32


指定された場所に向かうと既に潮江くんはいた。一人の女を巡って争うには随分と趣味のいい所を指定してくる。
席に座り、珈琲を頼む。成る程、流石にファミレスでは私が強く出れないとでも思ったか。確かにこんな人前で彼を殴るわけにはいかない。馬鹿だと思っていたが、案外冷静に物事を見ることが出来ているではないか。ただ、君が喧嘩を売ろうとしている相手が悪かった。私はこれでも知り合いが多いんだ。良くも悪くも、ね。君を社会的に抹殺することくらいなら金さえ積めば簡単に出来てしまうんだよ。
さて。彼を消す前に話くらい聞いてやろうか。なまえを取り戻すのはそれからでも遅くはない。最期の言葉くらい聞いてあげるよ、私はこれでも君よりも大人なのだから。


「で?君はどうしたいの?」

「俺はなまえを愛している。お前なんかよりもずっと」

「へぇ?愛ねぇ…君が使うには随分と仰々しい表現だね」

「俺はお前と違ってなまえを泣かせたりはしない。お前なんかと違って、浮気したりはしない。俺は大切に出来る」

「…また泣いていたの?なまえ」

「見ていられないくらいに、な」

「…あぁ、そう。で?浮気ってなに」


浮気なんてした覚えもなければ、する予定もない。というより、出来ない。なまえ以上に愛しく感じる存在なんてこの世にはいない。そして、私を愛してくれる子もこの世にはなまえしかいない。それをちゃんと分かっているのに、あえて浮気なんて馬鹿げたことを私がするはずがないだろう。
潮江くんは封筒を差し出してきた。既に開封されている。中に手を入れると指先が切れた。中を覗くとカッターの刃が無数に入っている。ゾッとした。何、これ。
ひっくり返して中身を全て取り出すと、悪意を持っているとしか思えない数の刃が入っていた。それと、写真が数枚と手紙が一枚。写真には全て私が写っていた。どれも撮られた覚えのない物だ。それはそうだろう、どれも私は寝ている。手紙を読むと、「彼を返して」とだけ書かれていた。
怒りで手が震えた。どこの女だ、こんな真似をしたのは。


「なまえはお前が過去に付き合った女だと思っている…が、俺にはお前が浮気をしているようにしか見えねぇ!」

「待って。これ、なまえに宛てられた物なの?」

「ポストに入っていたんだとよ」

「あぁ、そう…そうなんだ。そうか、それはそれは…」


残念ながら抹殺しないといけない相手が増えてしまった。どの命知らずがこんな真似をしたんだか。私を本気で怒らせておいて無事で済むとでも思っているのか。
怒りのあまり、写真を握り締める。許せない。よくも私のなまえを傷付けてくれたな。生涯に渡って後悔させてやる。


「まぁ、この話はもういい。私自身の手で責任を持って片を付ける。それで、なまえは今、どうしているの?」

「俺の家で泣き疲れて寝ている」

「念の為に聞いておこう。まさか、なまえに手は出していないだろうね。返答によっては君を山に埋めないといけない」

「生憎、失恋したての女に手を出すほど俺は狡賢くはない」

「そう。それは殊勝なことだね。じゃあ、案外して」

「嫌なこった。知りたければ俺を倒してみろよ」

「…へぇ?じゃあ、場所を移そうか。私が勝ったら案外して」

「望むところだ!」


意気込んでいる潮江くんを連れて公園に向かう。深夜の公園とは不思議なもので昼間と違って恐ろしいほど静かだ。そして、ここは灯りが少なく、人も通らない。高校生の時に嫌というほど利用させてもらった。だが、私が負けたことなどただの一度もない。そのくらい私は喧嘩が強かったし、少なくとも潮江くんなんかに負ける気はしない。


「さて。君はどう出るのかな?」

「おっさんに負けねぇよ、俺は」

「そう。それは楽しみだよ」


潮江くんは私に殴りかかってきた。非常に単純な動きをしている。全てかわしてもまだ私の方が余裕がある。潮江くんの顎を肘で突き、ネクタイを外して首を絞めた。


「ぐぅ…っ」

「さて、約束だ。なまえの所に案内して貰おうか」

「ちっ…くそぉ!何でだよ!何でそんなに強いんだよ!」

「昔取った杵柄、じゃない?」


今ほど過去に忍びをしていてよかったと思ったことはない。負けるはずがない、過去に一度も私に勝てなかった君に。
潮江くんは今も昔も単純な子だった。あっさりと家に案内してくれたのだから。私ならこんな真似はしない。なまえのためなら命を賭けてでも最期まで立ち向かう。
案内された家はお世辞にも綺麗とは言えず、ベッドでなまえはすやすやと眠っていた。恐らくは潮江くんの物であろう服を着て。そう、お前はそういうことをするような女だったのか。悪い子だね、なまえは。これは教育が必要だ。
なまえを叩き起こそうとしたら、背後から気配を感じた。咄嗟に避けると潮江くんは悔しそうに舌打ちをした。


