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「雑渡様、お待ちしておりました。今日もこちらのお嬢様とご一緒なのですね。雑渡様のご友人でしょうか?」

「いや、私の彼女」

「まぁ。それは失礼致しました」

「あいつ、もう来ている?」

「ええ。お待ちですよ」

「そう。じゃ、ビール持って来て。あと、ジュース」

「かしこまりました。オレンジでよろしいですか?」

「は、はい…」


別に時間に遅れてもいないのに既に来ているあの男が相変わらずなことを知る。真面目なんだよね、私と違って。
長い廊下を歩いていると、なまえが申し訳なさそうにしていることに気付いた。どうせこんな高い所にまた連れて来て貰って申し訳ないとでも思っているのだろう。どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。もっと高級な所に連れて行ってあげたいとさえ思っているのに。相変わらず遠慮がちというか、何というか。お陰で毎月金が余っているよ。


「そういえばさ、私の年収をあの時に知ったわけじゃない?あの後、ちゃんと学校で自慢して回った?」

「何の自慢ですか?」

「年収1000万超えの彼氏がいるって」

「そんなこと言うわけないでしょ」

「どうして?驚かれるんじゃない?」

「だって、凄いのは雑渡さんであって、私じゃないのに何で自慢になるんですか?私は何も凄くないんですけど」

「あぁ、成る程。本当にお前はいい女だね」

「はい?」


こういう心の綺麗な子は私が知らないだけで他にもいるのだろうか。まぁ、別にいても関係ないけど。
襖を開けると、スーツを着た男が座っていた。予想通り日本酒を既に飲んでいる。私となまえを見て手で座るように促される。何でお前が偉そうなんだ。ちゃっかり上座にいるし。


「し、照星さん!?」

「こんばんは、なまえさん」

「お前、今日仕事だったの?」

「そうだが」

「弁護士先生も大変ですね」

「半分はお前のせいだ」


内容証明を送った全ての家庭が裁判を起こすことになったと予め聞いていた。まぁ、そうだろうね。予想通りだ。
なまえは何も言わなかったが、静かに顔を青くしていた。


「大丈夫。なまえに対して例えどんなに怒ろうともこんなに追い込むことはしないから。せいぜい監禁程度だよ」

「それも嫌なんですけど!?」

「じゃあ、私を本気で怒らせないことだね」

「…はい」


やり過ぎだとなまえには散々言われたけど、別にやり過ぎたとは微塵も思っていない。むしろ、まだ生ぬるいくらいだ。自殺するまで追い込まないだけ感謝して欲しい。写真を提供した女も無事に全員退社したし、この件は終わりを遂げようとしていた。後は私の仕事ではない。
畳に座ると、見計らったように女将が酒と料理を運んできてくれた。一つはあらかじめ品数を減らしてもらい、食後の甘味を増やすよう伝えてあったが、それでもまだ多そうだ。


「あぁ、君は酒を飲まないのか。関心だ」

「まだ19なもので…」

「私は飲んでもいいと思うけどね。お前、うるさいから」

「当たり前だ。法で禁じられているんだぞ?」

「頭が固いね、相変わらず」

「お前がおかしいんだ。で?話とは何だ」

「あぁ」


照星の事務所に私から連絡を取った。仕事以外で、だ。そんなことはしたことがなかったし、するつもりもなかった。このまま照星とは仕事の関係でいようと、そう思っていた。だけど、照星となまえがあの日会った後、なまえに言われた。本当は関係を元に戻したいと思っているのではないか、と。そんなこと言われるなんて思ってもいなかったし、どうして分かったんだろうと驚いた。それだけ私のことを理解しているのか、と思うと嬉しかったし、なまえがいてくれたら少しは素直に照星と向き合えるかもしれないと思って今日の席を設けたのだ。
ただ、何と切り出せばいいのかよく分からない。喧嘩したというわけでもなく、私から距離を置いたまま何年も過ぎただけなのだから。一度捨てた物を拾うのは得意ではない。


