17


「明日から食べには来れないと思う」

「はい。お弁当作りますね」

「ありがとう。楽しみにしてる」

「はい。おやすみなさい」

「ん、おやすみ」


いつものように軽いキスをしてから雑渡さんは帰って行った。今月も月末は忙しいようで、明日からはまた帰るのが遅くなるらしい。先月の今頃はまだ付き合っていなくて、私がお弁当を作ったり、電話をしたりしたなぁと思うと不思議と懐かしくなった。まだ一ヶ月しか経っていないのに、もう随分と前のことのように感じる。
雑渡さんと毎日会っていたのに明日からは一週間会えないのかと思うと寂しい。だけど、雑渡さんはお仕事なのだし、仕方がない…けど、やっぱり寂しい。雑渡さんもそう思ってくれるのかな。いや、きっと忙しすぎて余裕がなくてそれどころではないかもしれない。本当はお弁当だって迷惑かもしれない。ご飯を食べる時間さえも惜しんで仕事をしている様子だったから。あまり寝れていなさそうだったし。だけど、それだと倒れたりしてしまわないだろうか。いや、でも…


「出たよ、ネガティブが。なまえってたまに後ろ向きだね」

「だって、迷惑だって思われなくないし…」

「前に作ってって言ってくれたんでしょ?」

「そうだけど…でも、付き合う前のことだし…」

「たった一ヶ月では考えは変わらないでしょ」

「変わるよぉ…」


少なくとも、一ヶ月前は私は雑渡さんのことを大人だと思っていた。大人の男性は私のような子供相手にドキドキしたりはしないと思っていた。だけど、それは違った。雑渡さんは私が笑い掛けるだけで未だにドキドキすると言っていた。会話では相変わらずはぐらかされることもあるし、飄々とした態度もとる。だけど、前ほど雑渡さんの考えていることが分からないわけではないし、それが雑渡さんの素だということも分かった。ただし、平常時の。喧嘩はまだしたことがないけど、多分物凄く怖いことは簡単に予想できる。
付き合う前は遊ばれて捨てられることが怖かったけど、今は嫌われることや、迷惑だと呆れられることの方が怖い。


「で?どうするの?」

「今日やってみて、迷惑そうならやめるかな…」

「それがいいと私も思うわ」

「お弁当の方がいいと思う?」

「でも、なまえはそうはしたくないんでしょ?」

「…うん」

「いいんじゃないの?きっと、喜んでくれるよ」


友達に背中を押された私は家に帰って晩御飯の用意をする。栄養バランスを考慮した献立を毎日考えることは私には難しくて、どうしても偏ってしまう日もある。だけど、毎日雑渡さんは野菜を食べてくれているし、何なら茄子は好きにすらなったようだ。
好きな人のことを考えながらご飯を作ることは楽しい。それに、美味しいって言って食べてもらえることは嬉しい。
後はこんなことをして、雑渡さんが迷惑がらないかだけが心配だ。私がドキドキと緊張しながら雑渡さんを待っていると、玄関のドアが開いた。「あれ?」と玄関から雑渡さんの明るい声が聞こえてきて、少しホッとする。リビングのドアが開く前にソファから立ち上がり、雑渡さんを出迎えた。


「おかえりなさい」

「あぁ、ただいま…えっ、どうしたの?」

「雑渡さんが帰るのを待ってたんです」

「こんな時間まで?」

「だって、会いたかったので」


恥ずかしくなってキッチンへと向かおうとすると、後ろからぎうと抱き締められた。すりすりと顔を擦り付けられながら少し上擦った声で今日のご飯は何?と聞かれたらところをみると、雑渡さんもどうやら私と同じで照れているらしい。


「鯖の味噌煮です」

「やった。好き」

「温め直すので離して下さい」

「ん、もう少し…」


今日は随分と甘えてくる。お仕事でストレスが溜まっていたのかもしれない。もしくは、私に会えないと思っていたのに会えて嬉しいから…なんて都合のいいことを考えてみたり。もしもそうだとするのなら、来てよかったと思う。
雑渡さんの家で料理をすることは不可能だった。炊飯器どころかお鍋すらない。あるのは冷蔵庫と電気ケトル、電子レンジくらいで、自炊はしないと聞いてはいたけど、本当に自炊しないということが分かった。きっとコンビニだけで生きてきたのだろう。それでこんなにも背が伸びたのだから、高校生の時から頑張ってご飯を作っていた私が馬鹿みたい。もう少し背が伸びると期待しているけど、もう何年も150cmのままだから、多分期待は出来ないのだろう。
電子レンジで温め直した食事を出すと雑渡さんは嬉しそうに笑った。手を合わせて食べ始めようとした隣に自分の分を持っていくと、雑渡さんは驚いた顔をした。


「なまえもこれから夕飯なの?」

「はい。いただきます」

「今日、忙しかったの?」

「いいえ?ただ、雑渡さんと一緒に食べたくて」


私が微笑みかけると、雑渡さんは低い呻き声をあげた。何事かと思い顔を覗き込むと、ペタリと顔を雑渡さんの大きな手で覆われて、狡いだの酷いだの言われた。
やっぱり迷惑だったかなと少し後悔したけど、すぐに迷惑ではなかったことが分かる。雑渡さんの顔が赤かったからだ。