「懲りないね、君も。私には勝てないとまだ分からない?」

「俺はな、諦めが悪いんだよ!」

「そう。それはそれは…愚かだね」


首を狙って蹴りを入れる。潮江くんはあっさりと倒れた。これ、近所迷惑だよ、絶対。その物音でなまえは目を覚ました。状況が掴めていないからか、呆然としている。


「なまえ、帰るよ」

「い、嫌…っ」

「うるさい。帰ると言ったら帰るんだ!」

「嫌!雑渡さんは私のことなんて全然信頼してくれていないじゃない!だから何も話してくれないんでしょ!?私が子供だから、だから私のことを信じてくれないんでしょ!?」

「へぇ、そう思うんだ…お前、いいね。頭が悪くて」

「悪かったですね!」

「私がどれほど思い悩んでいるのかお前に分かるの!?」

「そんなこと、分かるわけないでしょ!だって雑渡さん、どんなに聞いても嘘ばっかりついて、何も教えてくれないじゃない!悩んでいることは分かっても、その理由も教えてもらえないのに私にどうしろと言うのよ!ちゃんと言ってよ!」

「言ったところでお前、受け入れられるの?どうせ無理なんでしょ!出来もしないくせに偉…そうに…?」


なまえと言い合っていると、背後から恐ろしいほどの殺気を感じた。だけど、これは過去の自分のものとは明らかに違う。ゾッとして振り返ると、潮江くんの拳が鳩尾に入った。避けられなかった。私は汚い床に倒れ込んだ。
なまえは悲鳴をあげた。霞む視界で潮江くんの顔を見ると、潮江くんは自分の右手をまじまじと見つめていた。


「お、おぉ…初めて勝った…」


その一言で私は全てを察した。よりにもよって、このタイミングで思い出してしまったか。これは血が流れることになりそうだし、負かすのは骨が折れそうだ。喧嘩は負け知らずといっても私は別に今現在、鍛えているわけではない。体格差はあるとはいえ、私の方が歳だ。分は悪いかもしれない。
なかなか起き上がれずにいると、潮江くんは寂しそうに笑った。悪かったな、とでも言いたげな顔をしている。


「…もう、退いてくれるんだ?」

「まぁなぁ。俺、勝ち目ねぇし」

「どうだか」

「既に振られてるしな、前に」

「それはあの子の本意ではないかもしれない」

「いいや。結構バッサリ振られた」

「…あぁ、そう」


床に散らばった教科書が目に入る。たくさんマーカーが引いてあるし、たくさん付箋が貼ってある。相変わらず勤勉というか、努力家というか…本当、愚かというか。


「君さ、卒業したらうちに来なよ?しごいてあげるから」

「冗談じゃねぇ。曲者と働くなんて俺は御免だ」

「それは残念」


はぁ…と溜め息が出た。よかった、終わった。
駆け寄ってきたなまえの涙を指で拭ってやる。また泣かせてしまった。だけど、どうにか過去を変えられた。間違えそうにはなったけど、ちゃんと修正できた。
ただ、まだ終わっていない。封筒の差出人はまだ分かっていないし、調べた上で抹消しないといけない。だけど、ちょっともう今日は疲れた。もう朝が近い。空腹だし、凄く怠い。少し休みたい。流石にもう体力の限界だ。
私はなまえを抱き寄せて眠った。本当は潮江くんの家の床で寝るつもりなんてなかったけど、安心したら急に怠くなった。環境が環境なだけに、あまり熟睡は出来なかっただろう。だけど、その日私は不思議な夢を見た。過去に実際にあったことではなかったけど、なまえが出てきてくれた。「よかった」と言って笑いながら。そうだね、本当によかった。そして、君の愛情を疑うようなことを考えて本当に申し訳なかった。君は、なまえは私のことをちゃんと愛してくれていたんだね。ありがとう、私も愛していたよ。だけど、私は君ではなくてなまえが好きなんだ。どうしてかな、似ているようで違うんだ。不思議なことだと自分でも思う。だけど、許して欲しい。なまえを愛しいと思う気持ちはもう止められないし、止めたくもない。だって、やっと最悪の未来を変えられる可能性を信じられるようになったのだから。


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