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もう二階から骨が折れる覚悟で飛び降りるしかないだろうかと思っていると、チャイムが鳴った。これはチャンスと言わんばかりに階段をゆっくりと降りる。父が応対中にベランダから抜け出そう。靴は後日取りに来るしかない。そう思い、そろそろとベランダを開ける。裸足で帰るのは嫌だけど、このまま家に閉じ込められるくらいなら両足から血が出る方が遥かにマシだと思った。例え雑渡さんから怒られようとも。
芝生に足を下ろし掛けた時、玄関先から雑渡さんに名前を呼ばれた。聞き間違いではないかと初めは思ったけど、ドアを恐る恐る開けると雑渡さんがいた。私を見るなり安心したように笑ってくれた。嬉しくなって私は雑渡さんに抱き付いた。雑渡さんは肩で息をしていた。凄く苦しそうだけど、まさかここまで走ってきてくれたのだろうか。絶対に走らないと言っていたあの雑渡さんが。
そのまま雑渡さんは玄関に座り込んでしまった。心配になって顔を覗き込むと、大丈夫だよと言いたげな顔で笑い掛けてくれた後、抱き寄せられた。私が水を持ってこようとする前に、父の手で雑渡さんにペットボトルが渡される。それを雑渡さんはぐびぐびと飲み、ようやく一息吐いた。
「なまえ、離れなさい!この男に近寄るな!」
「どうしてそんなこと言われないといけないのよ!」
「はいはい。二人とも落ち着いて」
「どうしてお前が落ち着いてるんだ!いっておくが、なまえは貴様には絶対に渡さないからな!俺は絶対に許さん!」
「そんなこと言う筋合いはないでしょ!?」
「俺はなまえの父親だぞ!?」
「今さら父親みたいに振る舞わないでよ!」
「いや、二人とも落ち着きなさい。近所迷惑だから」
雑渡さんだけが落ち着いている。どう見ても奇妙な光景だ。
雑渡さんは溜め息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がった。そして、父を見てから困ったように溜め息を吐いたかと思えば、父に向かって深々と頭を下げた。
「悪いね、私がなまえの男で。挨拶が遅れて申し訳ない」
「だから、許さんと言っているだろうが!」
「というより、こんな人に頭なんか下げないで下さい!」
「あのね。私はずっと挨拶に来ようと言っていたよね?あの時に来ていれば、少なくとも状況は今よりはマシだったよ」
「どうしてですか!?」
「昨日、この男の会社を買収したからだよ。なまえの父親だと知っていたら、流石にもう少しやり方を変えていた」
「買収…やっぱりそうでしたか」
「あれ、知ってたの?」
「雑渡さんが前に手帳にメモしていた会社にうちがありましたから。そうですか、買収…あなたが守りたかった物が遂に一つもなくなったのね!いい気味!バチが当たったのよ!」
「なまえ」
「私はあんたなんか嫌い。大嫌い!」
「なまえ!いい加減にしなさい!」
私が父に向かって怒鳴ると、雑渡さんに怒られた。どうして私が雑渡さんに怒られないといけないの。私は何も悪くないのに。確かにこの男は昔、私の父親だった人かもしれない。だけど、もう親子関係は絶たれている。血縁だと思われることが嫌で名字も変えたくらい嫌っている。
なのに、雑渡さんは心底呆れたような顔をして言った。
「二人とも落ち着いて。一度、話し合う必要がある」
「話すことなんて何もありません!」
「というより、貴様にそんなことを言われる筋合いはない!お前は部外者だ!俺はお前のことは絶対に認めない!」
「…じゃあ、前もって言わせてもらうけど、私はなまえを愛している。特に誰の許可を得る気もない。誰から反対されようとも私はなまえの側を離れる気も離す気もない。絶対にだ」
「貴様!」
「いいから落ち着きなさい。二人とも想いは同じなのにすれ違っている。なまえ、あの男はなまえを突き放したわけでも捨てたわけでもない。なまえが大切だから身を引いたんだ」
