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彼女が出来た、と私が直接言ったのは陣内ただ一人だった。なのに、社内ではあっという間に私に女がいると囁かれるようになった。ただ、噂とは曖昧なもので、事実と異なる場合の方がずっと多い。少なくとも、私の耳に直接入ってきたのは事実とはかけ離れたものだった。
噂、ね。どいつもこいつも暇だな。他人のことを気に掛ける時間があるのなら、少しは私の業務を手伝って欲しい。
社長に呼び出された私は溜め息を堪えるのに必死だった。
「詳しく報告しろ」
「…は」
「どうした。早くしろ」
「社長がお気になさる程のことはありません」
「そういうわけにもいかん。事実を述べよ」
「…ちなみに、どのような噂を耳にされました?」
「お前が結婚詐欺をしている、とか何とか」
結婚詐欺。私が。金に大した興味もないこの私が結婚詐欺。
恐らく、先日カフェで指輪を渡したところでも見られたのだろう。タソガレドキ社では多くの人間が働いているが、所在地は田舎町だ。総人口も都会と比べて多いわけではなく、何処かに出掛ければ誰かに会うというのは致し方のないこと。だから、誰かに逢瀬を見られていたことが腹立たしいというわけではない。誰かに好き勝手に言われる事が腹立たしいのだ。ましてや、私だけではなくなまえのことまで。
堪えきれなくなって思わず社長の前で溜め息を吐いた。
「…そのような事実はございません」
「当たり前だ。儂が聞きたいのは相手のことだ」
「お察しの通り、あの元くノ一です」
「やはり、そうか…」
「今回はご迷惑をお掛けしないよう、上手く立ち回ります」
「出来るのか?先日、随分と病んでいたように見えたが」
「…首の皮一枚で繋がりましたので」
「お前を失っては我が社はまた存続できない可能性が高い。いいか、絶対に同じ過ちは繰り返すことのないようにな」
「肝に銘じます」
社長室を出て溜め息を吐く。本当、どうして私は昔から噂の対象とされるのだろうか。私が何かすれば噂が立ち、どんどん私の人格を勝手に周囲に作られていく。いい加減にして欲しい。私にだって人並みに感情くらい備わっている。これ以上、私の機嫌を損ねるような真似をしないで頂きたい。
社長には、殿には昔から目を掛けて頂いていた。その結果、こうして今があるわけだが、私は昔、随分と迷惑をお掛けしてしまった。にも関わらず、社長は私を責めることは一切せずにこうして今もお側に置いて下さっていた。くだらない噂話に耳を貸すことのない数少ない人間の一人であり、私が唯一忠誠を誓っているお方。またご迷惑をお掛けするわけにはいかないと思ってはいるが、前世と同じ結末を迎える事に万が一にもなった場合は、残念ながら私はまた社長の前から姿を消すことになるだろう。
営業部に戻る前に喫煙所に立ち寄る。透明な小箱の中には同期がいた。向こうも私に気付いたようで、声を掛けてきた。
「よぉ。久し振り」
「あぁ。まだ辞めてなかったんだ」
「辞めねぇだろ、今更」
「それもそうだね」
入社した同期は今となっては数えるくらいしかいない。激務に耐えきれなくてどんどん数を減らしていった。ちなみに女は全員一年目で辞めている。これに関しては流石に社長に手を出しすぎだと怒られたことも今となっては遠い昔のことのように感じる。
煙草の煙を吐いて気付いたが、物凄いストレスが掛かっていたようだ。それはそうか。社長に直々に呼び出される時はだいたい無茶なことを言われるか怒られるかのどちらかなんだから。今回は釘を刺された程度で済んでよかった。
「こんな時間に珍しいな」
「社長に呼び出されてね」
「…お前、今度は何やらかしたんだよ」
「失礼な。私は何も悪くない」
「どうせ、噂話のことだろ。怠いよなぁ」
「全くだ。ま、慣れてるけどね」
好き勝手に言われることも、好意ではなく興味を持たれることにも私は慣れきっていた。不快ではあるが、若い頃のように喧嘩を買いに行くこともなくなった。もう、そのくらいどうでもいいことになっていた。だけど、なまえのことを悪く言われることは耐えられない。あの子は純粋な子だ、きっと傷付く。私が周りから良く思われていないこともきっと嫌がるだろう。そんな優しい子をこれ以上傷付けるわけにはいかない。なまえとは本当に首の皮一枚で繋がった縁だ。
