12


「なまえに振られそう」

「は?今、何と?」

「…そう何度も言いたいことではない」

「はぁ…何をしたんですか」


ちょっと頭に血が昇ってしまって、と陣内に言うと、陣内は溜め息を吐いた。そう、私はすぐ感情的になってしまう傾向にある。特に、なまえのこととなると歯止めが効かない。
あんな自暴自棄なことをしてしまって本当に反省したし、本当に後悔した。もう二度となまえに会ってはもらえないかもしれない。いや、例え会ってくれたとしても、これまでのような関係を築くことはもう不可能だろう。そう思った。それは明日から連休だというのに、私の心を重く蝕んだ。
なまえと過ごした一ヶ月は本当に特別なものだった。何をしてでも取り戻したいと思うほど、大切なものだった。なのに、自分の手で手放すような真似をした。どんなに悔やんでも過去には戻れない。二度とやり直すことは出来ない。


「どうされるんですか」

「どうしようね…」

「まったく…誠心誠意謝罪するしかないでしょうね」

「そんなことで許してもらえると思う?」

「それは人によるでしょう。それでも、動かないと」

「そうだね…」


多分、許してもらえないだろうけど。だって、あの時私は本気でなまえを犯そうとした。どんなに泣いても抱き潰して、自分だけものにしようとした。潮江くんなんかに渡すくらいなら、私のことを例え見てはくれなくても生涯側に置いておきたいと、そう思った。それがどんなに愚かな行為なのか分かった上でそうしようとした。本当に救いようもない。
あの時、私が止まることが出来たのは幻覚を見たからだ。いや、幻覚というには現実味を帯び過ぎていた。過去に何度も死の淵を歩いたから分かる。あれは私を殺そうとしていた。


「…陣内はさ、過去の自分に会ったことある?」

「はい?」

「いや、何でもない…」


そんなことあるはずがない。成仏できたかは知らないけど、少なくとも過去の私はあの時に死んでいる。だとしたら、あれは何だったのだろうか。なまえを失う恐怖心から白昼夢を見ていたのだろうか。
そして、とても食事を摂る気分にはならず、夕飯を購入することなく帰宅した。とてもではないけど、なまえに会わせる顔がないから、真っ直ぐ家へと帰る。なのに、未練がましくなまえの家のドアを見てしまうのだから、どこまで自分は女々しいのだろうかと本当に情けなくなった。
で。今、何故かこうしてなまえの家で出されたお茶を飲んでいる。夕食を用意してくれていて、だけど、それは私の嫌いな物ばかりで、手の込んだ報復をされているのだと思った。だけど、それは違うと思い知らされる。どれも美味しかったから。どれも食べやすく味付けられていた。こんなにも野菜とは美味しいものだったかと驚いたし、私のことを考えて用意してくれたのかと思うと嬉し過ぎて涙が出そうになった。
なまえは昨日、私のことを好きと言った。それがなまえの本心だと期待したかったけど、一晩考えて辿り着いた答えは絶望感に満ちたものだった。なまえは「好きだった」と言った。過去形だ。仮に私に好意を抱いていたとしても、それは全て過去のことだ。昨夜の愚行で全て失われた。
いや、そもそもなまえは本当に私を好いていたのだろうか。いや、きっと違うだろう。何故か女に好まれる容姿、それなりの学歴、過去からの縁で得た職歴、それに伴って得ている収入。その程度しか私には誇れるところがない。仕事で用いる物は全て高級な物だ。だが、それは私が欲した物ではない。社長に「それなりの物を持て」と言われて購入しただけに過ぎない。私は物に興味がないのだから。使えれば何だっていいし、使えなくなっても興味がないから簡単に手放す。手入れもしないし、私服は安物ばかりだ。だから、なまえと会う時はその中でもマシな物を選ぶことに苦労した。少しでも自分が大人であることを主張できる物を必死に選んだ。中身のない自分を必死に嘘で塗り固め、どうにか好かれようとした。こんな私をなまえが好きになるはずなんてない。空っぽで、つまらない私を好きになるような女はいない。誰からも愛されない。だから、私は誰も愛さない。なまえに会うまではずっとそう決めていた。
なまえは相変わらず残酷なことばかり言った。大学を卒業するまで側にいて欲しいと言ったかと思えば、昨日のことは許さないと言う。相変わらず私を受け入れてくれるのかと思えば、突き放してくる。私を好きなのならば、こんなことはしないだろう。私を好きならば、こんな残酷なことはしない。そう思った。どんどん嫌な思考が私の心を暗く染めていく。そして、また自暴自棄にならざるを得なくなってしまう。


「お前は、残酷な女だね…」

「そうでしょうか?」

「そうだよ…もう、いいんだ。私のことなんて振ってくれて構わない。ここで全て終わろう。もう、私は終わりにしたい」

「雑渡さん。私、まだお願いがあるんです」

「…まだあるの?」

「はい。ここからが本題ですので」


絶望している私をよそに、なまえは柔らかく笑った。同じ空間で同じ話をしているとは思えないほどの笑顔。私の顔とは間違いなく対照的だろう。
もう、死のう。なまえに振られて、死んでしまおう。もう疲れた。もう終わりにしたい。どうせ、ろくでもない人生だった。親に捨てられ、友人らしい友人も一人しかおらず、その友人も私から離れていってしまった。もう仕事以外ではほとんど連絡を取っていない。一部の部下には慕われているのだろうが、会社には私を疎む奴の方が多い。その程度の人間なのだ、私は。ずっと一人だ、私は。そんな人生に何の希望も見出せない。もう終わりにしたい。
もう、何も見えない。なまえの顔すらも。終わりを告げるなまえの言葉を待つ時間は極僅かなものだっただろう。だけど、それは永遠かと思うほど長く、そして、つらく感じた。


[*前] | [次#]
小説一覧 | 3103へもどる
ALICE+