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新聞を見ながら溜め息が出た。普通ならとっくの昔に落とせているはずの案件なのに、全然落とせない。いや、もう落ちそうなのだ。なのに、いざ落としにかかるとかわされるというか…最早経営は火の車であることは株価を見ても明らかだ。さっさとうちに買収されればいいものを、何をそんなに頑なに粘っているというのか。
何か前もそんなことがあったなぁと思いながら新聞を閉じると、なまえが淹れたての珈琲を持ってきてくれた。


「あぁ、そうだ。なまえだ」

「はい?」

「こう、落とせそうで落とせない感じがよく似ている」

「…えっ、何の話ですか?」

「仕事の話」


もうすぐ買収出来そうなのに出来ない。こんなにも時間を要するとは思わなかった。頑固というか、芯の通った感じが誰かに似ていると思っていたけど、なまえに似ているんだ。
珈琲を口にしながらなまえの肩を抱く。容姿はあの男とは似ても似つかないけど、性格がなまえとよく似ている。だからここまでこの私が苦戦を強いられているのだろう。やりづらいと思っていたけど、なまえに似ているからというのなら納得も出来る。私はなまえには敵わないのだから。
とはいえ、そろそろ落とさないとマズい。これ以上経営が悪化してしまったら買収する意味がなくなる。どうしたものかと私が思い悩んでいると、なまえが首を傾げた。


「珍しいですね、そんなに悩むなんて」

「んー…」

「そんなにもいい会社なんですか?」

「いや?そうでもない」

「じゃあ、どうしてそんなにこだわるんですか?」


なまえは不思議そうに言った。確かに、これまでも似たようなことがなかったわけではないが、時間と労力の無駄だと思えばこちらから早々に引いた。だけど、今回はどうしても欲しい。というか、どうしてもあの会社を潰したくない。そう思ってしまう。その理由は分からない。


「何か、放っておけないんだよね」

「そこの社長さんですか?」

「そう。今時、信じられないくらいの古風な発想をする奴で、頭も非常に固い。だけど、話をしてみると案外優しいというか、お人好し過ぎるというか…悪い奴ではないんだよね」

「珍しいですね、雑渡さんがそんなことを言うなんて」


そう、珍しい。というより、私らしくない。仕事は仕事だ。思い入れなんてしていたらキリがないし、精神的にも持たない。なのに、どうしてもこだわってしまう。部下にも珍しいと散々言われているし、社長に至っては呆れている。だから、そろそろ決着をつけなければいけない。
この状況がなまえと付き合う前に似ているのだとしたら、強引に迫ってみるか。そう思い、翌日に決行した。買収されることの利点を述べ、社員の保証をする旨を伝えた上で今の会社の状況を考えると大人しくサインした方がずっと利口だと迫ってやった。すると、面白いくらい簡単にそれに応じた。あまりにもあっさりと思い通りに終わり、拍子抜けした。


「…はい、じゃあここにも判を押して」

「………」

「どうも。じゃあ、私はこれで」


書類を纏め、小さな事務室を出ようとすると、背後から罵声を浴びせられた。いつものことだし、慣れているとはいえ、何だ、こいつも所詮はこんな感じなのかとがっかりする。折角、この私がここまで思い入れてやったというのに。
振り返って、いつものようにわざとらしく神経を逆撫でしてやろうと思って顔を見ると、ふと妙なことに気付いた。


「………?」

「何だ、わざわざ人を馬鹿にしに戻ってきたのか!?」

「いや、何か…」


一瞬、なまえに似ている気がした。弱気になると目元が下がるところとか、目線を逸らした時の表情が妙に類似している気がする。だけど、こうして改めて見ると全然似ていない。
私が首を捻っていると、また怒鳴り始めた。うちに買収されたからって、そんな怒らなくても。むしろ喜んで欲しいくらいだ。危うく潰れるような会社だったのにタソガレドキ社が今後は出資することになるから経営は間違いなく安定する。尋常ではないパイプを持っているのだから。売り上げを多少引かれるにしても、今よりも絶対に儲けになる。頭の悪い奴はそれに気付けずに社長に噛みついて終わりを迎えるけど、こいつはそうならないと思っていた。だけど、これも駄目かもしれない。せっかく人が骨のある男だと社内で評価してやったというのに、とんだ過大評価だったようで心底呆れた。


「何かなぁ…ちょっと、がっかりだよ」

「うるさい!早く帰れ!」

「はいはい。言われなくても帰るよ」


ドアを開けて外に出ると日差しが厳しかった。あぁ、もう7月だ、今年も夏が来たな。冬と比べると夏の方が過ごしやすいとは思っているが、職業柄スーツを着込まなければならず、また、外ではどんなに暑くてもジャケットを脱ぐこともネクタイを緩めることも我が社では許されてはいなかった。こんな小さな田舎町だ、どこで誰が見ているかも分からない。だから、仕事中は気を抜くなとの命を社長から受けている。ただ、こちらとしては死ぬのではないだろうかと毎年思っている。というか、倒れそう。
溜め息を吐いてから歩き出すと、おい、と声を掛けられた。


「なに?」

「持って行け」

「は?」

「いいから持って行け。今日は暑いからな」


そう言って私に冷えたペットボトルを手渡して、勢いよく会社のドアを閉めた。えっ、さっきまで怒っていたのに、わざわざ私にこれを渡しに来たということ?それも、買収されたばかりで、私を恨んでいるというのに?どこまでお人好しというか、馬鹿なんだろう。気が知れない。
まぁ、折角だから…と水を飲み、どうにか暑い中外回りを済ませ、帰社する。買収出来たと言えば苦労を労われたが、これでよかったのだろうかとも疑問に思い、喜ぶに喜べなかった。何か他に道はなかったのだろうかと、また自分らしからぬことをつい考えてしまう。何故、私はあの男にここまで思い入れているのだろう。理由が分からなくて気持ちが悪い。
仕事を終えて家に帰るとリビングはエアコンでよく冷やされており、日が暮れたというのに蒸し暑い中帰宅した私には天国のように感じた。ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながらソファに座ると、なまえが冷たいお茶を持ってきてくれた。透けたグラスに浮かぶ氷がより清涼感を醸している。


「お疲れ様です。今日、暑かったですね」

「8月が怖いよ、本当」

「頑張って。今日、肉じゃがですから」

「えっ、やった。すぐ食べたい」

「先に着替えた方がいいですよ?」

「いいよ、もう。すぐ食べたい」

「もう…困った人ですね」

「だって、お腹空い…んー?」


あれ、やっぱりなまえとあの男は似ている気がする。いや、でも似ていないのか?二人隣に並べてみないと分からない。
私が首を捻ると、なまえも首を捻った。その表情があまりにも可愛くて、気のせいかと思い直す。なまえとは似ても似つかない。あまりにもなまえが好き過ぎて遂に仕事中も似たものを追い求めるようになってしまったか。末期だな。


「どうかしましたか?」

「いいや?それより、早く食べよ」

「…着替える気はないんですね?」

「うん」

「はぁ…玉ねぎ多めですよね?」


呆れたような顔をするなまえを横目に煙草を一本手に取る。何気ない日常なのに、とても幸せを感じる。だからといって、あんな男になまえを投影するなんて失礼な話だったな。
この時はそう思った。だから、なまえに父親のことも実家のことも特に何も聞かなかった。ずっと一緒にいるのだから、特別詳しいなまえの情報などなくても良いと考えていたのだ。それが大きな間違いであったことは今はまだ知らない。


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