39
必死に走って家へと向かう。大丈夫、まだ間に合うまだ間に合うと自分に言い聞かせながら必死に必死に走った。
だけど、玄関を開けてすぐに手遅れだと分かってしまう。
「…おや。おかえり」
「ぎゃあ!間に合わなかった!」
雑渡さんの帰宅よりも早く家に帰らないとと必死に走ったのに、残念ながら家には既に雑渡さんがいた。それも、玄関で仁王立ちをして。予想通りかなり怒っていた。
雑渡さんは腕を組んだまま、俯いた私の顔を覗き込んだ。
「ちょうど今、電話をしようとしていたんだよ」
「え、えへ…遅くなってしまいまして…」
「確か、カフェでお友達とレポートを書くと言っていたね」
「…はい」
「で、17時に今から帰ると私にメールを送って来た」
「………」
「おかしいなぁ、今、何時なんだろうね?」
「じ、19時半です…」
だって、頑張ったけど終わらなかったんだもの。いや、まぁ全く話をせずにやったのかと言われたら違うけど。だけど、一生懸命やった。なのに、終わらなかった。雑渡さんに帰るのが遅くなるなんて言ったら駄目だと言われることは目に見えていたし、雑渡さんよりも早く家に帰れば大丈夫だと思った。だけど、残念ながら間に合わなかった。
この間の件で雑渡さんが本気で怒るとかなり怖いことを知っていた私はビクビクしながら雑渡さんの顔色を伺った。一見、穏やかに見えるのがまた怖い。怒鳴るわけでもなく、責めるわけでもなく、ただただ静かに怒っていた。怖すぎる。
「なまえは私に言った。嘘をつくな、隠し事をするな、と。で?なまえはいいんだ?そう、それは知らなかった」
「ち、違うんです!本当に間に合うと思ったんです!」
「間に合う、とは私の帰宅のこと?つまり、私にバレなければいいということだね?そう、お前は男を家にあげていたことを隠していた時から何も変わってはいないということか」
「そ、そうですね…」
「そう。それは残念だよ」
「………」
いや、違う。本当は17時に帰ろうと思った。後は家で仕上げようと思っていた。だけど、丁度その時に会話が盛り上がってしまい、気付けば18時だった。もうどうせなら19時までやろうと思ったのが間違いだった。判断ミスをした。
雑渡さんは本当にパッと見た感じでは、いつも通りだ。だけど、放つ雰囲気は酷く冷たいもので、ひしひしと怒りが伝わってくる。もう何の言い訳も出来ないし、そんなことさせないという雑渡さんの空気が怖い。逃げ出したいのに逃げることも出来ないくらいの空気だ。蛇に睨まれた蛙のような気分だ。怖くて身動きが取れない。あまりにも怖過ぎて涙を溜めながら私が震えていると、雑渡さんが静寂を破った。
「信頼、とは何だろうね?なまえ」
「えっ」
「なまえは自分を信頼して欲しいと言った。そうだね?」
「はい…」
「信頼。私が知っている意味とは少し違ったようだね。こんな嘘をついて信頼しろとは私なら到底言えないもの」
「あ、あの…あの…」
「私は思い違いをしていたようだね。まぁ、もういい」
そう言って雑渡さんはリビングに向かっていった。慌てて後を追うと、雑渡さんはいつものようにネクタイを解き、ジャケットを脱いでいた。本当にいつも通りの雑渡さんなのに、とても怒っていることがハッキリと分かる。どうしよう、これが雑渡さんの怒り方なんだ。怖過ぎる。
私は恐る恐るキッチンへ行き、静かに冷蔵庫を開けた。
「まさか、これから作る気なの?」
「…今日は唐揚げにしようかと思って仕込んであるんです」
「そう言えば私が許すとでも思っているの?」
「いいえ!そこまでは思っていませんから!本当に!」
「そう。でも、今日はもう夕飯は要らない。残念ながらなまえと一緒になんて食べる気にもなれない。私は外で食べてくるから、なまえも一人で食べるといい。お金なら置いていくから出前でも何でもなまえの好きに使いなさい。じゃあね」
「ま、待って…待って下さい!」
部屋着ではなく私服に着替えた雑渡さんはお金をテーブルに置き、玄関から出て行ってしまった。私は慌てて追い掛け、雑渡さんを後ろから抱き締めて引き止めた。
「雑渡さん、ごめんなさい!もう二度としません!」
「一つ、いいことを教えておいてあげよう」
「…はい?」
「私は泣きながら縋られたところで許しはしないし、むしろこうすれば許されるだろうという思考が見て取れるようで好きではない。不愉快だよ。分かったら離れなさい。邪魔だ」
冷たく腕を払われ、雑渡さんはエレベーターの方へ歩いて行った。こちらを一度も振り返ることもせず。こんな雑渡さん、見たことがない。あまりにも冷たくて涙が溢れ出た。
