですよね?」

「乱世がこれほど長期間の道楽を許してくれるとでも?」

何を言っているのか分からない。段々と不穏な空気に包まれていく。心地良いと思っていた河の音は、要らぬ雑音のように感じた。
今過ごしているこの時間、空間は夢とでも言うのだろうか。
この数月の間の記憶は鮮明だ。そして今も。
こんなに現実じゃないか。
法正様はため息をつきつつも笑っていた。

「貴方は将兵としては伸び代はない。まあ平凡です。大きな仕事はこなせないでしょう。
が、素直で真面目、安定して小さい仕事を淡々とこなして行く豆な性格は、地味ですがどこに行っても必要とされます。
この悪党の下でもそれを変わりなく発揮していたことに、俺は少なからず恩義を感じていましたよ」

まるで別れの挨拶のようだ。
訳の分からなさに狼狽えていると、す、と法正様の両手が私の顔へ伸びてきた。
思わず後ずさる。

「いへへへ、いひゃい!やめへくだはい!」

思い切り両頬を引っ張られた。一応若い私のやわ肌に容赦ない。
悶絶する私を見て、法正様は極悪の笑みを浮かべている。

「貴方だけは帰っていただきます。
貴方が在るべき場所へ」

「いてて、どういうことですか!貴方だけはって、法正様は…いててて!」

「おや、まだ目覚めませんか。連れて行くわけには行かないので、早く行ってください」

「訳が分からな…うっ」

頬を引っ張られるだけでも痛いのに、最後は非道にも腹に拳が入った。一瞬で頭が真っ白になる。
地面に倒れ込む直前、兵士二人と法正様の表情が見えた。困ったように笑って小さく手を振る二人と、少し毒が抜けたような優しい笑みを浮かべた法正様。
これが旅の最後の記憶になった。




「うぐっ!」

言葉にならない声を上げてがばりと起き上がる。頭がぼうっとする上に痛い。さっき腹を殴られたはずなのに。
周りを見渡すも、部屋には私一人。見覚えのある部屋だ。
そして寒かったはずなのに、窓から夏の終わりのようなぬるい風が入ってくる。時間は夕暮れか、あたりが暗めで赤い。
寝台から降りて立とうとするも体が重く、体勢を崩して尻もちをついた。
その振動が伝わったのか、一人の兵が戸を開け、私を見た瞬間すっ飛んで行った。

「軍医殿、軍医殿!いちこ様が…!」

「何が…どうなっているんだ…」



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