48


今年も夏休みが貰えた。いや、貰えて当然のことなのだけど、それでも私が長期休暇を得ることはなかなか困難なことだった。休む分、前もって働かなければならず、特に予定もない私は例年お盆も出社して仕事を片付けていた。
だけど、今年からは別だ。なまえがいる。おまけに、なまえは学校が休みで、ずっと家にいる。せっかくなまえが休みだというのに私は仕事をしなければいけないことが嫌で、毎日それはそれは必死に仕事をこなした。陣内には普段の倍のペースで働いていると言われたけど、そうしなければ到底終わるとは思えない量のタスクが残っていた。それでも、頑張れば終わるもので、こうして夏休みを獲得することができたのだ。死ぬかと思ったけど、やってよかった。そうはっきりと思える。だって、ここは天国だもの。生きていてよかった。


「どうしました?」

「いや、可愛いなぁと思って」

「…どうしました?疲れ過ぎておかしくなりました?」

「おや、悪いのはこの口かなぁ?」


つねる代わりにキスをする。途端に頬が紅く染まるものだから愛らしくて仕方がない。私を惑わせる才能がある子だ、本当に。どんどん好きになっていく。


「ひ、人前で…」

「誰も見てないでしょ」

「そういう問題ですか」

「じゃあ、離そうか?」

「ひぃっ!絶対に離さないで!」


ぎゅうっとしがみついてくるなまえが可愛くて、本当に来てよかったと思った。
今日はプールに来た。夏といえばプールでしょうとなまえが言ったからだ。そんなわけで車を出して隣の県までわざわざ来てみた。私自身がプールに入ること自体学生の時ぶりだし、ましてや女と来たことなど一度たりともなかったのだが。成る程、これは来て正解だったと思った。
私は別に誰に教わったわけでもないが、それなりには泳げる。だが、なまえは泳げなかった。いや、ここまでは予想通りのことだ。ただ、なまえの背が低いが故にプールの底に足がギリギリ届かず、私にしがみつくしかない状況となった。これは美味しい。水着なんてほぼ下着のようなもの。露出の高くないものを選ばせたとはいえ、これは私にとっては褒美としかなり得なかった。
波の出るプールに今いるわけだが、当然背の低いなまえは顔に波がかかる。髪も顔も水で濡れて、あわあわとしている姿が何とも愛らしい。ぎゅうっと抱きつかれた。


「溺れる…っ」

「ははは。お前、本当に面白い子だね」

「何が面白いんですか!?」

「だって、私が抱えているんだから溺れるはずないでしょ」

「絶対に離さないで下さいね!」

「はいはい」


床に届かない足を懸命にバタつかせながらなまえは揺れる水面を楽しんでいた。本当は子供用の低いプールがいいようだけど、流石に人目があって恥ずかしいようだった。確かに幼い子供ばかりがいる所で遊ぶのは気が引けるだろう。私たちに子供がいるのなら別だけど。
いつかなまえとの間に子供ができたら、こういう所に連れてきてやりたい。その時は流石に浮き輪を用意しないといけないだろうか。でも、こうしてなまえと堂々と身体を密着させることが出来なくなるから、やっぱり嫌だなぁ。仕方がない、子供は水泳を習わせて泳げるように育てよう。うん、それがいい。生まれる前から教育方針が決まった。


「…なに笑ってるんですか?」

「いや、別に」

「どうせ、馬鹿にしてるんでしょ」

「別に?なまえが泳げないことなんて百も承知だし。むしろ、予想通りで可愛いなぁと思っているけど」

「どうして雑渡さんは泳げるんですか」

「さぁ。何か運動神経いいんだよね、昔から」


私は何でも人並み以上にはできた。勉強も運動も。だから、退屈だった。何をやってもそれなりに出来ることは周りからは厭われたり、羨ましがられたりしたけど、どちらかといえば出来ないことの方が私からしたら羨ましかった。その方が努力のしがいがあるから。
ここ最近で、いや、人生で一番努力したことはなまえに好かれることくらいか。何をしたら喜ぶのか考えたり、周囲に聞いたりすることは案外と楽しいことだった。それでなまえが予想よりも喜んでくれるから、益々何でもしてあげたくなる。なまえが喜んでくれるなら私は何だって出来る自信がある。極端な話、人を殺めてこいと言われても、やってのける気がした。そのくらい私はなまえを愛していた。彼女の笑顔が得られるのなら、出来ないことなど何もない。大袈裟でなく、そう思っていた。なのに、なまえが望むのは小さなことばかりだった。一緒に過ごしたい、身体を壊さないで欲しい、とごく小さな望みしか言ってこない。それは遠慮しているからではなく、本心のようだった。高級な物を欲しがることもなく、一緒にいられるだけで幸せだと言ってくれるなまえの甲斐甲斐しさが愛おしくて、想いは募るばかりだ。


「雑渡さん、泳いで来たら?」

「いいよ、別に」

「せっかくプールに来ているのに?」

「こうしてなまえといる方が楽しいもの」

「はぁ…私、水泳教室に行こうかな」

「駄目」

「どうしてですか?」

「こうして過ごせることが私は幸せなのだから、私の楽しみを奪うような真似はしないでよ」


夏なんて暑いだけだと思っていた。だけど、なまえとこうして過ごす日々はとても価値のあるものだ。
お盆休みは短い。だけど、たくさんなまえと出掛けたい。たくさん思い出を作って、より仲を深めていきたい。
来年は海外旅行にでも行こうか、と言うとなまえは嬉しそうに笑ってくれた。この笑顔のためなら有給をくっ付けて夏休みを延ばすために頑張れる。8月ももう半ばだ。だけど、これから楽しいことがたくさん待ち受けている。ジャグジーで泡を集めているなまえの手を握り、希望に溢れた未来の予定を二人でたくさん話し、たくさん笑い合った。


[*前] | [次#]
小説一覧 | 3103へもどる
ALICE+