縋っても無駄だと言われても、ここで追い掛けないという選択肢は私にはなかった。あんなにも怒っている雑渡さんを放っておいたらどこかに行ってしまいそうだったから。もう二度と雑渡さんと関わることが出来なくなると思ったから。
雑渡さんの歩く速度は速く、私は走って追い掛けた。ただ、残念ながら私は運動が得意ではない。べしゃっと転んだ。
「痛…っ」
膝から血が出ていた。さっき走って帰って来たばかりだったから、足がもつれてしまったのだろう。どうして私は昔から運動が苦手なんだろう。こうも鈍臭いのだろう。雑渡さんを追い掛けたいのに、きっともう追いつけない。
私がボロボロと座り込んで泣いていると、頭上から呆れたような声が聞こえた。その声色はさっきほど冷たくない。
「…まさか、私の気を引くためにわざと転んだの?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
「はぁ…早く帰って傷口を洗いなさい。お大事に」
「雑渡さんが洗って下さい」
「は?どうして私が。自分でやりなさい」
「私、痛いのは無理なので自分で出来ません。このまま放置します。放置したら膿んでしまうかもしれませんけどね」
「…成る程、そう出るか。お前は本当に狡い子だね」
雑渡さんは悔しそうに溜め息を吐いた後、私を立たせた。そして、家のお風呂でシャワーを当てて、丁寧過ぎるほどよく洗ってくれた。痛かったけど、私は安心した。雑渡さんの雰囲気が怒ってはいたけど、私が知っているものだったから。
「もしも膿んだら明日、病院に連れていくから」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟?」
「あ、いえ、何でもないです」
「そう。反省なさい」
「それは、何に対してですか?」
「全て」
ポンポンとタオルで優しく水分を取ってから雑渡さんはペタッと絆創膏を貼ってくれた。手先が器用な人のはずだけど、雑渡さんの手は震えていた。
それは雑渡さんが過去に私を突き放したせいで死なせてしまったと後悔しているからなのだろうか。私が転んだのは確かに雑渡さんを追い掛けたからだけど、別に雑渡さんは何も悪くないのに。そして、流石にこんな膝を擦りむいたくらいで死なないだろうし、私もこんなことくらいで死んだら困る。
「あの、ごめんなさい、雑渡さん」
「…あのさ、どうして私が怒ったか分かる?」
「嘘をついたから?」
「それもある。嘘の質があまりにも悪い」
「嘘の質?」
「私はね、なまえを夜に一人で出歩かせたくないんだよ。何かあったらどうするつもりなの?遅くなるのなら、せめて連絡して欲しかった。そしたら迎えに行ったのに…家に帰ってきてなまえがいなかった時、どれだけ私が焦ったか分かる?」
「大袈裟ですって。まだ19時台ですよ?」
「あのね。昼夜に限らず不審者は出るよ。ただ、日が暮れると人が少なくなって、誰にも助けてもらえないでしょ」
「あぁ、まぁ…」
「私が言っているのはそういうこと。なのに、なまえは平然と嘘をつき、私にバレなければいいと考えている」
「だ、だからごめんなさいって…もう二度としません」
「どうだか」
「本当ですって」
結局、私は雑渡さんと一緒に唐揚げを食べた。雑渡さんはまだ怒っていたけど、サクサクと音を立てながら私が作った唐揚げを食べてくれた。いつものように美味しそうに。
嬉しくて私が笑うと、雑渡さんは不快そうな顔をした。
「何がそんなに可笑しいの」
「雑渡さんに嫌われていなくてよかったと思って」
「こんなことくらいで嫌いになるほど私の愛は軽くない」
「あと、雑渡さんて怒ると怖いんだとよく分かりました」
「…お前ね、本当に反省しているの?」
「していますって。本当です」
もう、と雑渡さんは溜め息を吐いてからお味噌汁を口にした。ゆっくりとだけど、雑渡さんの怒りが溶けていくのが分かる。怪我の功名ってこういう時に使うのだろうか。
私は雑渡さんに酷いことをした。嘘をついたし、隠し事をしようとした。きっと、呆れられたり嫌われたりしても仕方のないことだ。だけど、雑渡さんはそうならずに私のことを心配してくれた。その気持ちが私は嬉しかった。
ごめんなさい、と私が言うと雑渡さんは「それはもう聞いたよ」と言った。私には雑渡さんはもうこの話題を終わらせたそうに見えた。だから私は大好き、と言った。すると雑渡さんは驚いたような顔をした後で「本当にお前は狡い子だね」と言った。いつものように赤い顔をして。
[*前] | [次#]
小説一覧 | 3103へもどる