「嘘!」
「そうなんでしょ?」
「………」
「で。なまえはなまえで甲斐甲斐しく家事をこなし、母親の代わりに父親を支えようとした。父親が大切だったから」
「…違うもん。違うもん!」
「二人とも似ているんだよ、恐ろしいほどに。お互いのためを思って行動しているのに、すれ違っているだけだよ」
雑渡さんはまた溜め息を吐いた。呆れたように。
この男が私のためを思って身を引いた?そんなこと信じられない。そのくらい私は冷たくされた。大学にも行くことを諦めて家を守ろうとしたのに、この人は私を捨てた。勝手に願書を出して、勝手に私の荷物をまとめ、勝手に一人暮らしをすることを決められた。私の気持ちを全て無視して。
許せなかった。お母さんが亡くなってからずっと仕事に夢中になって、私もお母さんも初めからいなかったかのように扱われたことが。そうしてまで大切にしていた会社が雑渡さんの手によって失われたのなら、ざまぁみろと思った。なのに、縁を切っていた父親のはずなのに、どうしてこんなにも悲しいんだろう。どうしてあの男はあんなにも悲しそうな、苦しそうな、泣きそうな顔をしているんだろう。
「…部外者が首を突っ込む問題ではない」
「私だって突っ込みたくて言っているわけではない。ただ、あんたのせいでなまえが傷付いていることが許せなかっただけ。まぁ、二人とも一度落ち着いてよく考えてみるといい」
じゃあ帰るよ、と雑渡さんは私の肩を抱いた。自然な流れで玄関から出ようとすると、父はまた怒鳴った。雑渡さんは面倒くさそうにチッと舌打ちをした後、父を睨んだ。
「さっきも言ったけど、私はなまえから離れる気はない。別にあんたの許可が得られなかろうが、別れる気など微塵もない。そして、今の状況で二人一緒にいても絶対にいい結論には到達しないでしょ?今日はそっちが退くべきだ」
「何故、俺がお前の言うことを聞く必要がある!?」
「なまえの家なら知っているね?その隣が私の家だ。文句があるならいつでも来てくれて構わない。なまえは渡さないけど、文句ならいつでも聞いてやる。あぁ、それとさ。明日タソガレドキ社に必ず来て。分かった?これは上司命令だ」
雑渡さんがそう言うと、父はそれ以外は特に何も言わなかった。きっと雑渡さんに言いくるめられて悔しがっているんだろうな。あの人は上司命令、と言われたら断れないような固い人だ。流石雑渡さん、よく分かっているんだなぁ。
門を出て、雑渡さんと二人手を繋いで歩く。今、何時なんだろう。お腹が空いたなぁと思いながら雑渡さんを見ると、雑渡さんはお腹が空いたと言葉にした。なので、駅前のファミレスで食事を摂ってから帰ることにした。
「はぁ…生きた心地がしなかったよ、本当」
「私もです。もう少しで裸足で逃げるところでした」
「そんなことにならなくてよかったよ」
「何なら二階から飛び降りる覚悟でしたからね」
「は!?そんなこと絶対にしたら駄目だからね!?」
「そうですね。雑渡さんが助けに来てくれるのを待ちます」
「そうしなさい。どこにいても必ず迎えに行くから」
「はい。雑渡さん、ありがとう」
走って迎えに来てくれるなんて思ってもいなかった。それも、実家を探し当てた上で慌てて来てくれた。
雑渡さんはもう父のことは何も言わなかったし、私も何も言わなかった。私はもうこの話はこれで終わりにしたかったし、今日のことはなかったことにしたかった。そして、私は今さら居心地の悪い実家に戻るつもりは毛頭ない。私の家は雑渡さんと暮らしているあの居心地のいい家だから。
家に帰ってから雑渡さんに「ただいま」と言うと、雑渡さんは「おかえり」と言って微笑み、優しく抱き締めてくれた。
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