「…どうして、そんな可愛いことをするの」

「迷惑じゃなかったです?」

「そんなわけないじゃない。嬉しいよ、凄く」

「じゃあ、よかった。明日も待ってますね」

「…ん」


ようやく顔が解放されて、雑渡さんは溜め息を吐いたかと思えば鯖を口にし始めた。生姜を多めに、甘さは控えめにしてみたけど、美味しいと思ってもらえたようで安心する。
食後、帰ろうとしたら雑渡さんに腕を掴んで止められた。


「もう少しいてよ」

「私は構いませんけど、邪魔じゃないですか?」

「全然。むしろ捗る」

「はぁ…」


バサバサと鞄から書類と手帳、パソコンを取り出した雑渡さんは急に真面目な顔をした。これがお仕事中の雑渡さんなんだ。横顔しか見えないけど、かっこいい。
パチパチとキーボードを叩きながら雑渡さんはいつものように私に話し掛けてきた。今日あったこと、週末はどこに行こうかなど本当にいつも通りの会話。時々雑渡さんは会話を止めて真剣に考え事をしたりはしていたけど、すぐにまたいつも通りの穏やかな声で私と話をしてくれた。
二時間ほどして雑渡さんは今日はここまでかな、と言って背伸びをした。ようやく雑渡さんは私の顔を見てくれた。


「お疲れ様です」

「まだ月曜なんだよね、これで」

「体感的には何曜日なんですか?」

「金曜」

「それは一週間が長いですね」

「本当にね…あ、ごめん。もうこんな時間だ」


時計を見ると1時を過ぎていた。帰らないとね、と雑渡さんは立ちあがろうとしたけど、私はぎゅうっと雑渡さんに抱き付いた。お疲れ様と明日からも頑張っての意を込めて。
雑渡さんはすぐに抱き返してくれたけど、溜め息を吐いた。


「…だからさ、どうしてこんな可愛いことをするかな」

「可愛かったですか?」

「超絶可愛い。もう、今すぐにでも抱きたいくらい」

「そ、それは困ります」

「どうして?」

「だって、雑渡さんは明日もお仕事ですし…」

「そうだね。それに、まだ思うところがあるからね」

「思うところ?」


前も言っていたけど、思うところって何のことだろう。
私が首を傾げると、雑渡さんは首を横に振った。何でもない、と言いながら。だけど、その声色はどう考えても何でもないことはなさそうで、少しつらそうにも聞こえた。


「雑渡さん?」

「なまえ」

「は、はい…」

「私と寝るの、嫌?」

「ね、寝る…とは?」

「分かるでしょ、そのくらい」

「わ…かります…けど…えっ…」

「なまえを私だけのものにしたい。今日はしないけど、近いうちになまえをこの腕に抱きたい。そう思っている」

「ひ、ひぇ…」

「まぁ、無理にとは言わないけど」


ふ、と雑渡さんは悲しそうに笑った。付き合う前に私に乱暴しようとしたことを悔いているのかもしれない。もうそれ自体は怒っていないし、正直なことを言うと雑渡さんに抱かれたい。恥ずかしくて言えないけど、雑渡さんが私を求めてくれなくて実は少し寂しかった。
私が子供だからかな、とか、魅力がないからかな、とかネガティブなことばかり考えては友達に怒られていた。
恥ずかしくて言いたくない。言いたくないけど、雑渡さんが誤解して悲しむのは嫌だ。だって、私は望んでいるから。


「…優しくしてくれます?」

「多分ね」

「多分では困ります」

「仕方ないでしょ。こんなに我慢してるんだから」

「私、初めてなんですよ?優しくして下さいね?」


恥ずかしくて、ぎゅっと雑渡さんに抱き付くと、雑渡さんは力強く私を離した。まじまじと私の顔を覗き込まれる。


「初めて!?本当に?」

「そ、そうですけど…?」

「…あ、そう。へぇ…」

「な、何ですか?私、そんなに遊んでそうに見えました?」

「いや、そうは思ってなかったけどさ。そう、へぇ…」

「雑渡さんと違って経験値が不足していてすみませんね」


ふい、と顔を晒す。雑渡さんは私を何だと思っているのだろうか。雑渡さんが初めて付き合った彼氏なのに。男の人とキスどころか手を繋いだこともなかったのに。
私が拗ねた態度を取ると、雑渡さんは嬉しそうに笑った。


「そう。じゃあ、優しくしないとね」

「そうです。約束して下さいね」

「そうだね。覚えておく。そうか、初めてかぁ」

「またそうやって馬鹿にして…」

「いいや?嬉しいんだよ。なまえの初めてが私で」


穏やかに雑渡さんは笑った。あまりにも嬉しそうで思わず目を逸らす。だんだん気恥ずかしくなってきた。
大切にする、と雑渡さんは耳元で囁いてくれた。顔が熱くて仕方がない。私は明日は学校だし、雑渡さんはまだ月末処理が始まったばかりだ。だけど、雑渡さんと身体を重ねる日が近いことを知った私は嬉しくて、その日が早く来ればいいと思うと雑渡さんとなかなか離れることが出来なかった。


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