「お前、あの女とはまだ付き合っているの?」

「そう思うか?」

「いいや、思わない」

「なら、聞くな」

「はぁ…お前、本気の恋愛したことあるの?」

「お前こそ、なまえさんのことは本気なのか?」

「本気だよ。今日から同棲し始めたし」

「同棲?お前がか?」

「凄いと思わない?この私が女と住むなんて」

「凄いというよりは信じられない」

「ねぇ?」


幼い頃からの付き合いのある照星ならそう思うだろう。男とでさえ慣れ合うことを嫌う私が女と暮らすなんて。
なまえのグラスにジュースを注ぎ、自分のグラスにビールを注ぐとなまえは恐縮していた。この酒の席に慣れていない感じが何とも可愛らしく感じる。何年経ってもこのままでいて欲しいと思っているが、無理だろうか。


「あの、お二人は長い付き合いなんですか?」

「あぁ。孤児院で0歳から一緒だからな」

「こじいん…こ、孤児院!?」

「なんだ、言っていなかったのか」

「どのタイミングで言うの、こんなこと。別に面白い話でもないし自ら言うようなことではないでしょ」

「そうだな」

「えっ、雑渡さん、孤児院で育ったんですか?」

「そうだよ」

「てっきりお金持ちのご家庭で育ったものだと…」

「えっ、逆に何でそんな風に思ったの?」


孤児院と聞いて驚かれることはあっても、裕福な家庭で育ったと言われたことはなかった。どう見ても私はそんな上品な男ではない。未成年で飲酒も喫煙もギャンブルも経験した。ギャンブルは何が面白いのか分からなくてすぐにやめたけど。座り方も物の扱い方も決して上品とはいえないだろう。
私が首を傾げると、なまえも首を傾げた。


「雑渡さん、所作が綺麗なので。特に食事の」

「そう?」

「そうですよ。厳しく教育されたと思っていました」

「あぁ、まぁ一般的なマナーは会社に入ってから指導されたけど。接待で相手に悪い印象を与えないようにね」


それこそ、潮江くんのような食べ方をしたら契約なんて到底取れない。まぁ、あれはあれで私は好きだけど。
孤児院育ちだと言うと、だいたい同情される。親がいなくて可哀想、とか、苦労したんだね、とか。別に同情されるようなことはない。親を知らないから自分が可哀想なのかよく分からないし、苦労というほどの苦労もしていない。強制労働をさせられたわけでもなく、ちゃんと三食与えられ、教育を受けられたのだから。だから世間の意見との乖離に疑問を昔は持っていた。今なら何となく分かる、要は自分が私よりも上だと思いたいのだろう。そして、自分が幸せであることを再確認する、と。人は他と比べたがる生き物だから仕方がないことなのだと思っている。
さて、なまえはどう反応するのだろうかと思ながら様子を伺っていると、照星も同じような顔をしていた。こいつも私と似たような経験をしてきているのだろうが、こんなことで人の彼女を値踏みしないで欲しい。別に私はなまえに同情されようとも何とも思わない。それが一般的な反応なのだなと思うだけだ。今さら不快に思わない。


「そっか。雑渡さんはやっぱり凄いですね」

「なにが」

「雑渡さんの食べ方が綺麗なのは雑渡さんが努力したからってことでしょ?それも大人になってから。たくさん努力したんだなぁと思って。頑張ったんですね、雑渡さん」


そう言ってなまえは笑い掛けてきてくれた。
あぁ、そうだ。なまえはそういう子だった。私が苦労したことを認めてくれる。褒めてくれる。それも、決して上からではなく、ちゃんと同じ目線で。本当にいい子だと思うし、この子に好きになってもらえて本当によかった。


「…随分といい子のようだな」

「羨ましいでしょ」

「そうだな。お前には勿体無いくらいだ」

「あげないから」

「そんなこと言うはずがないだろう」


照星は嬉しそうにグラスに冷酒を注ごうとした。だから、それを奪って注いでやる。照星は意外そうな顔をしたけど、特に何も言わなかったし、私も何も言わなかった。
静かな空間だったが、確かに感じた。また元のように酒をこれからも飲むことが出来ることを。この空気は私が作り出したものでも、照星が作り出したものでもない。なまえが与えてくれたものだ。本当に大した子だ。到底敵わない。
照星に目線で今まで悪かったと伝えた。特に言葉にはしなかったが、照星にはちゃんと伝わったようだった。目を伏せて穏やかな顔で笑っていたから。


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