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雑渡さんの様子がおかしかった。雑渡さんはたまにあんな感じになる。悲しそうで、絶望したような顔をして、苦しそうにすることがある。それは例えば付き合う前のあの時とか。あの時のように全部投げ出して、どこかに消えてしまいたいとでも言いたげな自暴自棄な雰囲気はなかったけど、それでも救いを求めるような目をしていた。あの人は何に怯え、誰の許しを求めているのだろうか。
そんなことを考えながらカレーを温めていると雑渡さんが帰ってきた。もう、いつも通りの雑渡さんだった。


「ただいま」

「おかえりなさい」

「あぁ、いい匂いだね。着替えてくる」

「はい」


嬉しそうに寝室へと向かった雑渡さんはやっぱりいつもと同じように見えた。昼間、青い顔をして仕事に戻っていった人と同じだとは思えないくらい、明るい声をしていた。
カレーとサラダを出すと、雑渡さんはサラダをじっと見て溜め息を吐いてから口にした。その後の表情からドレッシングが美味しいと感じてもらえたことが分かり、ホッとする。


「このドレッシング美味しいね。どこで買ったの?」

「自作です」

「自作って…えっ、作ったの?なまえが?」

「はい。気持ち塩を多めにしてみました」

「凄…なに、本気で店出そうとしてるの?」

「してませんけど?どうせ出させる気ないんでしょ?」

「まぁね。なまえのご飯は私のためだけにあればいいから」

「ほら、やっぱり」


この会話もいつも通り。声色も表情もいつも通り。まるで昼間のことがなかったかのよう。
そういえば、と学校に来た理由を聞いてみることにした。


「お昼、何してたんですか?」

「んー?食事?」

「わざわざ私の通う大学でですか?」

「だって、唐揚げが美味しいって言うから。でも、なまえが作る方が美味しいよ。全然美味しくなかった」

「それは言い過ぎです」

「本当だって。期待してたからがっかりしたもの」

「はぁ…」


トロトロになった茄子を口にしながら頷く雑渡さんは美味しそうにカレーを食べてくれた。私の作る物なら何だって美味しいと言ってくれるし、嫌いなはずの野菜も文句一つ言わずに食べてくれる。それが私は嬉しかった。
食器を片付け、新聞を広げている雑渡さんの隣に座ると、肩を抱かれた。これもいつも通りだ。なのに、違和感がある。


「…本当は何しに来たんですか?」

「だから、唐揚げを食べにだって」

「どうしてそんな嘘をつくんですか?」

「嘘なんてついてないよ」

「嘘!私、もう雑渡さんが嘘をついたら分かりますからね」


どうして本当のことを教えてくれないんだろう。私は雑渡さんにとって、本音で話をするような関係ではないのだろうか。信頼されていないのだろうか。そう思うと悲しくて涙が出た。流石に私が泣いたことで雑渡さんはギョッとしたような顔をした後、何か考えている素振りを見せた。そして一瞬つらそうな顔をした後、目を伏せて私を抱き締めてきた。


「大丈夫。私はもう間違えないから」

「…はい?」

「大学は興味本位で行っただけだよ。本当に」

「嘘つき…」

「本当だって。ね?」


確かに雑渡さんは嘘をついているような目はしていなかったし、本当に穏やかに笑ってくれていた。だけど、私にはまだ何かを隠しているようにしか見えなかった。
きっと本当のことを話してくれる気はないんだろう。悲しくて、ワンピースを握り締めた。私がもっと大人だったら雑渡さんは本当のことを教えてくれたんだろうか。私が子供だから雑渡さんはこうして隠し事をするのだろうか。そう思うと無性に悲しくて、また涙が出てきた。私では雑渡さんと釣り合わない、そう感じた。この人を支えたいと思っているのは私だけで、雑渡さんはそれを望んでいないのではないだろうか。例えどんなに愛されていても、このまま一緒に暮らしていけるのだろうか。雑渡さんは私といても幸せにはなれないのではないだろうか。そんなことを考えると涙は止まらなかった。それを雑渡さんは優しく冷たい指先で拭ってくれたし、何も心配しないでと言いながら優しくキスしてくれた。


「あぁ、そうだ。明日は夕飯いらない」

「…出張ですか?」

「いや、新人歓迎の飲み会があるんだよ」

「この時期に?もう6月も半ばですよ?」

「だって新人て5月に本当に驚くほど辞めていくからさ。うちではだいたい毎年6月にやってるんだよ。ホテルで」

「ホテルで?」

「人数が人数だからねぇ…」

「あぁ、そうですね…」


タソガレドキ社の社員さんが全員どころか半分も入れるような居酒屋は多分ないだろう。きっと、ホテルの大広間を使わないと入りきらない。まるでパーティのような規模で行われるんだろうなぁと思うと、改めて凄さを感じる。
本当は行きたくない、と雑渡さんは溜め息を吐いたけど、そんなわけにもいかないだろう。雑渡さんは役職に就いている。行かないのはまずいことくらい私にも分かった。


「じゃあ、明日は唐揚げにしよ」

「えっ。狡い」

「何が狡いんですか。雑渡さん、今日食べたでしょ?」

「なまえの作る方が美味しかったんだって」

「またまた」

「本当だって!ねぇ、次の日にしてよ」

「さぁ。どうしましょうか」


隠し事をされたことを根に持っている私はあえて意地悪を言った。すると雑渡さんはお願いお願いと擦り寄ってきた。これもいつも通り。これもいつもと何も変わらない。
もしも雑渡さんがやっぱり子供の私よりも大人の女性の方がいいと言ったらどうしよう。あっさりと捨てられちゃうんだろうな、きっと。そう思うとまた悲しくなってきて、誤魔化すように私は雑渡さんに抱き付き、優しく撫でてもらった。


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