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「…つまり、まだ肩入れしたい、と?」

「そういうことになりますね」

「お前、暑さで頭がおかしくなったか」

「この熱はどちらかといえば彼女がもたらしたものですが」

「そう言われたら儂が強く出れんのを知っているな?」

「ええ、まぁ」

「儂を手玉に取るとはいい度胸だ」


社長はニヤリと嫌な顔で笑った。もう後には退けない。正直、ここまで私もあの会社に肩入れすることになるとは思ってもみなかったし、面倒ごとが増えることになることは確実だから嫌で仕方がない。それでも、なまえの父親の会社からあの男を引き摺り下ろせば少なからずなまえは傷付くことになるだろう。それだけはどうしても避けたかった。それと、別に認めてはもらえなくてもいいが、なまえと親子の縁を切らせるようなことはしたくなかった。駆け落ちするのは簡単だ。だが、なまえは優しい子だ。昨日も相当考え込んでいた。復縁できるものならした方がいいことは確実だ。


「三倍だ。年度末までに利益を今の三倍に増やせ」

「三倍、ですか」

「できないのか」

「…やってみます」

「それさえクリア出来るのなら先日の無礼はなかったことにして、今後も社長は据え置いてやってもいいだろう。上納金もお前が望む10%に下げてやってもいい。ただし、必ず利益を三倍上げろ。出来なければ即捻り潰すことを忘れるな」

「ありがとうございます。至急、契約を交わし直します」


一安心して社長室を出ようとすると、背後から溜め息が聞こえた。あからさまに呆れられている。
一つの企業に思い入れるな、と新人の頃に叩き込まれるし、私も部下にそう言うだろう。人の気持ちを考えてばかりいると、必ず耐えきれなくなって潰れる。人から恨まれることの多い職業であることを絶えず忘れずに仕事だと割り切って淡々とこなしていかなければならない。そんなこと、何年もやっているのだから私だって分かっている。
だけど、どうしても割り切れなかった。なまえによく似たあの男から会社を奪うことも、あの男を路頭に迷わせることも。ミイラ取りがミイラになってしまった。私がなまえを愛したことで生じた誤算ではあったが、致し方がない。
応接間に行くと、既に相手は来ていた。偉そうに腕を組んでこちらを睨みつけてくる。それが精一杯の虚勢であることくらい分かるが、この男と共に経営を軌道に乗せるのは骨が折れそうだ。どう考えても私を敵対視しているのだから。


「これ、新しい契約書。一通り目を通して」

「ふん…」


嫌そうに受け取って目を通していくうちに、随分といい条件になっていることに気付いたのだろう。それはそうだ、上納金が35%から10%に下がっているのだから。


「年度末までに利益を今の三倍にあげないといけないから」

「無理に決まっているだろう」

「それをやるんだ。私は経営のことは専門外だ。だが、卸先と仕入れ先なら紹介できる。まずは一人でやって欲しい。それで無理なようなら、私も一緒に経営にまわるから」

「どうしてそこまでお前が動く?」

「なまえの父親だからに決まっているでしょ」


でなければ、ただでさえ忙しいのにこんな面倒ごとを自ら請け負うものか。本当は今だってやりたくないのだから。それでも、やらずに後悔するぐらいなら、やって後悔した方がずっといい。それはなまえと関わってからよく学んだ。
私に出来るだろうか。こんな安請け合いをしてしまって、本当に自分らしくない。思わず溜め息が出た。


「…よし。お前、今日暇だな」

「いや、忙しいですけど」

「そうか。じゃあ、仕事が終わったらうちに来い」

「は!?忙しいんだってば」

「分かった。待っている」


ポン、と判子を押して出て行ってしまった男を呆然と見る。苦手だわー、やっぱりこの男。付き合い方が分からない。
仕事のことか、それともなまえのことか。何にしても、行きたくない。とはいえ、これから長い付き合いになることは間違いないわけで、行かないわけにもいかなかった。
なまえに一報入れてからチャイムを押す。今日の夕飯は鰆の西京焼きだから早く帰りたい。というか、もう帰りたい。


