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「何それ」

「求人情報誌です。暇なので、アルバイトしようと思って」

「駄目」

「えっ」


私は長い夏休みに入った。大学の夏休みは夏から秋にかけての二ヶ月間もある。雑渡さんはお盆までお休みがないし、ずっと家にいても暇だからアルバイトでもしようと考えたわけだ。なのに、即答で駄目だと言われてしまう。


「どうしてですか?」

「心配だから」

「心配?そんな危ないことはしませんよ?」

「変な男が寄ってきたらどうするの?」

「そんなことあるわけないじゃないですか」

「いいや、なまえは可愛いから絶対に危ない」


だから駄目、と、とりつく島もない雑渡さんはネクタイを外して床に投げた。どうしてこの人は床に服を脱ぎ捨てるんだろう。すぐにクローゼットに掛ければいいのに。
それよりも、雑渡さんはよく分からないことを心配しているようだった。私は自慢ではないけど可愛いわけではない。私のことをこんなにも可愛い可愛いと言ってくれるのは雑渡さんくらいなものだ。過大評価は時に嬉しいけど、今は迷惑なだけだ。そんなよく分からない理由でアルバイトを禁止される筋合いはない。というより、もう辞められない。


「実はもう決まってるんですよ」

「はぁ!?」

「このカフェです。短期ですけど」

「面接にもう行ったってこと?」

「はい。今日」

「聞いてないんだけど?」

「今、言いましたよ?」

「どうしてそんな大切なこと、事後報告するの?」

「大切なことって…大袈裟な」


雑渡さんの目が怖くなった。すっと冷たいものに変わっていくのがはっきりと分かる。物凄く怒っているのだと分かったけど、やっぱり私は何をそんなに雑渡さんが怒っているのかよく分からなかった。だけど、それを口にすることは出来ないくらいの雰囲気を雑渡さんは醸し出していた。
雑渡さんは怒っていることを隠しもせず、低い声で言った。


「アルバイトに行くことは許さない」

「雑渡さんの許可なんて要りません」

「へぇ…そもそも、なまえに勤まるとは思えない」

「な、何でですか」

「トロくて、流されやすく、覚えも悪いから」

「私のことそんな風に思っていたんですか!?」

「事実でしょ」

「もういい!とにかく、働くから!」

「あぁ、そう。もう勝手にしなさい」


お互い顔を逸らす。雑渡さんはネクタイを拾ってクローゼットのある寝室に行った後、バスルームに消えていった。私は既に完成していた夕飯を一人で食べて、片付ける。片付け終わったら私もシャワーを浴びた。リビングに戻ると雑渡さんは新聞を読みながら夕飯を食べていた。とても行儀がいいとはいえないその姿にうんざりしたけど、特に何も言わずに寝室へと入った。
ごろごろとしながら雑渡さんに言われたことを思い出す。トロくて流されやすく、覚えも悪い。そうですね、それに関しては別に否定はしません。だけど、これでも精一杯頑張って生きている。なのに、それを正面から否定されたのは頭に来たし、雑渡さんにそう思われていたことが悲しかった。
しばらくすると雑渡さんも寝室に入ってきた。慌てて寝たふりをすると雑渡さんは溜め息を吐いた。そして、私に背を向けて横になった。
翌朝、一人で起きた雑渡さんは朝ご飯を食べずに仕事に行ってしまった。こうして私たちは同じ家で暮らしているけど、すれ違ったままの生活を送っていた。会話はないし、目も合わせない。一緒に食事も摂らないし、寝る時の距離もある。
そして、遂にアルバイトの日が来た。今日と明日の二日間だけ。近くでイベントがあるからお客さんが増えると見越しての増員だった。私に任された仕事は珈琲を運ぶことと、テーブルの片付けをすること。たったそれだけ。だけど、聞いてはいたけどお客さんは凄く多かったし、ミスはしなかったものの緊張をずっとしていたからクタクタだ。
次の日もやっぱり混んでいた。動きっぱなしで足が痛いし、緊張しているから凄く疲れてしまう。それでも、ちゃんと仕事出来ているんだぞ思いながら終えた二日間はとてもいい経験になったと思った。
仕事が終わって、店長さんにお礼を言う。帰ろうとすると、紙袋を渡された。中には珈琲とケーキが入っている。


「頂いていいんですか?」

「それ、君の彼氏さんが最後に渡してって」

「えっ。来てたんですか!?」

「あ、やっぱり気付いてなかったんだ。彼氏さんも言ってたんだ。何に対しても一生懸命な子だからって。邪魔したくないって言って声も掛けずに帰っちゃった」

「全然気付きませんでした…」

「いい彼氏じゃない。まぁ、何か牽制されたけどね」

「牽制?」

「君に惚れているってこと。じゃあ、お疲れさま」


紙袋を抱いて家に帰る。雑渡さんが来ていたなんて気付かなかったし、予想もしていなかった。まさか私が働いているところを見に来るなんて。
ぼんやりとケーキを食べて珈琲を飲んだ後、部屋を見渡す。雑渡さんと私が暮らす家。だけど、最近は目も合わせなかった。凄く寂しかったし、本当はアルバイト中に一目でもいいから姿を見たかった。そのくらい、私は雑渡さんの顔を最近見てはいなかった。寝顔さえも。
危ないから遅い時間に家から一人で出ないこと、と言われていたけど、電車を乗り継いで大きなオフィスビルに行く。時間は19時過ぎだから、きっともうすぐ終わって出てくる…かもしれない。そんな期待をしながらしばらく待っていると、雑渡さんが歩いてきた。私が声を掛ける前に雑渡さんは驚いた顔をしながら声を掛けてきた。


「…何してるの」

「仲直りしようと思って」

「夜に出歩くなと言ったでしょ!?」

「だって、早く会いたかったから」

「よく言う。昼間、私に気付きもしなかったくせに」

「むぅ…じゃあ、声掛けてくださいよ」

「そんなことしたら、間違いなく溢すでしょ」

「否定できませんが…」


二人で並んで歩く。たったそれだけのことなのに、凄く久し振りな気がした。駅に向かって歩きながら雑渡さんは夜に出歩くなとか、人に愛想を振り撒くなとか文句ばかり言っていたけど、手を握ると、黙った。


「雑渡さん、相談せずに決めてごめんなさい」

「………次からは必ず先に言うこと」

「はい」

「というより、本当はアルバイト自体行かせたくないんだからね?そのへん分かってるの?」

「分かってますよ。でも、いいんでしょ?」

「…まぁ、応相談」


雑渡さんは決して謝ってはくれなかった。だけど、その代わりにたくさん好きだって言ってくれた。駅前のファミレスで唐揚げを食べて家に帰る。
今度、あのカフェに二人で行こうとねだると、雑渡さんはそうだねと短い返事をしてから私を抱き締め、寝室へと引っ張っていった。そして、数え切れないほどのキスをして、お互い確かめ合うように抱き合った。離れていた分を取り戻すように。
きっと、雑渡さんと喧嘩なんてこれからもたくさんするんだろう。だけど、こうしてたくさん話し合って、解決していければ、それでいい。そうしてお互いをたくさん知っていければ、きっと雑渡さんともっと深い関係になっていけるだろうから。喧嘩しても仲直りすればいい。お互いが嫌いになって喧嘩したわけではないのだ、お互いが好きだから喧嘩しているのだから、きっと喧嘩にも意味がある。
そう雑渡さんに言うと、少し考えた後でそうだね、と微笑んでくれた。私だけに向けてくれる笑顔を久し振りに見ることができて私は上機嫌で眠りへと落ちていくことができた。


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