二本目の煙草に火をつける。今日はまだやる事が山のようにある。いよいよ今月も来てしまう。月末処理の時間が。
先月もなかなか厳しいものだったが、今月は更に酷くなることが予想される。売り上げが好調なことは喜ばしいが、残念ながら仕事量も増える一方だ。人員不足の現状に溜め息を吐いていると、同期の佐茂が明るい声を出した。
「それより、彼女がいるって聞いたけど」
「あぁ」
「相変わらず色男だな、雑渡。そんな妙な噂が立つなんて」
「妙で悪かったね」
「妙だろ。お前が若い子に熱を上げてるなんて噂は」
「だから、妙で悪かったね。惚れたものは仕方ないでしょ」
「…えっ。まさか、本当に若い子と付き合ってんのか?」
「まぁね」
「マジで!?お前、高校生に手ぇ出したのかよ」
「違う。大学生」
「変わんねぇよ!マジかよ…」
失礼な程に佐茂は驚いていた。仕方がないだろう、なまえがまだ未成年なのは私にはどうすることも出来ないのだから。
生憎、私は女は若ければ若い程良いとは思っていない。子供の相手はより面倒だ。つまらない期待をされても対応は出来ない。だけど、なまえはやはり特別なのだろう。面倒だと感じたことがない。たまに突拍子もないことを言われることはあるが、それすらも愛らしく感じる。要は私が相手に好意さえ抱いていれば、年齢は関係のないということなのだろう。
「不純異性行為ってやつだな」
「私は本気なんだから、別にいいでしょ」
「本気ねぇ…そんな若い子とヤりまくってんのかよ」
「随分と下世話な質問だね」
「いや、だって、お前が未成年に手を出すとは誰も予想してなかっただろ、普通。そりゃあ噂されても仕方ねぇだろ」
「迷惑極まりない。そもそも、まだ抱いてないし」
なまえとは清い関係を築いている。ちなみに、これは不本意なことだ。私だってなまえを抱きたい。付き合う前からそう思っていたのだ、ここまで私が手を出さずにいるのは奇跡に近い。だけど、気持ちが悪くてどうしても耐えられなかった私は我慢せざるを得なかった。
他の女と寝たベッドでなまえを抱くことは憚られた。なまえが穢される気がして、どうしても嫌だった。私に媚を売ることしか出来ない女を抱いたベッドで本気で愛している子を抱くことはなまえを愚弄している気がして気分が悪かった。だから、新しい寝具を購入したわけだが、届くまでのタイムラグを考えると失敗だったかもしれない。私の理性はギリギリのところで持ち堪えている。もう限界に近い。
「…雑渡、まさかマジで惚れてるのか?」
「だから、そうだって」
「このまま清らな関係を続けるつもりなのか?」
「まさか。そんなに私が悠長に見える?」
「見えないな」
「あの子は私のものだ。もうすぐ全て手にする予定だよ」
「へぇー…」
「なに、その返答は」
「いや、よかったなと思って。お前にも春がきたか」
「馬鹿にしているの?」
「そんなわけないだろ」
佐茂は即答して煙草の火を消した。それを見て、私はトン、と灰を落とす。相変わらず社交的な奴。こんな私にさえも話し掛けてくるのだから、大したものだ。
この会社で私に気安く話し掛けて来られるのは社長と同期くらいのものだ。実はそれが救いだと思っていることは特に言うつもりはない。そんなこと別に知ってもらいたいわけではないし、知られなくもない。佐茂とはそういう仲だった。
私も遅れて喫煙所から出て仕事に戻る。営業部に戻ると陣内に良いことがあったのかと驚かれた。なまえの言うように私はそんなにも顔に感情が出ているのだろうか。だとすれば、それはなまえによる影響だろう。元々私は感情の起伏が大きいわけでも表情が豊かなわけでもないのだから。
なまえは色んな感情を私に教えてくれる。なまえを抱いた後、きっとまた新しい感情が得られるのだろう。あと何日かで月末が来てしまうというのに、その後のことが楽しみで思わず笑みが漏れた。
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