「おかえり…は違うか。お疲れ様です、雑渡さん」

「あれ?なまえも来てたんだ?」

「うちに迎えに来られて無理矢理、ですけどね」

「あぁ。成る程…」


そういうことをするから嫌われるんだよ、お前は。なまえまで呼んでいるということは、間違いなく仕事の話ではなく、なまえの話だということだ。一晩寝かせてこの親子は少しは落ち着いたのだろうか。
リビングに案内されると、既に料理が並んでいた。その香りからなまえが作ってくれた物だと分かりホッとする。


「あぁ、やっと西京焼きが食べられる」

「そんなにお好きでしたか?」

「いや、普通」

「普通に好きなんですね?」

「うん。ご飯ちょうだい」

「はい。普通盛りでいいですよね?」

「うん」


鰆を割ると味噌の良い香りがした。久々に口にする西京焼きを味わっていると、グラスにビールが注がれた。


「どうも?」

「いいか!俺はまだお前を認めたわけではない」

「はいはい」

「だが、今回の件に関しては感謝している。いいな、今回の件に関しては、だからな!それを勘違いするなよ!?」

「それは仕事となまえ、どっちのこと?」

「どちらもだ」


無理矢理グラスを合わせられ、飲まされる。本当、素直じゃない。この男は普通に礼くらい言えないのだろうか。
それでも、なまえとどんな会話があったかは知らないが和解できたのならよかった。そう簡単に仲は修復できないかもしれないが、これがきっかけとなるのなら喜ばしい。


「お前、なまえのこと本気なのか?」

「昨日、伝わらなかった?」

「お前はかなりの遊び人だと聞くが、どこまで本気なんだ」


ぐっ、と米が喉に詰まり、思わず咳き込む。私の悪名はここまで届いていたか。これはまずいことになったなと思った。父親としては浮いた噂を耳にして平然とは出来ないだろう。
どう言い訳しようか悩んだが、どうも雰囲気は悪くない。


「雑渡さんはそんな人じゃなくなったの。多分」

「多分てなに。私、今はもうなまえだけだから」

「なまえのどこがそんなにいい?普通の娘だろう」

「何でそんなこと言うのよ!」

「至って普通の意見だ」

「酷い!父親なら可愛い娘とか言うものでしょ!?」

「世間一般でいえば、なまえは普通の娘だろう」

「はいはい、喧嘩しないの」


まだ危うそうな関係を嗜めてから味噌汁を飲む。なまえの作る味噌汁って何でこんなに安心する味なんだろう。
味噌汁のしじみを掬っていると、で?と詰め寄られた。


「で、とは?」

「なまえのどこにそんなにもお前が惚れ込んだんだ」

「どこって言われてもねぇ…」

「普通、スッと出てくるものだろうが」

「さぁ、普通はどうだか知らないけど。一言で言うには多過ぎるというか…あえて言葉にはし難いというか…」


なまえの好きなところなんて挙げればキリがない。見た目も中身も好きなんだから。その中から一つ選ぶとしたら何だろうか。これはなかなか難しい質問だ。答え難い。


「あぁ、そうだ。そんなに知りたければ月に一度こうして食事を摂った時にでも教えてあげるよ。それでいいでしょ」

「月に一度って…私、月に一度この人と会うってこと?」

「そう」

「それは絶対に嫌です!」

「あらま。まだ嫌われてるよ、あんた。頑張れー」

「うるさい!お前に言われなくとも頑張るわ!」

「無理だから。もう、本当に私はお父さんが無理だから」


そしてまた二人は言い合いを始めた。
なまえと結婚するまでにこの二人は完全に和解できるだろうか。してもらわないと困る。バージンロードでこの男からなまえを受け取る未来しか私は認めない。だから、せいぜい頑張って仲を修復して頂かないと。私がどんなに望んでも得られなかった縁で、心からこの二人の歪なようで深い関係が私は羨ましいと思っているのだから。


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